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Fligit35-紅い牙と暗い爪が交わる夜に



 夜の従者のような黒。

 暗の核心のような黒。

 陰の化身のような黒。

 影の臨界のような黒。

 冥の混沌のような黒。

 闇の極致のような黒。



 それは、俺に黒い霧を幻視させる程の殺気を自らの中に取り込み、この世の黒をすべて喰い殺すような暗殺者。

 新井月朔夜は、不機嫌な気持ちを隠すことなく顔に出し、その金色に輝く瞳で正面の男を睨みつけていた。



「にしても、テメェよくやるよなぁ。数年前のスられたモンを取り返しに来るなんて、随分とまぁネチネチした野郎だ。少し気配を撒いただけで釣り上がってくれるのはありがてぇが、なんか気持ち悪いし胸クソ悪い」



 同一の体でありながら、それは完全な別人。

 逃走者のように優しくなく、虚言師のように虚ろでもない。

 殺意と暴力の渦のような暗殺者の攻撃的な立ち姿に、正面に立つ百爪は全身を使って深呼吸をする。

 その一回の呼吸で、百爪は地獄のような黒に対する覚悟を得た。



「……君こそ、置き引きのような真似をするなど、四谷最強の名が泣くぞ」

「勝手につけられた名前が泣こうが、俺の知ったことじゃねぇし、テメェにいわれる筋合いはサラサラねぇよ」

「それは私も同じ」

「つまり、ゴチャゴチャいわずにさっさとやろうってことか」



 言葉を返すことなく、腕を後ろへ伸ばし臨戦態勢に入る百爪。

 小さく鳴る刃の音が、その言葉を肯定しているようだった。

 だが、黒猫の言葉はそれを否定した。



「息巻いてるところ申し分けねぇんだが、テメェの相手は俺じゃねぇ」



 巻き戻すような手際の良さで、目の中に入れられる紅い虹彩のコンタクトレンズ。

 暗殺者を中心として渦巻いていた深遠の黒さは、主を失って跡形もなく霧散する。

 消失した黒色の殺気。その後に残されたのは、虚構めいた赤色の影。



「四谷財閥の最悪であり、三流の嘘吐き。『晦月の遠呂智』こと三十日八雲が、再びお相手させていただきます」



 人を馬鹿にしたような科白のもとに、嘘吐きは戦場へと舞い戻る。

 それを見ていた百爪は、表情を隠す帽子の下で大きく舌打ちをした。



「おや? 私が相手ではご不満なようですね」

「一度倒した相手にようはない」

「己の望みを叶えるためならば、一族の掟を破り同族の血さえ啜る、強食思考かつ冷徹な暗殺者である百爪様ともあろう御方が、息の根を止めていない相手を倒したとおっしゃるのですか? だとしたら、随分とお優しい」



 遠呂智の言葉に、抑え込まれていた百爪の殺気が膨れ上がる。

 黒猫のような常識外れの現象は起こらないが、俺達のいる場所の空気さえ張りつめる。

 その殺気を受ける遠呂智は、取ってつけたような笑みを浮かべる。

 そして、本物の人殺しに対し、何食わぬ顔でいってのける。



「先に申し上げますが、私は貴方ほどの方に殺されるつもりはなく、殺すつもりもありません。ですから、精々悔いの残らないように、徹頭徹尾出し惜しみなく本気で殺しにいらしてください」



 それは宣戦布告ではなく、一方的な勝利宣言。

 悪びれもなく堂々と、嘘吐きらしく淡々と語られる言葉に、百爪の殺気はさらに膨れ上がり――抜けるようにして萎み、小さくなる。

 それは、まるで嘆息のように。



「一度殺されかけた相手にそのような口を利けるとは、どのような思考なのか……いや、なにが君にそこまでさせるのか。自らの敗北を濯ぐためか。それとも白獅、色葉の弔いか……」

