30話 静寂の真相
30話 静寂の真相
フレデリックが帰ったあと、喫茶店「雪の庭」には、再び静寂が戻ってきた。
扉が閉まり、ベルの余韻が完全に消え去ると、店内にはアップルパイと紅茶の香りだけが残る。
「…………」
雪乃は、カウンターに肘をつき、残ったアップルパイをじっと見つめていた。
「……せっかくの“誰も来ない日”だったのに……」
小さく零したその声には、悔しさと未練が入り混じっている。
弥生は片付けをしながら、ちらりと雪乃を見た。
「……とはいえ、一人来ただけでしたよ?」
「それが問題なのよ」
雪乃は、フォークを手に取ってパイを一口食べる。
「“誰も来ない”という事実が大事だったの。途中で一人でも来たら、もう台無しなのよ」
「基準が厳しすぎませんか?」
「理想は高くあるべきよ」
忍は、いつもの無表情でカウンターを拭きながら言った。
「お嬢様、その理想を実現するには、店を閉めるのが最も確実かと」
「それはダメ」
即答だった。
「店は開けるものよ」
「しかし、来客は望まれない」
「そう」
「……矛盾しています」
「矛盾してないわ。“店主の自由”よ」
忍は、それ以上言及するのをやめた。
この手の議論は、雪乃が勝つと決まっている。
弥生はふと、外の様子が気になり、入口の方へ向かった。
「……あれ?」
「どうしたの、弥生」
弥生は扉を開け、外を確認し――そのまま、固まった。
「……お嬢様」
声が、微妙に裏返っている。
「……なに?」
「……ちょっと、こちらに」
雪乃と忍が近づく。
弥生が指差したのは、扉の横に掛けられた木製の看板だった。
そこには、はっきりと書かれている。
> CLOSE
「…………」
三人の間に、沈黙が落ちた。
「……」
雪乃は、数秒その文字を見つめ――
「あっ」
非常に軽い声を出した。
「……もしかして……」
弥生が、震える声で続ける。
「今朝……看板を……出し忘れていたのでは……?」
忍が、淡々と確認する。
「開店準備の際、看板の状態を確認した記録はありません」
「……」
雪乃は、ゆっくりと視線を逸らした。
「……つまり……」
弥生が、ぎこちなく言葉を繋ぐ。
「今日、誰も来なかったのは……」
「……“奇跡”じゃなくて……」
「……“閉店扱い”だった、と」
沈黙。
次の瞬間。
「…………」
雪乃は、ふっと肩の力を抜いた。
「……まぁ、結果オーライよね」
「よくありません!!」
弥生の叫びが、店内に響き渡る。
「それ、営業してないだけですから!!」
「でも、静かだったわ」
「当然です!」
忍が、静かに補足する。
「お嬢様。本日は“奇跡の静寂”ではなく、“単なる表示ミス”です」
「細かいことは気にしないの」
雪乃は、紅茶を飲み干し、満足げに息を吐いた。
「静かで、アップルパイも美味しくて……いい一日だったわ」
「看板が閉まっていたせいです!」
「でも、フレデリックさんは来たわよ?」
「それは……偶然です!」
雪乃はくすっと笑った。
「ね? 完璧じゃない」
「どこがですか……」
忍は看板を手に取りながら、ため息をつく。
「明日は、必ず“OPEN”にしてください」
「……努力はするわ」
「努力目標では困ります」
雪乃は返事をせず、残ったアップルパイをもう一口食べた。
「……明日も……こんな日ならいいのに」
忍は即答する。
「それは無理です」
「即答しないで」
弥生は苦笑しながら、店内を見渡した。
静かで、甘い香りに満ちた喫茶店。
働かない店主と、振り回される使用人。
それでも。
今日も「雪の庭」は、平和だった。




