19.胸に空いたこの穴も。
週明け。
あれから一晩泣き明かした。
何に泣いたのかは、よく分からなかった。
気だるい。何かを喪ってしまった。大きな、大事な物だ。
でももうなくなった物だ。なくなった物は存在しない。始めから存在しなったのかもしれない。
そうだ。始めからなかったのだ。
今まで通りに生きていけばいいのだ。
ようやく起き上がる。
鏡を見ると、眼の腫れた、ウェーブのかかった栗色の髪をした少女がいた。
あ、メイクしなくっちゃ。
教室に入る。
私の隣には派手なクラスメイト。名前は知らない。知ってたまるか。
そいつがこっちを向いた。
「ケッ、化粧なんて色気づきやがって」
毒づいて向こうへ顔をやった。
無視だ。
「よう、昨日、どうだった?」
桃瀬さんだ。
「最悪だった。全てなかったことになったよ」
「ん? 振られた?」
「ていうか、私の勘違いだったよ。好きなんて最初からなかったんだ」
「ふーん、よく分かんないな。サキ、何か知ってる?」
「その女と私は一切の関係がありません。よって、知るよしもありません」
隣の女が桃瀬さんに向かって声を出す。
「え? 喧嘩?」
「私はかぐや姫で、その女はただの地味女です。そもそも対等の関係ではないので、喧嘩なんて発生のしようがありません」
「うわ、派手にやらかしてるみたいだね。ま、早く仲直りしなよ」
桃瀬さんが手を振って去っていく。
そうなのだ。絶交した相手が隣にいるという状況は、実に面倒くさいのだ。
そもそも、こいつは他の男子と替わってもらってこの席を確保したのだ。絶交したからにはまた移動すべきではないだろうか? とは言え、私から話しかける気は毛頭ない。
とにかく無視である。
授業中、いきなりこめかみに衝撃が走る。かなり痛い。クラクラしながら床を見ると輪ゴムが転がっている。
嫌々ながらも横を見ると、割り箸で作った狙撃銃を構えたかぐや姫があらせられた。
ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべてくる。
「謝りな」
無視。
「生意気言ってすみませんでしたって、土下座したら許したげるよ」
無視。
脇腹に痛み。
それでも無視。
太ももに痛み。
なおも無視。
「そもそもいつの間にスカートの丈上げてるのさ。その辺からして気に入らないね。そのぶっとい太もも赤く染めてやんよ」
太ももに痛み。
太ももに痛み。
太ももに……
睨み付ける。
「お? 謝る気になった?」
床に落ちた輪ゴムを拾い、指で銃を作ってかぐや姫に発射。顔面に命中。
「イタッ」
眼を押さえてうつぶせになる。
「非道いよ、眼はないよ、見えなくなったらどうするのよ」
え? やばい?
「大丈夫?」
身を乗り出して顔を覗き込もうとすると、ニタリと顔を上げた。
「嘘だよ、バーカ」
太ももに激痛。銃を押し付けて発射しやがった。思わず涙がにじむ。
「あーやーまーれー」
もう相手にしない。
トイレに行って帰ってくると、ペンケースがなくなっていた。
案の定、かぐや姫が手で弄んでいた。
私が席についたのを確認した上で、ペンケースを開く。そしてシャープペンシルの芯が入ったケースを取り出す。
「シャーシン、全折りの刑であーる」
無視。
「全折りだぞー」
無視。
「全折り!」
音を立ててシャープペンシルの芯が砕ける。
私は涼しい顔をして、調達したばかりの予備のペンケースを取り出す。そして余裕の笑みを隣の席へ。
いわゆる柳眉を逆立てたかぐや姫が、私のペンケースを投げ返してくる。机の上に飛び散ったペンを慌てず回収。
「伊奈のくせに生意気だっ!」
どこかのアニメのいじめっ子みたいなことを口走る。
昼休み。
当り前だが、私は自分の弁当しか作ってきていない。隣の奴がどうするか見ものだったが、自分でパンを買いに行った。犬を使うのかと思っていたので、ちょっと意外だった。
しかし購買で欲しいパンをゲットするのは慣れないと難しい。ご所望の品が手に入らなかったらしいかぐや姫が、膨れっ面をして戻ってきた。コッペパンをかじっている。
ちらりと物欲しげに私を見たのを、しっかりと眼の片隅で捕らえる。
「はー、我ながら美味しいわ」
隣から歯ぎしりの音が聞こえてくるようだった。
かぐや姫の相手ばかりもしていられない。昼休みのうちに柔道部の監督のところへ行って、マネージャーを辞めさせてもらう。
