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濁った水  作者: 真月 一蓮


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一話

第1話


 アクセルを踏み、B国に入る。検問所を抜けるとそのまま大きな通りへ進んだ。


 ロンデル通りと呼ばれる、島を一周する通りだ(この通りは国を跨ぐと名称が変わり、ロペスが住むA国ではモック通りで呼ばれている)。レモネードが美味しいカフェを過ぎたら交差点を曲がり、ホテルへ向かう。


 いつも利用しているホテル。

 いつもと同じ道。

 ロペスは細い柄のハンドルを緩やかに回す。

 ホテルのロータリが見えた時だった。

 ピー。と、空気をつんざくような笛の音。

 前の車がブレーキを踏んだ。ロペスも端に寄せ停車する。


 「追い詰めろっ!」



 警察が男を追っていた。

 通りを強い風が吹き抜け、砂埃が巻き上がる。砂の粒がフロントガラスに当たるのを眺めながら、ゆっくりと手の汗をズボンで拭った。

 普段街中を巡回する警察とは格好が違う。黒いトレンチコートがたなびく先で、必死に走る男の背中が見えた。きちんとしたスーツ姿で、犯罪と関わりがあるようには見えない。

 前の車が動きだし、ロペスは視線を前に戻す。

 入り口の少し手前に車を停める。ホテルのボーイは恭しく案内してくれた。車のカギを求められ、渡した。そのカギはまた別のボーイへ渡り、薄手のコートを着たボーイまで回っていく。彼が車を駐車場に停めてくれるのだろう。


 「車内に忘れ物はございませんか」


 「珍しくね」

 控えめに、しかしそれと分かるようにボーイは笑う。若い割に、思慮深い瞳をしていた。


 「去年辺りから、忘れ物が増えた気がするよ」


 「まだまだ、そんな歳ではないでしょう」



 三十歳の中頃をもう少しで迎えるロペスは、確かにそんな歳ではない。

 エレベーターに乗る。ボーイの制服は細かいところまでアイロンが掛けられていた。赤と白を基調にしている制服の襟が、彼は黄色だ。受付は赤だった。


 「明日は晴れますよ。商談は何時でしょうか」


 「十一時だね」


 「では、九時にモーニングコール致します。朝食はお部屋でよろしかったですか?」


 「今回は下で食べようかな」

 レストランで食べる日があってもいい。


 「かしこまりました。九時に、コールします」

 復唱しながら部屋の鍵を開ける。

 「どうぞごゆっくり」


 エレベーターへ戻る背中を見送り、ドアをぴったりと閉じた。高級なホテルはサービスが良いけれど、肩が凝る。


 「遅いな……」


 ロペスは遠くを見やる。


 「まだみたいですね、ロペスさん」

 商品を運搬するトラックの運転手が小便を済ましてきた。

 早くしてくれ。と、彼の顔に書いてある。


 「もう少し、待ってみましょう」


 左手の袖をめくり、戻す。手首には黒革の質素な時計がはまっている。時間は大して進んでいない。ポケットに手を入れて、また出した。

 ロペスの様子は落ち着かない。

 取引相手が時間になっても来なかった。

 とっくに商品は受け渡しができるよう、トラックの外に出して並べている。遅れることは今までなかった。

 もう一度、腕時計を確認する。ちょうど視界の端で、運転席のパンフィロが申し訳なさそうな顔をしてやって来た。別にトラックも続く。



 「お待たせしてすいませんロペスさん。いや、どうにもね、ふう。急に検問所が通りに出来ていまして。いやぁ、参った」


 車から降りるとパンフィロは小走りでやってくる。少し出た腹が揺れていた。


 「検問所? ロンデル通りですか」

 B国の新聞は今朝も見ている。そんなことは書いていなかった。


 「そう。よく分かりましたね。もう大渋滞ですよ。A国との戦争が始まるっていうのは本当なんですかねぇ」


 のんびりと言うパンフィロは絵に描いたようなC国の住人だ。牧歌的で、時間の流れが緩やかなところで生きている人間だった。


 「どうでしょうか。さすがにそこまではならないと思いますけど」




 ――とても大きな島にA国、B国、C国はドーナッツを三等分するように並んでいる。島の中央を占める峻険な山岳地帯はどの国にも所属しない。

 国ごとの特色としてA国は山が多く、B国は乾燥した土地が広がり、C国は平原に恵まれている。

 中央の山岳から流れる三本の大河は、自ずとそれぞれの国境として機能した。


 最近、ロペスの母国のA国と今いるB国の関係はかつてないほど緊張している。原因はB国とC国の国境にある、シャーヌ河が茶色く濁ったことから始まった。

 シャーヌ河はB国が生活用水として使っている大河だ。濾過してなお黄色く、B国はすぐにシャーヌ河の源泉調査を始めた。だがどういうわけかそれを中止し、A国国境のドナ河を利用しようとしたのが問題に発展した。

 国が利用する河は協定で定められている。ドナ河を使うA国が反発するのは当然だった。使用を認めないと公式に通達されたB国は、井戸とまだ濁っていない細い川で水を賄っているのだろうが、いつまで続けられるかは分からない。