「そのようなことも分からないのですか? まるで跳べない鳥を彷彿とさせる記憶力ですね」



 呆れの混じった百爪の言葉を遮るように、遠呂智は感情を含まない言葉で呆れを示す。

 そして、夜闇に輝く深紅の瞳は――激情たる怒りを映す。



「『僕』の後輩に手を掛けた。私が貴方を打ちのめす理由は、それで充分でございます」



 異様な空間に毒され動けずにいた和倉姉妹が、俺にも聞こえるほど大きく息を飲む。

 今の遠呂智――駆にとって、和倉姉妹は学校の後輩であり、俺の提案からとはいえ自宅に招き入れたこともある。

 だが、そこまで関わってしまえば、駆にとって二人は身内同然。

 困っていれば手を差し伸べ、助けを呼べばすぐに駆けつけ、楽しい時は一緒に笑い、哀しい時は優しく慰め――その涙の原因を叩き潰す。

 たとえ、和倉空海との約束がないとしても、百爪が恩人達の仇でなかったとしても、あの馬鹿は自分の傷など思考の彼方へ吹き飛ばし、二人を傷つけるすべての前に立ちふさがっていただろう。

 そのすべてを喰らい尽くすがために。



「もうお話はよろしいでしょうか? 役を与えられていない貴方には、そろそろ退場していただきたいのです。残念ながら、自主退場は認められませんけれど」



 炊きつけるように繰り返させる安い挑発。

 手練れならば乗ることのない陳腐で軽い言葉の数々。

 しかし、それは虚ろな言葉を操る虚言師の口から紡がれるものに似ていた。

 そう――人を狂わせる虚言に。



「――いいだろう。もう拘ることはない。なりふり構うこともない。その首、狩り取らせてもらう」



 なにかを捨てるように言い切った百爪は、右手に握った爪の刃先を自らの喉元へと持っていく。

 黒く光る刃先は、ゆっくりと下へ向かい、その先にあるスーツやシャツを何の抵抗もなく切り裂いていく。

 そして、上半身の衣服を縦一線した刃が止まり、その素肌が曝された時、その異常に気付いた。



「私も黒剣と白盾同様、血の罪を濃く受け継いだ者の一人。それも、とびきり醜悪な罪を」



 それはスーツの切れ目から、悪寒が走るような生々しい動きで姿を現す。

 数えるのなら、四本。

 百爪の腕ほどの長さを有し、できの悪い針金細工のような姿をしたそれは、明らかな異形でありながらも見覚えのある形をしていた。



「これが君のいう私の本気だ。私自身、この姿が嫌いでな。他人に見せるなど吐き気がするが仕方ない。見るのならばその目に焼きつけ――君も同じ嫌悪に抱かれろ」



 使い物にならなくなったスーツやシャツは、袖などに先程と同じように切目を入れられ、ただの布切れとなって地面に落ちていく。

 それと同じくして、百爪の背中で何かが蠢き、布切れとなった衣服の残骸を払い落とす。



六狩手ろくのかりて



 それは――腕だった。


 百爪の脇腹に二対に、背中から一対……通常あり得ない場所から生えた合計六本の腕。

 大柄に見えた体躯は、その腕を隠すためだったらしく、外気に触れた百爪の体は想像よりも細く、骨張っている印象を受ける。

 そして、一番の特徴である六本の腕は、外見のみで歪な形をしているのが分かる骨を、溺死体を思わせる鈍く透き通る白い皮膚が包み、暗青色の血管がその皮膚を押し上げ、表面に生々しい模様を浮かび上がらせる。

