二十九、永遠とも呼べる幸福
少し長くなりましたが、ここまでが一区切りなのでお付き合いくださると嬉しいです。
まるで長い夢から覚めたよう――
痛みは消え、体は感覚を取り戻していた。夢の世界を漂っていたはずの桜子は確かに無月の腕の中にいる。
「わたくしは……きゃ!」
戻ってきた現実を噛みしめる余裕も与えられず、焦点すら合う前に抱きしめられていた。
「あ、あのっ!?」
戸惑い任せの声が上がろうと腕の力は揺るまない。それどころか増す一方だ。傷を案じていた時とは違う感情を露わにした抱擁、それは父に抱きしめられた時とは違う『高鳴り』を感じさせた。
「おとうさ――」
「桜子、愛している」
耳元で告げられる甘い囁き、そこに込められた焦りある声音に酔う。
これは夢の続き?
思わず錯覚して疑うほど、桜子にとって都合の良い展開だった。だとしたらなんて幸せな夢だろう。けれどこれは現実で、優しい妖がくれた夢の続きだ。
ただ一つ、気掛かりだったことがある。
(わたくしは、あなたにとって娘? この愛情は娘へ向けられるもの? それとも――)
問いただしたいのに唇は動かずもどかしい。次第に意識が朦朧としていき、どうにか告げられたのはたった一言。けれどそれが一番の望みだった。
「一緒に、いたい」
隙間なく触れ合っていたせいで無月の体から動揺が伝わった。ややあって二人の間に距離が作られる。
「俺もだ」
ようやく顔を合わせた無月は心底嬉しそうに微笑んでいた。随分と長い間見ていなかったようで懐かしい。
無月の手が桜子の頭を引き寄せる。あまりにも自然なことに感じられて、桜子は驚くことも忘れ見つめていた。
これから何が起ころうとしているのか察した時にはもう手遅れだ。逃げることは出来そうになく、無月とて逃がすつもりはないだろう。
互いの唇が触れ、祝福のように桜が舞った。
温度を失くしていた肌には熱いくらいで、桜子は身に余る熱に浮かされた。その心は紛れもない幸福に包まれていた。
言葉がなくても、想いだけは溢れるほどに受け取っている。だから答えを急く必要もないと温もりを享受していた。桜子は妖に生まれ変わり、互いを引き裂く理由は消えた。それこそ、この先には長い時間が待っているのだから。
休息を欲していた体は、無月の腕の中で深い眠りに落ちていた。
宵闇家の一室、部屋の主は未だ眠り続けており静寂に包まれている。けれど彼女が目覚めれば瞬く間に賑わうことだろう。
案の定、桜子が瞼を開けると数秒で無月はすっ飛んできた。荒々しさを隠そうともしない足音がおかしくて笑いが零れる。それだけ心配されていた証でもあり照れくさくもあった。
「桜子!」
歓喜に彩られた声と同時に扉が開かれる。無月は入室の許可を忘れていたが今日くらいは大目に見ようと目をつぶることにした。
「おはようございます、お父様」
とても生死の境を彷徨った後には似合わない挨拶だが、釣られるように無月は「おはよう」と告げてくれる。これでよかったのだと桜子は戻ってきた穏やかな日常を噛みしめた。
「目が覚めて安心した。丸一日眠り通していたからな……。また、こうして会うことが出来た。心から嬉しく思う」
安堵したまま入り口で固まっていた無月だが、離れていた時間を埋めるように足を進める。
「わたくしも、嬉しい」
桜子が体を起こせば、両肩に無月の手が置かれた。
「見せろ」
「はい?」
何を――、そう問う前に、あろうことか無月は桜子の着物に手をかける。
「なっ! てっ、手がっ、お父様!?」
「だから、見せろと言っただろう」
「何を!!」
顔を真っ赤にして桜子は叫んだ。
「女性の着物を脱がそうなど、いったいどういった神経!」
着物の合わせを必死で押さえ激しい攻防が続いく。
「傷はもう癒えているのか? 痕も残っていないか? お前が心配なんだ」
「だ、だからと言ってもこれは!」
よくよく見てみれば夜着に着替えさせられている。ここで誰がという発想は羞恥を増長させるので考えないことにするが……。血まみれの着物で眠り続けずに済んだことを素直に喜んでおこう。清潔な寝具を血で汚したくはない。
とはいえ現在進行形で行われている無月の行為は認められるものではなかった。
「き、傷痕? 痛みも感じませんし、癒えているはずです。痕なら後でひっそりと確認しますから、今は放っておいて! わたくしが無事なのはお父様も見ていたはず、もう大丈夫ですから!」
渾身の力で押しのけているのにビクともしない。それどころか手加減されているのだろう無月の表情は余裕そのもので、この攻防すら楽しまれているのではないかと懸念してしまう。
「確かに、あの妖は長く日ノ宮家にいたせいかお前との相性がいいようだ。副作用の心配もないだろうが――」
言い淀む無月からは不安が消えていない。そうさせているのは目の前で撃たれた自分を案じてのことだと思えば嬉しい――けれどそれとこれとは話が別である。
