第六章 君を、助けさせて欲しい
そこまで一気に話し終えると、プールサイドには、先ほどよりもさらに深く、重い沈黙が降り立った。
遠くで響くクラスメイトたちの楽しげな水しぶきの音や歓声が、まるで厚いガラスの向こう側の出来事のように、二人の耳には全く届かなかった。
さやかさんは、完全に硬直していた。
彼女の手の中で、隠し持っていた弟の写真は、皮膚が白くなるほどの力で激しく震えていた。彼女の大きな瞳から、溜まっていたものが堰を切ったように、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ、長袖の制服の膝の上に、いくつもの黒いシミを作っていく。
彼女は、俺の過去の壮絶さに怯えたんじゃない。
目の前にいる俺が、彼女が今まさに味わっているのと全く同じ『誰にも言えない地獄』を、骨の髄まで知っている人間だと、魂の底から理解したからだ。
「俺はね、さやかさん」
俺はベンチからゆっくりと立ち上がり、彼女の正面に回って、その涙に濡れた虚ろな瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「今のさやかさんが、どれだけの地獄の中にいるか、痛いほど分かるんだ。毎日家に帰るのが怖くて、お母さんにいつ殴られるかビクビクして、世界中で自分だけが独りぼっちで、誰に『助けて』と言っていいかも分からない。その、息もできないような絶望を、俺は知っている」
俺はもう一歩、彼女の震える身体に近づいた。
「あの時、血を流して道路を這っていた俺を、大人はみんな無視して逃げていった。タバコを押し付けられた時も、長男の部屋で泣いていた時も、誰一人として、俺の手を握ってくれなかった。ずっと、ずーっと、暗闇の中で独りだった」
俺は、自分の制服の胸を、痛いくらいに強く握りしめた。
「だから……さやかさん。俺に、あなたを助けさせてほしい」
「え……?」
さやかさんが、涙に濡れた目を大きく見開いて、掠れた声を上げた。
「さやかさんを助けることは、あの時、誰にも助けてもらえずに、部屋の隅で震えていた小さい頃の俺自身を、救うことでもあるんだ。あなたの苦しみを、俺に半分背負わせてほしい。もう一人で耐えなくていい。俺が、あなたの盾になるから。お願いだから、俺に、あなたを助けさせてください」
さやかさんは唇を激しく震わせ、俺の制服の裾を、指がちぎれんばかりの力でギュッと掴んだ。
彼女の心を何年も縛り付け、世界を拒絶させていた冷たくて分厚い『見えない壁』が、今、激しい音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。プールサイドの眩しい太陽の下で、二人の運命が、確かに重なった瞬間だった。




