第一話 赤目のネピリム(1)
机の上に積み重ねられた報告書の山を見て思わず溜め息が出た。一体どれだけサインすればこの書類の山は無くなるんだ、と赤毛の頭をガシガシと掻く。執務室の窓を見やると、西日の光が射している。
「昼か……」
ペン立てに羽ペンを戻し、窓の方へ向かう。気晴らしをするには、外の空気を吸うのが一番いい。
大聖堂の窓から見下ろすマーテルの町並みは、いつもと何ら変りなく平穏に見えた。快晴の青空を仰ぎ、大きく深呼吸する。日の光に照らされた穏やかな町並みを眺めていると、この国へ来て本当に良かったと思える。
生まれ育った故郷の地は、控えめに言って最悪だった。互いの腹を探り合い、相手の弱みを握ろうとする人間達で溢れかえっていた場所だ。気に入らない事があれば力で相手をねじ伏せる。それが例え肉親であっても、だ。
(嫌な事思い出しちまった……)
そんな事をぼんやり考えながら町を眺めていると、窓の外から翼が風を切る音が聞こえた。ふわり、と一枚の白い鳥の羽が室内の床に落ちたかと思うと、直後、真っ白の大きな塊が窓際に舞い降りて来た。その塊はこちらの姿をその青い瞳で捉えると、まるでこちらに呼びかけるようにカァ、とひと鳴きした。
「スノウ……!今回は随分早いな」
小首をかしげてじっとこちらを見つめ、佇む全身真っ白なカラス。その左脚にはいつものように美しいアラベスクの彫刻が施された銀の筒が取り付けられていた。筒へ手を伸ばし、中に入っていた紙を取り出す。紙を広げると『あと二日程でそちらに到着する』と大き目の文字で書かれていた。その下には何やら細かな文字が並んでいたが、目を通そうとした刹那に聖堂の鐘が鳴り、やむなく読むのを辞めた。昼の鐘の音はネピリムへの祈りの時間だが、蒼衛騎士団の一隊長である自分にとっては違う意味を持つ。
「会議の時間だ。悪いが、手紙は後でゆっくり読ませて貰うよ」
カラスは賢い事で有名だが、このカラス、スノウは人の言葉さえも理解しているように思う。だから、いつも人に声を掛けるように接してきた。この十年間、ずっと。
腰のポーチに手紙をしまい、行ってくると目配せすると、スノウは再びカァ、と鳴きペタリと窓際に座り込んだ。
スノウはこちらが手紙の返事を書き終えるまで、いつも俺の傍から離れない。伝書鳩とは違い、俺と自分の主人の間をその身一つで行き来するのだ。どうやって俺達を探し出しているのか未だに不明だが。過去に最長で一週間程待たせた事もあったが、それでも絶対に傍から離れなかった。カラスが特定の人間を主人と認める事など聞いた事が無いが、スノウの主――手紙の送り主はネピリムだ。真っ白なカラスというだけでも非常に珍しいが、ネピリムに付き従っているとなると、こちらが思っている以上に特別なカラスなのかもしれない。
◆◆◆
昼下がり、マーテル大聖堂の会議室にいたのは総長アトラスを含む俺達騎士隊長の六人、そしてこの大聖堂の主であるネピリムの少女ノアの計七人だった。普段、ノアは滅多な事が無い限りは会議には参加しない。
「何かあったんですかい?」
ノアの方を見ながら、一早く声を上げたのはボイジャーだった。焼けた肌に短い金髪、鋭い眼光をした大柄な男だ。奴はヴェストリア人にしては大きい方だと思う。恐らく百九十センチ近くあるのではないだろうか。太っている訳ではなさそうだが、骨格のせいか横にも若干大きく見える。
「北国の小国コルディアでな、厄介な事が起きた」
視線だけをボイジャーに向け、綺麗に整えられた白い顎鬚に触れながら、いつもの低く穏やかな声でアトラスは呟いた。
「コルディア……?例の、古代遺跡から近い場所ですね」
自分の右隣りに腰かけているディーゼルが割って入る。金髪碧眼で目鼻立ちが整っている、所謂美青年というやつだ。正義感があり言葉遣いも丁寧で、騎士団のみならず庶民からも評判が良い。
「察しが良くて助かる。お前達は幾度となくネピリムの聖典を読んできただろう?これは『大いなる厄災』の前兆だ」
大きく溜め息をつき、アトラスはノアに視線を送った。
「三日前、コルディアに異形の怪物が出現したと伝令から報告があったのです」
鈴を転がすような声でノアが口を開いた。外見は十五、六歳といったところか。透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな青い瞳。そしてネピリムの最大の特徴である水色の髪を頭の両サイドで結っている。純白の祭服に身を包んでいる為か、自分の知人のネピリムと比べると随分神秘的に見える。
「か、怪物……?『大いなる厄災』の怪物は架空のものでは?」
ボイジャーの隣に座っていた唯一の女隊長、エミーラが思わず声を上げた。俺自身もそうだが、異形の怪物などにわかには信じられない。
「聖典にもあるように、三百年前にも異形の怪物は古代遺跡から実際に出現しています。……とはいえ貴方方が架空の話であると思うのも仕方のない事ですね。当時直接目撃した人間など、もうこの世には存在しないのですから」
一同は一瞬、沈黙した。
俺達人間は百年も生きられない。だがネピリムは違う。彼らがいつ誕生したのかは不明だが、彼らは年月が経っても一向に年をとらない。知人のネピリムやノアから聞いた話では、優に二千年は生きているとの事だ。きっとノアは三百年前に現れた例の怪物を直接見たのだろう。それを証明するには、記録として残す他術はない。
「コルディアの状況が気になりますね。もう三日経っている。近隣国から援軍は送られているのでしょうか?」
俺はノアに尋ねた。怪物の事を信じた訳では無いが、コルディアの民が何者かに脅かされているのは事実なのだろう。だとしたら、対処せねばならない。
「一番近いアウラから支援部隊が送られている筈です」
「アウラ……あそこも小国です、兵の数が少な過ぎる。イグニスは……?」
「イグニスが動かない事はその国の出身者である貴方が一番理解しているでしょう、グランディス様」
ああ、そうだ。俺の生まれ育った土地、それがイグニスだ。強力な軍隊を持っている事で有名だが、それは自衛の為にしか使わない。他の土地や民がどうなろうと、知った事ではないというのがイグニスの考え方だ。
「馬鹿者共め」
あの国にはいつも失望させられる。本当に、吐き気のする国だ、あそこは。
「……それで。コルディア以外に被害が出ている所は?」
今まで黙りこくっていたセーブルがぼそりと口を挟む。痩せており、漆黒のような黒髪と瞳が印象的な男だ。疲れている訳では無さそうだが、昔からギョロリとした目の下のクマが気になっていた。
「今の所報告は無い。だが『大いなる厄災』の事を考えれば、事が落ち着いたとは思えん。……次の伝令を待つ。我々はマーテルの防衛を強化、隣国からの応援要請にも応えられるように待機する他ない」
アトラスがそう言い終えると、ノアは目を閉じ唇を噛んで俯いた。彼女はいかなる時も冷静だった。それが今、表情を曇らせている。俺には、彼女のその表情がこれから起こる事を強く覚悟しているように見えた。