「森田は何て言ってた?」
「森田さんですか? いいえ、特に?」
「そうか、あいつが珍しく頭を下げてきたから、乗倉のマネージャーも許可したんだがな」
「そうなんですか?」
「あいつ、勝手に武道場に出入りするのを注意しても、なんだかんだ屁理屈をこねて絶対に言うこと聞かないからな。それがしおらしく頭を下げるんだから、逆に気味が悪かったぞ」
「あの人、かぐや姫ですからね。何を考えているかなんて、誰にも分かりませんよ」
とにかく無事にマネージャーを辞めることができた。これであの忌々しい犬畜生にも会わずに済む。
そして放課後はさっさと帰る。溜まっているマンガを読まなくては。
翌日もかぐや姫は低レベルな干渉を続けてきた。座ろうとした椅子をいきなり引いて、尻餅をつかせるとかそういう類だ。これにはまんまと引っかかったのだが。
「パンツ丸見えだ、バーカ」
やることが小学生レベルである。
いや、これはおかしい。私はあいつに深く傷付けられたのだ。私の傷の深さに比べると、争いのレベルがあまりに低すぎる。ヤバイ、あいつのペースにはまりかけている。
仕方なく私が譲歩した。今よりずっと離れた席にいる男子に声をかけ、席を替わってもらったのだ。根性は腐りきっているがかぐや姫である。隣の席を譲るというこちらの提案は魅力的なものであった。あっさりと交渉成立である。
ようやく安息の地を手に入れてから気が付いた。いつから私は知らない男子に声をかけられるようになっていたのだろうか?
いいや、気にすまい。私は確かに変わった。見た目だけではなく、いくらかの社交性も身に付けた。だからといって、あの女に感謝する必要など何もないのだ。過程はどうであれ、結果的に今の自分になれたのは、そうなる素質が元からあったからなのだ。そうに違いない。
授業中、いろいろと考えてしまう。私は最低な失恋をしてしまったはずなのに、そのことに思いが至ることはあまりなかった。この半年の出来事。そういうものが、気を抜くと頭を巡ってしまう。気が付くと涙が出そうになっている。自分の気持ちをどう整理したらいいのか分からなかった。
昼休みになると、男子が何人か寄ってきた。
「乗倉さん、一緒に弁当食べない?」
「え? いいよ、別に」
直前まで余計なことを考えていたので、あまり考えずに答えてしまった。まぁ、弁当を食べるくらい。
「乗倉さんって、すっげぇかわいくなったね」
「はぁ、そうかな、ありがとう」
「その割に今週元気ないよね」
「まぁ、ちょっと」
「失恋?」
「え?」
「ビンゴ!」
「カマかけたのかよ、ひでぇな」
「でも失恋なんだ?」
「まぁ、そんなかんじ」
「パァっと遊んで忘れない?」
「嫌なことはサクッと忘れるに限るって」
「それがいいのかな?」
「それがいいって。放課後遊ぼうよ」
「パァっと、ね」
「そうだね。そういうのもいいかもね」
「ダメー」
顔を上げると桃瀬さんだった。
「伊奈ちゃん、あたし達と遊ぶし、男子邪魔だから」
「ヒデーな、一緒に遊ぼうぜ」
「失恋に付け込むような連中とは遊ばせらんないから」
この後も男子達は食い下がったが、桃瀬さんは首を縦には振らなかった。
放課後、桃瀬さん達とカラオケに行く。
「仲直りした方がいいってば」
「でも、いろいろあるんだよ」
「まぁ、そうかもしんないけどさ、向こうもあんたもつらそうだよ?」
「そうかな?」
「そうだって、だから付け込まれんじゃん」
「ありがとう、助けてくれて」
「礼ならサキに言いなよ」
「え?」
「サキがあたしにヘルプ頼んだんだよ。そういう奴なんだってば」
「そうなんだ」
「喧嘩ったって、サキが悪いんだろうけどさ、伊奈ちゃん相手に悪気で何かする奴じゃないって。知ってるでしょ?」
「うん、知ってる」
知ってる。悪気があってしたんじゃない。
でも、許しちゃ駄目だと思うんだ。
それからしばらくは何事もなく過ぎていった。
席を離して以降、向こうが何かしてくることはなくなった。
バイトはシフトを替えてもらい、あいつと同じにならないようにした。
失恋に付け込もうとする男子に用心し、近寄ってきたらバイトのスキルで回避した。
そして放課後すぐに帰って、家でゆっくりマンガを読むのだ。
これでいい。
あいつのことはこのまま忘れてしまえばいい。
胸に空いたこの穴も、そのうち埋まるに決まっている。