「いいですか、お父様と呼ばれていようが、許されることと許されないことがあります。これは明らかに許されぬ方! 年若い娘の着物を脱がせようだなんてあり得ない! 誰か助けて、コハクちゃーん! この人、いえ妖? どちらでもいいわ。とにかく乱心しています、誰かー!」
叫び続けていればコハクが助けに現れるかもしれない。淡い期待を抱いていれば案の定、だがコハクにしては乱暴に扉が開かれる。
「無月様、病人相手に発情など嘆かわしい。お嬢様が困っていますよ。とっとと止めやがれ見苦しい」
「ありが――って、苧環!?」
常より低く不機嫌そうな声に反応が遅れていたが、入り口付近の壁に背を預けているのは自分を撃ったはずの相手。身なりはいつも通りの黒い燕尾服なのだが、やけにボロボロなのは気のせいではないだろう。顔の至るところには傷がある。
どうしてここにいる? しかも若干口が悪くなって……とはいえまさに天の助けであり、人間は単純な生き物だ。
物言いたげな眼差しを無月に投げかけると、ようやく諦めたのか着物から手が離れてくれた。
「こいつは無賃金で半永久的にこき使うことにした。それが一番の地獄になるだろうからな」
意地の悪い笑みで睨めば、苧環は顔を逸らして盛大に舌打ちする。
「だが撃たれたのはお前だ。したいようにして構わない。手足の一つでももいでおくか? お前が望むのであれば俺が叶えてやろう」
とびきりの笑顔でボキボキと指が鳴らされ、あからさまに怯えた苧環が可哀想に思えてしまった。
物騒な決定権をゆだねられても困る。己の判断に他人の手足をかけたくはない。
「わたくしにその様な趣味はありませんから、お父様の判断に同意しておきます」
だからやめてあげてと提案を拒否する。同情なんて甘いことだと笑えばいい。それでも冷酷になりきれないのが人間で、契約上の仕事だとしても苧環と過ごした時間が消えるわけではないのだから。
「お嬢様、わたくし無月様ではなくお嬢様専属になって構いませんか?」
猫なで声が発せられると、桜子と無月は同時に溜息を吐いていた。
「それは無理よ」
「それは無理だ」
甘い桜子へと乗り換える魂胆らしいが、即座に本人と保護者から切り捨てられる。
「ちっ!」
今度ばかりは誰からの同情も得られず、舌打ちと悪態をついて苧環は退散してしまう。無月の暴挙から救ってくれたことに関しては、桜子は心の中でしかと感謝を告げておいた。
「ところで桜子、お前に礼がしたい。欲しい物はあるか?」
「何の話? わたくし感謝される憶えは……」
怒られそうな要因はいくらでも思いつくが感謝となると頭をひねる。
「怖ろしい女だな。命を危険にさらしてまで助けてくれたというのに、無欲とは呆れてしまう」
無月は知らないだけだ。桜子は慈善で行動したわけではない。全て自分の欲のために動いただけのことで、そこに感謝を示されるいわれはないのだと。
黙り込んだ桜子に折れたのは無月だ。
「礼で思いつかないのなら、謝罪代わりだと思えばいい。お前の人生にはこれから償うつもりだが、突き離して傷付けたことは消えない事実だ」
「お父様……」
こうまで言われては無下にするわけにもいかない。何か言わなければと思い悩むが、意外にも望みはすぐに閃いた。
昔からひそかに憧れており結論に時間はいらなかったのだろう。
ずっと憧れていた物、けれど口にしてみれば無月はそんなもので良いのかと目を見張っていた。
「もっと高価な――着物でも強請ったらどうだ? 遠慮する必要はない。本当に、お前は欲がないな」
呆れた様子の無月だが桜子は毅然と反論する。
「そんな物って気軽に言うけれど、わたくし家族写真なんて一枚も持っていないから……」
すねるようにそっぽを向いた。
互いの価値観は大きく異なっている。人と妖、種族の違いがなかったとしても育ってきた環境が違えば当たり前のこと。そんなことは桜子もとっくに理解しているが、それでも家族写真に憧れていた気持ちを否定されたくはないと子どもじみた不満が生まれてしまった。
「いや、お前の気持ちを否定したつもりはない」
不満げな態度を敏感に察したようで無月は追及してこない。
「……そうだな、俺とお前は家族。家族写真のひとつも必要か」
桜子の望みこそが、まるで自分の望みでもあると言いたげに了承してくれる。
そんな限りなく思い付きの提案であるが、なんと撮影はすぐに決行されることとなった。桜子の希望を叶えるべく無月が迅速な対応をした結果だ。実際に動かされたのは苧環であるが。
舞台は玄関ホール。階段を背にて桜子は椅子に座り、無月は寄り添うように立っている。
桜子は馴染んだ袴姿、無月も着慣れた軍服姿であった。記念に残るものであり統一感を持たせてはどうかと進言した苧環だが、和装と洋装、相反する不安定さこそが自分たちらしいと、いつも通りの姿で望むことになった。
出来る限りのお洒落をして撮影に望んだ桜子は、初めての撮影に緊張してぎこちない笑みを浮かべている。
(平気? わたくし笑えている?)