 指は親指にあたる一本がなく、指先からは骨らしきものが白い肉を突き破り、黒色に染めた爪のような模様をつけていた。

 和倉空海とは違う意味で人から外れた姿に、和倉姉妹は息を呑み、俺も自分の身体が強張る。



「悪いが、首だけを残すなどという手加減はできない」



 六本の腕が横方向に振るわれると同時に、地面に落ちたスーツから無数の刃が飛び出す。

 尺度も形状も統一性のない無数の凶刃は、不規則な軌道を描きながら、遠呂智の隙を狙うように取り囲んでゆく。

 逃げ場を失った遠呂智だが、その紅い瞳は百爪だけを見据え――虚言を紡ぐ。



「Tamdiu discendum est, quamdiu vivas.」

赧斬あかぎ



 虚言の二の句を繋ぐ前に、刃の群れは収縮するように遠呂智に殺到し、その身体を喰らい尽くす――はずだった。

 血肉に染まるはずの凶刃は空を斬り、乾いた刃が()ち合う音が夜闇に響く。



「Omniamea mecum porto.」



 停止していた刃の群れが、夜闇に響く声に反応して弾かれるように動きだす。

 風を切る刃は、操り手である百爪の傍を掠めるように通過する。

 その目標は、突如として目の前から消え、背後に出現した遠呂智。

 意表を突かれるような状況に対しても、戸惑うことなく素早く手を打つ百爪。

 それに対し、遠呂智はただ立ち尽くすのみ。



刀戯とうぎ――無刀愛撫むとうあいぶ



 棒立ちの状態から、まるで風に流されるような動作に移った遠呂智は、自らに襲い掛かる刃の側面を撫でるように触れる。

 その手に触れられた刃は、元の軌道を大きく外れ、遠呂智を斬りつけるに至らない。

 一つ、二つ……フェイントなどを含んでいるだろう刃達を、遠呂智はすべて捌ききった。

 目標を仕留められなかった刃の群れは、百爪の指先から伸びる極細の糸によって軌道を変え、不規則なタイミングと予測困難な軌道で再び遠呂智に襲い掛かる。

 しかし、その刃が血濡れることはない。



「あれは……どちらが化物だ?」



 視界の先で繰り広げられる圧倒的な技と洗礼された技の拮抗に、和倉妹から驚愕の声が漏れる。

 六本の腕から放たれる刃は、時には統率された獣の群れのように乱れなく目標を追い詰め、時には餓え狂った獣のような不規則な動きで目標に迫る。

 一方、縦横無尽な動きで襲い来る凶刃の群れに対し、防ぐことも退くこともせず、そのすべてに反応し、その動きに合わせ見過ごし、回避し、受け流し、その斬撃の嵐を捌き切る。

 下手に加勢すれば一瞬で場が崩れ、どちらに転ぶか分からなくなる状況で、和倉妹は手を拱き、俺は静観し、和倉姉は――見抜いていた。



「和泉センパイ」

「なんだ」

「あれは自己暗示ですよね」



 虚を突くような的確な指摘に、俺は一瞬言葉を失う。

 遠呂智が最悪と呼ばれ、自らを三流と呼ぶ理由をいとも簡単に見破った……しかも、明確な確信を持って言いきったのだ。

 これはもう観察力や洞察力といったものではなく、物事からなにかを感じ取っていると考えるべきだろう。

 これが和倉姉の力……いや、これは和倉美海の性質なのだろうか。

 俺は和倉美海というものを確認するかのように問いに答える。



「そうだ。あれは一種の自己暗示。しかし、あれは常人の自己暗示とは一線を画す。あれは酷く醜い一人遊びだ」

「一人遊び、ですか?」

「自らが自らを騙し尽くし、自らが自らに騙され尽くす。その間に自覚や疑念の余地はなく、一切の矛盾を無視する。この世で最も馬鹿げた自己完結。そんなものに意識も無意識も関係ない。そして、今の遠呂智は嘘吐きではない。あれは――刀を愛し、刀に愛される者」