 「でもミサイルを撃つとか言ってるじゃないですか」


 正直に言えば、ロペスはさっさと仕事を済ませたかった。大型トラックの前に並べた農業機械を渡し、納品書にサインを貰うだけの簡単な仕事のはずだ。


 「ミサイルは流石に戦争が起きるでしょうね」


 「B国に綺麗な水を供給するのがそんなに難しいとは思えないんですけどねぇ。だってA国が無国地帯である中央の山や森を開拓し過ぎたのが原因でしょ?」


 「調査結果が出たのですか」

 決まり悪そうにパンフィロの顔が斜め下を向く。


 「いやぁ? もっぱらそういう噂じゃないですか。地層の下の方の土がシャーヌ河に混じるようになってしまったとか、聞きますが」


 最後のほうは声が小さかった。


 「私は地震のせいだと思います。B国の地質学者もそう言っていませんでしたか」


 「知ってますよ。水の流れが変わったせいでそうなったって。でもその人って、まだ若い研究者でしょ。なんというか」


 パンフィロはまだ納得していない様子だが、他国の二人には遠い話でもある。


 「真相はこれからですかね。場所の時間もありますし、――そろそろ始めましょうか」


 空き地とはいえ、長く占有するのは迷惑だろう。


 「ああ。そうですね。そうですよね、ロペスさんはいつもお忙しいから」

 彼はおもむろに農業機械の周りを歩き始める。


 「なにか質問があれば言ってください」


 土を掘り、畝を作る機械のブレードに手を置いたり、作物用の出荷コンテナを箱状に展開していた。入念に検品を終えると頷き、納品書にサインをする。


 「それでは。私はこれで失礼します」


 農業機械をパンフィロのトラックへ移すのに、ロペスは必要ない。


 「あ。待って下さい。トラックの奥にあるあれは、新作ですか」


 「あれは水を撒く機械です。綿花の栽培に向けまして」


 「ああ。なるほどお。B国向けですか。根っからの商人ですなぁ。それにしても、ここから十キロも行かないところには乾燥地が広がっているというのも不思議ですよねぇ。うちの国とは大違いだ」

 パンフィロは手で影を作り、遠くを見渡す仕草をする。ロペスもそちらを見た。


 建物があるから見えないが、この先には土とは違う、砂地の土地が広がっている。砂は土と違い、水を保持することができず、農耕は品種を選ばないと難しい。

 山育ちのロペスにはそれがどんなものなのか、実際のところ理解できていない。


 「それじゃあ私は決済があるので」


 彼がサインした納品書を、B国の銀行に提出することで代金を受け取れる。この仕組みは大きな金額が動く商業活動で役立っている。

 トラックの運転手にB国向け製品の届け先を確認してから、車に乗った。エンジンを起こすと、パンフィロは笑顔で手を振ってくれた。ロペスもしっかりと振り返す。




 「こんにちは。納品書を持ってきました」


 真面目そうな女性が受付にいる。銀行にいるから、真面目そうに見えるのかもしれない。


 「A国の銀行で現金化しますか?」


 「はい。モック通りの銀行でお願いします」


 彼女は何事か書きこみ、顔を上げた。

 「ではこちらが決済証明になります。モック通りの銀行の受付に持っていってください。失くされますと、再発行手数料をいただきます。くれぐれもお気を付けください」


 銀行での手続きを終え、通りに出る。まだ午前中なのに強い日射に晒された。

 今日は暑くなりそうだ。冷えた白ワインでも飲めれば最高だろう

 ロンデル通りは長く広い。パンフィロが言っていた検問がどこでやっているのかは分からない。パン屋へ寄るついでに裏道を使えば、国境付近までいくことができたはずだ。

 細い道をゆっくりと進む。同じ考えの車が一台、先を行っていた。

 危惧した通りロンデル通りは渋滞していた。車列が蛇みたいにうねっている。ところどころで警察が路肩へ寄せるよう指示し、車内を捜索している。



 国境を越えるには来た時と同様、大河に架かる橋を渡る。橋には入口を塞ぐように管理局の建物がある。三階建ての管理局の、一階部分がくり抜かれるようにして二つのゲートが設えてあった。入国用と出国用のゲートだった。大河を挟んだA国にも同じような建物がある。

 順番待ちの車列に並ぶ。ロペスはいつも使う出国ゲートの隣、徒歩用の列で並びがあるのを初めて見た。


 少々お待ちください――


 若い局員が不満を垂れる人々に謝っている。


 離れたところに顔見知りの局員を見つけた。

 気安いはずの彼は眉間に皺を寄せ、ゲートの上の管理局を睨む。くたびれたワイシャツとズボンの皺が、不安を隠し切れないでいる。

 ロペスが軽く手を挙げると気付いた。


 「どうしたんです」


 「政府が出国を止めています。どうやら犯罪者がA国へ逃げ込もうとしているらしくて」


 管理局と政府との力関係は知らないが、彼は迷惑そうに言った。通っている酒場が長期休暇した時もこんな顔だった。


 「それは大変だ。きっと今頃はビールを飲んでいただろうに」


 「あなたも、あっちで二本目の白ワインを開けているでしょうね」


 「早く帰ってそうしたいよ」


 「まあとにかく、俺たちみたいな下っ端は待つだけだよ」


 カラスが一羽、どこかで鳴いた。動かないことには仕方がない。

 ロペスはダッシュボードから本を引っ張り出した。帰ってから食べるつもりで買った包みを開く。ラズベリーパイの底にはパン屋自家製のマスタードが薄く塗られていて、それが甘酸っぱい味と妙に合った。

 三十分ほど経過した時だった。

 黒いスーツで全身を固めた男が颯爽と現れた。ライフルを背に下げた男の一団を引き連れている。

 エンジンを切り、これ幸いとばかりに昼寝をきめこむ運転手たちも何事か顔を上げる。

 彼らは車を順に覗き込み、ロペスが運転する車の横で止まった。


 「ロペス・ハミルトンだな。車から出ろ」

 いつの間にか、助手席側にも男が立っていた。


 「はあ。私のトラックになにか?」


 あれほど安全に運転するよう念を押したのに。

 不安な表情を押し隠し、ロペスは言われるがまま車から降りる。


 「お前をスパイ容疑で逮捕する」

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