お菓子の家を見つけた食い逃げ妖精、住人より先に壁を食べる。
洞窟の奥に、家があった。
壁は淡い狐色に焼けていた。
表面には細かなひびが走り、その隙間へ琥珀色の蜜が染み込んでいる。窓は薄い飴硝子。屋根には何層もの焼き生地が重なり、端だけが香ばしく反っていた。
煙突は、くるりと巻いた細長い菓子でできている。
洞窟の天井には大きな割れ目があり、そこから細い光が落ちていた。
冷たい岩に囲まれた暗がりの中で、その家だけが甘い匂いを漂わせている。
「タルム」
「家だねえ」
「お菓子だよ」
「お菓子の家だねえ」
洞窟の入口で、タルムは足を止めた。
大きな甲羅の上には、赤茶色の屋根を載せた小さな家が建っている。
リリィはその屋根から飛び立ち、お菓子の家の周りを一周した。
玄関の取っ手は砂糖漬けの木の実。
雨樋には白い糖衣。
壁の根元には、焼くときに垂れた蜜が固まり、透明な琥珀のようになっている。
人の気配はなかった。
「見るだけにしようねえ」
タルムが言った。
「うん」
リリィは壁へかじりついた。
ぱき。
薄い表面が割れた。
その奥は、驚くほど柔らかかった。
温かい蜜がじわりと染み出し、焼いた粉の香ばしさが口いっぱいに広がる。
外側はさくりとしているのに、中はしっとりしていた。
壁の中には、細かく砕いた青い木の実が練り込まれている。
噛むたびに、少しだけ涼しい香りが鼻へ抜けた。
リリィの羽が大きく開いた。
「おいしー!」
金色の粉が、羽の縁からほどけ落ちた。
壁へ。
窓枠へ。
屋根へ。
長いあいだ火の入っていなかった煙突へ。
家の奥から、がたん、と音がした。
リリィは壁に抱きついたまま固まった。
口の周りには蜜がついている。
壁には、リリィ一人分ほどの穴が開いていた。
その穴の向こうに、白い髭を胸まで垂らした老人の顔が現れた。
老人は穴を見た。
リリィを見た。
もう一度、穴を見た。
リリィと老人は、しばらく見つめ合った。
「そこから食べたのか」
「少しだけ」
「向こう側まで見えているが」
リリィは老人の肩越しに、家の中を覗いた。
粉袋の積まれた棚。
冷えた炉。
長いあいだ使われていない木の台。
「タルム、逃げよう」
洞窟の入口から、タルムの声がした。
「まだ一歩も進んでいないよ」
老人は穴の向こうから手を伸ばした。
割れた断面を指で押し、染み出した蜜を舐める。
それから、ゆっくり笑った。
「まだ食べられたか」
リリィは首を傾げた。
「お菓子だから、食べられるよ」
「三十年前に焼いた家だ」
「三十年?」
リリィは口の中の壁を、もう一度噛んだ。
「まだおいしいよ」
「この洞窟は一年じゅう冷えていて、雨も入らない」
老人は、割れた壁の表面を指でなぞった。
薄い琥珀色の膜が、ぱり、と剥がれる。
「それに、外側を眠り蜜で封じてある。乾けば薄い硝子のようになって、中の菓子を眠らせるんだ」
リリィは、自分が開けた穴を見た。
「じゃあ、起こしちゃった?」
老人は振り返った。
金色の粉が、廊下の向こうへ流れている。
「家じゅう、もう目を覚まし始めている」
冷えていた炉の中で、小さな火が灯った。
ぱちり。
もう一度、ぱちり。
煙突から、細い湯気が上がる。
老人は玄関を開け、外へ出てきた。
穴の開いた壁を撫でる。
「食べるために焼いた家だ」
「じゃあ、食べてよかった?」
「町の者は、残せ、触るな、見せ物にしろと言った」
老人は洞窟の入口を指した。
外には、倒れかけた立札があった。
文字は雨に薄れていたが、
大切な菓子建築につき飲食禁止
と書かれている。
「食べちゃだめって書いてあるよ」
「わしが書いたんじゃない」
「タルムも食べる?」
「家は食べないことにしているよ」
「お菓子だよ」
「家でもあるからねえ」
金色の粉が、炉の周りへ降り積もった。
火が少し大きくなる。
甘い匂いが洞窟の外へ流れていった。
ほどなく、町の者たちが集まってきた。
最初に来た男は、壁の穴を見て叫んだ。
「大切な家が!」
次に来た女も、両手で頬を押さえた。
「三十年も守ってきたのに!」
老人は二人へ、壁の欠片を差し出した。
「食べてみろ」
誰も手を伸ばさない。
「眠り蜜の封は破れた」
老人は穴の縁を指で叩いた。
「もう眠らせてはおけん」
リリィが壁の端をもう一度かじった。
さくり。
「おいしいよ」
男が欠片を受け取った。
「本当に、食べていいのか」
「食べるために焼いたと言っただろう」
男は、おそるおそる口へ入れた。
女も、小さな欠片を割った。
洞窟の中に、壁を噛む音が続いた。
さくり。
ぱき。
さくり。
やがて誰かが屋根の端を取った。
別の者が、飴硝子を小さく割った。
子供たちは雨樋の糖衣を舐め始めた。
老人は家の中へ戻り、古い炉の前へ座った。
棚から焼き型を下ろす。
蜜の壺を開ける。
粉袋の口をほどく。
「また作るの?」
リリィは壁の穴の縁へ腰かけた。
「壁がなくなったからな」
「屋根も減ってるよ」
「屋根も焼く」
「煙突は?」
老人は煙突を見上げた。
「煙突は少し苦い」
リリィの羽が下がった。
「屋根にしておけ」
羽が戻った。
夕方には、お菓子の家の片側がすっかりなくなっていた。
その前には新しい壁を焼くための長い台が置かれ、町の者たちが粉や蜜を運んでいる。
老人は、食べられていく家と、積み上げられていく材料を交互に眺めた。
「ようやく、また焼ける」
炉から上がる甘い湯気は、洞窟の天井の割れ目から細く空へ昇っていた。
タルムは再び街道を歩き始めた。
リリィは屋根の上で、もらった壁の欠片をかじっている。
「今度は、先に聞こうねえ」
「聞いたよ」
「食べたあとにねえ」
リリィは少し考えた。
手にした壁をもう一口かじる。
「でも、食べていいって」
「そうだねえ」
背後の洞窟から、焼きたての匂いが流れてきた。
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