背後に無月の気配を感じながら今か今かと待っていた。
気がつくと、膝の上で組んでいた手に無月の手が重ねられている。何事だろうと様子を窺う前に無月の唇が耳元に寄せられた。
「俺とお前は親子だが、父と娘だけが世に言う家族ではない。そうだろう?」
(それは、どういう意味?)
すぐにでも聞き返したい。でなけれ自分に都合の良いように解釈してしまいそうだ。けれど勝手の分からぬ桜子はひたすら固まっているしかない。せっかくの家族写真を失敗に終えたくはないのだ。
たとえば兄と妹、たとえば夫と妻。それらも家族であると、そんな関係が脳裏を過る。
緊張交じりだった桜子の笑顔は、抑えきれない満開の笑顔に変わっていた。いつかそうなりたいと頬がゆるんでしまう。
撮影は無事に終えることが出来た。
撮影をかってくれたのは苧環だ。正確には有無を言わさぬ無月の命令であるが、コハクはそんな苧環を監視する役目を言い使っており横でじーっと一挙一動を睨みつけている。
「桜子様、撮れましたよー!」
なるほど、もう動いても許されるらしい。
高い位置にあるはずの姿を探して桜子は見上げるが、見計らったように何かが唇に触れる。その感触は記憶に新しく……
桜子の唇は音を紡ぐ前に塞がれていた。
「はいはい、余所でやりやがれ」
苧環の毒吐く嫌味も遠く聞こえてしまう。
余談ではあるが、苧環は丁寧な口調の中にもさらりと毒を混ぜるようになっていた。猫を被るのは辞めたのだとか。
コハクは視線をそらしては目を泳がせ、必死に見ないふりを努めていた。
屈むようにされた口付、この日を忘れることはないだろう。たとえどんなに時が経とうと憶えている。親子の終り、恋人という関係への第一歩だった。
「ねえ、もう一枚撮らない? 次はコハクちゃんも一緒に。これはわたくしからの景気付け!」
桜子が手をかざせば室内にはどこからともなく桜の花弁が降り始める。まるで雪のように音もなく舞っていた。
「そういえば……わたくし、なんという妖なのかしら?」
素朴な疑問であり、無月もしばし考えこんでいた。
「あの妖自体が名のある存在ではなかったが……。桜の妖、だったな。元を辿れば千年生きた桜の木、千年桜というのはどうだ?」
「そのままね」
不満はないが、つい率直な感想を紡いでしまう。
「妖とはそういうものだ」
「千年桜……」
噛みしめるように呟けば身体に沁みわたるようだった。
「あなたがくれた大切なものが、また増えた。これでわたくしの名付け親になれたわね」
「光栄だ」
桜子には既に二つの名前がある。生まれ育った日ノ宮ともう一つ、妖に引き取られこれからの人生を歩むための宵闇。そして新たに妖としての名が増えたところだ。
「能力も桜に由来しているようだし、似合いだろう。お前は俺が知るどんな妖より美しい」
「それは、いくらなんでも褒めすぎ!」
この世にどれ程の妖が存在するか桜子は知らない。けれど苧環の話で想像していたより多いことは漠然と把握している。それを『どんな妖より』など褒めすぎにもほどがあるだろう。
「そうか?」
照れもせず言うから性質が悪い。自分の方が照れてしまうと桜子は慌てて頬を覆う。けれどこんな風に穏やかな時間を過ごしていられることが、たまらなく嬉しかった。
桜子には長い時間が待っている。それこそ永遠にも感じられる長い生は、たとえ親や兄がいなくなっても、桜子を知る人間が死に絶えても終わらないだろう。
身近な誰かが寿命を迎える度、いくつもの悲しみが襲い胸の痛みを実感するのだ。
けれど桜子は孤独ではないし、不幸でもない。たとえどんなに時が経とうと、傍らの妖だけは永遠に傍を離れることはないのだから。
いよいよ次で終わります!
目指せ、有言実行!