 俺が語る間にも、人と刃の接触は幾度となく繰り返されるが、鋭く光る刃がその肉を切り裂くことは叶わない。

 痺れを切らしたのは――刃の主。

 今まで微細な動作で刃を誘導していた六本の腕を、乱雑に振り下ろす。

 今まで自由自在に動いていた刃が、見えない手によって叩き落とされるように降下し、乾いた土のグラウンドに突き刺さる。

 まるで――遠呂智を囲うように。



餐壌さんじょう



 六本の異形な腕が、暴れ回るように関節の可動領域を無視して動く。

 その動きに応えるかのように、グランド全体を覆う夜闇の中で、星のような光が瞬く。

 そして――遠呂智の肩口が裂け、地を這う星空に鮮血が花開いた。



「センパイッ!!」



 和倉姉が叫ぶ。

 しかし、ヒュンヒュンと風を斬る音が複数重なり、その声をかき消した。

 二十を越える刃が捕らえきれなかった遠呂智を切り裂いたのは――刃と百爪を繋ぐ超極細の糸。

 百爪の腕が生理的な悪寒を覚える動きで振るわれ、その指と地面に食らいつく刃を繋ぐ幾本の糸が凶刃となって遠呂智を襲う。

 分厚い刃より威力は劣るが、広範囲に広がり高速で動く糸は檻のように遠呂智を逃がすことはなく――外部からの接触を遮断する。

 和倉姉の踏み込みかけていた足が宙を彷徨い、力なく先ほどまでと同じ地面を踏む。

 苦渋の色に染まる表情が、決意によって塗りつぶされた。



「……美空。センパイが倒れたら、私が糸をなんとかするです。ですから、美空は百爪をお願いするです」

「分かった。まずは、あの気持ち悪い腕をへし折ってやる」

「くれぐれも無理はしないように、ですよ」

「姉さんこそ」



 和倉姉は遠呂智を犠牲として百爪を討つことに決めた。

 元々、和倉姉妹の目的は復讐であり、その目標は遠呂智から百爪へと変わったが、二人の目的に支障はない。

 百爪の奥の手らしきものも見ることができ、連戦となれば手負いの二人でも()がある。

 これが終った後で和倉姉妹が同族殺しを討った者として一族に迎えられるのか、同族殺しとして一族に 追われることになるのかは俺の知る範疇ではない。

 しかし――駆はその両方をよしとしない。



「そうだろう? 駆」



 俺は遠呂智の方に目線を戻す。

 左肩、右腕、背中、左足……体の至る所に鋭い斬痕が刻まれ、右腕に関しては処置したばかりの傷が開き、流れ出す血が黒スーツの袖をベットリと濡らしている。

 しかし、遠呂智は自らの傷など眼中になく、その紅い瞳は百爪を見据え続けていた。

 そして、血濡れた腕を懐へ伸ばし、取り出したのは銀色の光。

 手に収まるほど小さなそれは、刀と同じく生物を切り裂くために存在しながら、その命を救うために振るわれる白銀の刃――手術刀(メス)

