9.青柳先輩の試合。
いつもより早い時間に登校すると、校門をくぐったところで柊先輩を見つけた。
そう言えば、あれからどうなったんだろう?
小走りで近付いて、顔を覗き見る。
頬は治ってるみたいだけど、鼻に痛々しく絆創膏みたいなのを張っている。
ちょっとためらった後、声をかけてみる。
「あの、先輩、大丈夫です?」
「何が?」
「何がって、鼻。骨とか折れちゃったんですか?」
柊先輩が立ち止ってため息をつく。
「鼻骨骨折。全治一ヶ月。後遺症はないし、俺の完璧な鼻にも跡は残らない。自転車でこけたことにしてるし、君らは何の心配もいらないよ」
「そんな意味じゃないですよ。ごめんなさい、非道いことして」
「君が謝ることじゃないでしょ? 変な同情とかいらないから」
そう言って、私を押し退けるようにして去って行った。
教室に入ると、咲乃がにこやかに迎えてくれる。
「おはよう、伊奈!」
「おはよ」
「どしたの? 元気ないね」
「柊先輩。鼻、骨折だって」
「自業自得だよ」
咲乃はケロリとしてる。
「あのさ、それって冷たすぎない」
「伊奈に悪さした奴がどんな目に遭おうと、知ったこっちゃないよ」
冷たい言い方だ。前から気になっていたけど、咲乃は他人に冷淡なところがある。
二人でいると、今でもたまに告白してくる男子と出くわすが、全員その場で無茶振りをして断っている。この前は、ニューヨーク発の宝飾ブランドが売っている、ダイヤモンドの首飾りを今日中に持って来いと要求した。相手はただの学生なのに。
思わずため息をついてしまう。
「伊奈は誰にだって優しいね」
「咲乃が冷たすぎるんだよ」
「まぁ、それが私という人間だから」
自覚はあるのか。
「それより試合、明日だから」
「分かってる。味付けは私が言った通りにするんだよ?」
「でもオリジナリティを……」
「私が言った通りにするんだよ?」
「……分かった。つまんねーの」
口を尖らせて、「ブーブー」と一人でブーイングをする。
そして土曜日。まずは咲乃の最寄り駅で待ち合わせ。
ホームで待っていた咲乃は、白いショートパンツに、薄く黄色いショート丈のシャツというシンプルな出で立ち。その分、素材が際立つ。私は黒いブラウスに黒いパンツ。制服で来ようか本気で悩んだ。
「見た目重いね。今度服、買いに行こうよ」
歯に衣着せないご感想である。
そのまま同じ電車で県立体育館へ。
「こういう時、携帯便利でしょ?」
「まぁ、そうかもね」
連絡先を交換したら、毎夜電話やらメールやらでうっとうしいことになるかと思っていたが、咲乃は滅多に電話をして来なかった。メールも放課後は一日数件程度だ。これは意外だった。
咲乃に聞いたらやぶ蛇だと思ったので黙ってそのままにしているが、正直助かっている。咲乃なりに気は遣えるらしい。
咲乃は扉の脇にもたれかかって、つり革にぶら下がっている私と向かい合っている。窓から日の光を受けた咲乃の姿は、そのまま写真に撮ればファッション雑誌に載ってもおかしくない。自然、全身を眺めてしまう。
「足、全開ですね」
今日はサンダルなので、付け根から爪先まで完全に露出している。スラリと細くてシミ一つない。正直うらやましい。
「サービスサービス」
ウインクをしてくる。
こうやって靑柳先輩を籠絡しているのである。計算高い、ずるい女である。
「お弁当、ちゃんと言った通り作った?」
ぶら下げいてるランチバッグを見る。咲乃が露骨に顔を逸らした。
「やっぱ、手作りはオリジナリティだと思うんだよねー」
「青柳先輩、大事な試合なのにお腹壊しても知らないよ?」
午後も試合があるので、お昼はあまり食べられないらしい。それがせめてもの救いである。
陸上グラウンドと敷地を同じくした体育館に向かう。近付くにつれ、いろいろな学校の部員達がミーティングをしている。事前に電話で呼び出しておいた青柳先輩が入り口付近で待っていた。制服だ。
青柳先輩に連れられて、観客席に腰を下ろす。畳の敷かれた会場が見渡せる。運動部の試合を観るなんて初めてだ。ちょっとだけ緊張してくる。
少し離れたところに秋篠高校の生徒達がいる。身体が大きいし、多分レギュラーじゃない柔道部員だろう。私達と別れた青柳先輩がそこへ座る。
「あれ? 靑柳先輩ってレギュラーだよね?」
「二年の時は県大会四位だよ」
「でもなんであんなところにいるの? もうすぐ始まるよね?」
「それもそうだね。青柳! ちょっとこっち来い!」
他の生徒もいるのに、平気で先輩を呼び捨てにした。いや、青柳先輩にも体裁ってものがあるんだけど。
青柳先輩が犬みたいに飛んで来て、咲乃の前に立つ。
「レギュラーがこんなとこで油売ってていいの?」
「大丈夫です」
「でも、他の選手、会場に出てきましたよ。間に合うんですか?」
「俺、今日出ないんで。出場停止なんです」
「なんでさ? 何かやらかした?」
ピンと来た。
「柊先輩殴った件ですか?」
青柳先輩は無言。
「あいつ、チクったの?」
咲乃の声に怒気が混じる。
「いや、それはないって。柊先輩、自転車でこけたことにしたって言ってたし」
「そんなの信じらんないよ。裏でチクったんだよ、あの野郎」
「違います。俺が自分で監督に言ったんです」
「何て?」
「他の生徒殴ったって」
「はぁ? なんで言うのさ。向こうが悪いんだし、しらばっくれときゃいいんだよ」
「いや、殴ったのは事実だし。そういうのはちゃんと報告しないと」
馬鹿正直だ。馬鹿正直この上ない。
監督に知られてもしらばっくれるのはどうかと思うが、わざわざ自分から言わなくてもいいんじゃないのか? 実際、柊先輩はなかったことにしてくれてるんだし。
「あんた馬鹿でしょ? 大事な試合だよね? ずっと練習してきたんだよね? それ自分から潰してどうするのさ」
「黙ってるなんて、俺にはできないです」
彼に融通って言葉を教えてあげたい。でももう手遅れだ。試合には出られない。今まで頑張ってきたのが水の泡となってしまった。
高校三年生で、公式試合なんて後いくらもないだろう。その大切な一つを棒に振ったのだ。馬鹿正直だけで済ませていいのだろか? 彼なりの苦悩があったに違いない。
「はぁ、もう知らないよ。馬鹿の相手してらんない。向こう行きなよ」
咲乃が邪険に手で追い払う。
すごすごと青柳先輩が戻っていった。
「今のは言いすぎでしょ?」
「でも馬鹿でしょ?」
「確かに馬鹿正直だけど、元々私達のために殴ってくれたんだよ?」
暴力はよくないが、私達、特に裸の咲乃を見て逆上したのだ。私達にも責任があるんじゃないか?