 凶器としては限りなく鋭いが、武器としては小さすぎる、この場に不釣り合いな代物。

 しかし、それは紛れもない『刀』だった。



「刀戯――」



 その小さな刃を手に右腕を横薙ぎに振るうが、動きは緩慢といえるほど遅い。

 防御など考えもしていないだろう遠呂智に対し、暴れ回る糸の一つがその頭部を強かに打ち据える。

 無防備な状態で食らった急所への攻撃に、力なく左へ振れる遠呂智の体。

 しかし、足はしっかりと地面につき、右腕は体の傷に構うことなく一定の速度で動いていた。

 ぐったりと落ちていた首がゆっくりと動き、こめかみから溢れ出る血に塗れた顔を上げる。

 自らの血で瞳や白目さえ紅く染まった右目が百爪を捕らえた瞬間――右腕の手術刀が振りぬかれた。

 そして、糸が大気を切り裂く音が……いや、この場を満たす全ての音が消えた。

 その音のない世界で、遠呂智の声だけが空しく響いた。



「――払刀斬波ふっとうざんぱ



 嵐の前の静けさは一瞬。

 無音を割くザンッ、という音と、音に不釣り合いな光なき爆発。

 炸裂した大気は、グランドの砂利を吹き飛ばしながら、雪崩のような砂埃とともに風の瀑布となって俺達にまで襲いかかる。

 十秒にも満たないだろう短い嵐は、身を屈めて耐える俺の意識を断絶寸前に追いやるほどの衝撃を撒き散らした後、跡形もなく消失する。



「……ッ、大丈夫か」

「こちらは、問題ない」



 視覚、聴覚……塗り潰されていた感覚が元に戻る。

 和倉姉妹は俺より早く危険を察知していたらしく、地に伏せることで上手く嵐を凌いでいたようだ。

 二人は立ちあがり、すぐさま遠呂智と百爪が対峙していた方へと視線を向ける。

 だが、爆発の余波によって、未だ大気はうねり、大地が震え、周囲に広がる砂煙によって状況把握は難しい。



「センパイが敵じゃなくてよかったです……それはもう、いろんな意味で」



 和倉姉の口から、本音らしき言葉が漏れる。

 だが、それは和倉妹の本音でもあり、俺が何年も前から真に思い続けていることだった。

 しかも、あいつは俺達が影響を受ける範囲にいる限り、意識や無意識に関係なく手加減をしているだろう。

 それがどれ程の加減かは分からないが、さっきの一振りは糸の監獄を突破するに充分すぎる。



「状況は掴めないが、私達が手出しできる範疇ではないのは確かだ」



 和倉妹が苦虫を噛むような顔で先の見えない砂煙を見る。

 広範囲に広がる煙幕、それを透過する光がない夜闇、未だ微弱な揺らぎを有する大気……視覚と聴覚が無意味と化すこの状況では、加勢はおろか下手に動くことさえ危険である。

 それは俺達だけではなく、百爪や遠呂智にも当てはまる。

 だが――蛇は狩りに出た。


  ――Fas est atab heste doceri.


 意味のない言葉は明瞭な音として、うねる大気さえ無視して響く。

 そして、この砂煙の中が遠呂智の狩り場として存在するようになる。


  ――足構(スタンス)


 大気のうねりに遠呂智の声が溶け、その質を変える。

 波のように押し寄せるものから、生物の動きにも似たものへ。

 そして、ただ立ち込めているだけの灰色の砂煙が、意思を持つモノのように流れ始める。


  ――胴構(セット)

  ――矢番(ノッキング)

  ――射起(セットアップ)


 広範囲に拡散する砂塵が、収束して一つの巨大な流れを作り出す。

 急激に晴れた視界の先で流動する砂塵は、砂と砂の接触によりザラザラという音を立てながら次第にその形をなしていく。

 そう――それはまるで獲物を一飲みにせんと地を這いずる蛇のように。


  ――引分(ドローイング)

  ――(フルドロー)


 百爪が砂塵の蛇の体を突き破り、グラウンドに着地する。

 纏わりつく砂を払う百爪が見上げるその先には、緩やかに流れる砂塵が鎌首を上げるかのように夜空へと昇っていた。

 幻想的ともいえるその光景に対し、百爪は八本すべての腕を蛇に向かいふるう。

 その指先から伸びる、幾つもの瞬き。



玄毘(くろび)ッ」



 何十本という不可視糸が、砂塵の蛇の首を何重にも切り裂く。

 しかし、実体のない現象に対してそれは悪あがきでしかなく、全ての斬痕はすぐさま砂塵の中に飲み込まれていく。

 そして、砂塵の大蛇が鎌首を振り下ろし、百爪を飲みこもうと襲いかかる。

 襲い来る風と砂の奔流を防ぐため、百爪は全ての腕を交差した。



 そして――砂塵の大蛇の大顎が、鋭い毒牙を剥く。



 そして――砂塵の瀑布の中から、虚言師が現れた。



「――ッ」



 砂塵を突き破って出現した遠呂智は、百爪を自らの間合いへと取り込んだ。

 想定しようのない展開に対し、百爪は出遅れた追撃ではなく、腕による防御を固めることを選択した。

 その間にも遠呂智は動きを止めることはなく、半身に構えた上体を固定するように肩幅に開いた足が大地を踏み締め、なにかのサインのように前へ伸ばされた左手と胸部の位置まで引き絞られた右手が一直線上に並ぶ。

 その立ち姿は、幾年もの経験を積んだ熟練の射手。

 しかし、その手には弓矢どころか、先ほどまで持っていたはずの手術刀の影すらない。



「――(リリース)