「勝手に殴ったんだし、勝手に暴露したんだよ。知ったこっちゃないよ」
「それって非道いって」
「この話終了」
ブスッとふて腐れて、膝に肘を載せると会場に視線を固定した。
「咲乃ってば」
「終了」
開会式の後、試合が始まる。
そうすると、咲乃はバッグから双眼鏡を取り出して、熱心に試合を見だした。
「ほら、伊奈見てみ、重量級はたまらんですよ」
私に双眼鏡を押し付けてくる。
「いいってば」
私はまだ怒っている。それに元々筋肉なんて興味ないのだ。
「何しに来たのさ。じっくり堪能しなきゃ」
また双眼鏡を覗く。口が半笑いだ。
この切替えの速さは何なんだ。本当なら青柳先輩もあそこで試合をしているはずなのだ。それを気にかけることもなく、ご趣味の筋肉ご鑑賞だ。付き合ってられない。
青柳先輩を見てみる。他の部員達が声を出して応援している中、青柳先輩は一人黙ってジッと会場を見つめ続けている。あの中には、本当なら対戦するはずだった相手がいるのだろう。あるいはライバルみたいな存在もいるのかもしれない。前回はベスト四。今回はもっと上を目指すつもりだったはずだ。
拳をギュッと握りしめている。今にも血が流れ出てきそうだ。部員達が歓声を上げる。ウチの学校が勝ったみたいだ。しかし青柳先輩は身動き一つしない。
見ていられなくなってきた。
私は立ち上がると、部員達の方へと歩いて行く。咲乃は双眼鏡を覗いたまま少しも気付かない。青柳先輩の横に立つと、他の部員の何人かがこっちを見た。何も言っては来ない。みんな、青柳先輩のことはそっとして置こうと決めているようだ。
青柳先輩の隣に座る。顔は見れない。
「ごめんなさい」
「何が?」
「私のせいですから。間抜けな私が柊先輩に捕まって。それさえなければ」
「姫も君も無事でよかった」
「でも青柳先輩は無事じゃなかった。大切な試合なのに」
「俺が勝手にしたことだから。殴ったのも、試合に出ないって決めたのも」
「監督が出るなって言ったんでしょ?」
青柳先輩を見上げる。
「違う。俺から出ないって言ったんだ。監督を困らせてしまった。でもこれはケジメだから」
馬鹿正直。どこまでも馬鹿正直だ。自分に対して。
「咲乃に付き合ってたら、こんなのばっかりですよ?」
「それでもいいんだ。それも俺が決めたことだから」
「訳分かんないですよ」
床に眼を落とす。頭が混乱してきた。
「分かってもらおうとは思わない」
思わず青柳先輩を睨み付けた。
向こうは相変らず会場を見つめたまま。
「格好付けないでよ! あんな女の犬やってるくせに!」
「親友があんな女なんて言うんじゃない」
相変らず落ち着いた声で語りかけてくる。
「先輩にとって柔道って何なんですか? 今もずっと試合を見てる。本当は出たかったんでしょ? 出るために練習してきたんでしょ? 私が全部悪いんですよ。怒鳴られなきゃいけないのは私なんですよ。私に怒りをぶつけて下さいよ」
「君は何も悪くない」
「そんなわけないじゃない。私のせいで咲乃にも恥ずかしいことさせたし。先輩が殴る相手は柊先輩じゃなくて私ですよ」
「姫にとって、君は何物にも代えがたい大切な存在なんだ。そんな君に怒りを向けるなんてことはしない」
「咲乃、咲乃、咲乃。この犬畜生め!」
「そうだ。俺は森田咲乃の犬なんだよ」
青柳先輩は静かな眼で私を見た。
「犬畜生め」
「その通りだ」
もう顔を見ていられない。うつむいて床に眼をやる。
何? この人。素直に怒鳴られた方がよっぽどマシだ。私みたいなのに罵られてるのに、涼しい顔をして咲乃の犬だなんて言っている。あんな穏やかな眼で私を見るなんて。