 けれど、矢は放たれた。

 引き絞られていた右手が、一つの矢となって弾かれる。

 そして、左手と行き違うように前へと突きだされ――八本の腕が重なるその中心へ、吸い込まれるように突き刺さる。


 そして――直撃と爆音。


 それは矢などよりも遥かに重く鈍い、砲撃を思わせる衝撃音。

 着弾点となる八重の盾は一瞬にして穿ち砕かれ、肉と破片と骨の欠片となって飛び散る。

 そして、容赦ない衝撃が百爪の体をくの字に曲げ、反作用によって生まれた衝撃波が二人を飲み込もう背後に迫る砂塵を吹き飛ばす。

 その一撃によって砂塵は蛇の姿を失い、残滓(ざんし)は一陣の風によって攫われる。

 一拍遅れて、遠呂智の腕に寄りかかるようにして立っていた百爪の体が地面へと倒れ落ちる。



 これが、この夜の決着だった。



残身(フォロースルー)……ッ。少し、無理をしすぎましたかね」



 支えとなっていた糸が切れたようにふらりと体を揺らし、その場に膝を突く遠呂智。

 俺はその姿に駆け寄り、倒れそうになる体を支えながら地面に座らせる。



「大丈夫。過剰な痛覚で力が抜けてしまっただけですから」

「無理をしなければいいだろう……と、いっても無駄か。少し見せてみろ」



 俺は一番傷が深いと思われる右腕を奪うようにして見る。

 百爪の腕を穿った腕は温かな血で塗れており、一部には溺死体のような青白い皮膚を残した肉片も付着している。

 それらの感触や感想を無視して、俺は遠呂智の腕に手を這わせる。



「玲様、触診の最中に申し訳ありませんが、手つきがいやらしく感じるのは気のせいでしょうか」

「仕方ないだろう。医療は専門外だ。見よう見まねの触診も血肉のぬめりで思うようにいかない。だからといって力を入れすぎるわけにもいかないだろう……ここはどうだ?」

「――ッ」



 遠呂智の表情が苦痛にゆがむ。

 こめかみ辺りから流れ出す血によって片眼を赤色に塗り潰された顔は、虚構を貼りつける余裕もないようだった。



「……手の方は拳ではなく掌底での打撃だったため問題なさそうだが、腕の方は縫合した傷口がほぼ開いている。また、橈骨か尺骨になんらかの損傷があるようだ……いや、最悪でも骨折程度で済んでいるというべきか?」

「腕の一本程度なら差し上げるつもりでしたが、百爪様は腕が嫌いなようですからね。嘘吐きの腕などいらなかったのでしょう」



 そういって、遠呂智は自嘲を含んだ笑みを浮かべた。

 身につけたスーツは血と埃に塗れており、破れた場所からは生々しい血肉が覗く。

 しかし、腕以外の傷はそこまで深いものではなく、骨まで達しているものは見当たらない。

 致命傷はないという判断をした俺は、こういった時のために預かっていた包帯を取り出し、服の上から傷口をきつく絞めることで応急処置の止血することにした。

 しかし、遠呂智は包帯を持った俺の手を血塗れの手で遮った。



「ご厚意はありがたいのですが、治療は後回しにしてください」



 遠呂智の目線の先にいたのは、うつ伏せに倒れた百爪。

 あの生理的な怖気を生み出す腕は、肘から先が食い千切られたような断面を残して消失し、そのすべてから血液を流す。

 肩から伸びた人らしい腕も、曲がるべきではない位置が曲がるべきではない方向に曲がっている。

 それは、死体としてもあまりに凄惨な姿。

 しかし、その死体は一定の周期で微かに動き――呼吸をしていた。



「さて、百爪様は虫の息ではありますが、確実に生きております。私は百爪様に殺すつもりがないと申し上げましたから、これは当然の結果といえるでしょう」



 遠呂智は負っている傷を感じさせない動きで立ちあがり、地面に転がる百爪の前に立つ。

 いや――立ちふさがった。



「そして、私が言葉通りにことを成すためには、お二人に百爪様を殺させるわけにもいかないのです。どうか、その手をお下げになってください」



 遠呂智が立ちふさがった先には、和倉姉妹がいた。

 両親の仇である百爪を目の前にして。

 その百爪を倒した遠呂智を目の前にして。



「それは、無理だ」

「ごめんなさいです。でも、これだけは譲れないんです。パパとママが殺されてから、私達はこの日のために生きてきたです」

「貴様のおかげで本来の仇を知ることができ、姉の命も救われた。それらのことには感謝する。しかし、それとこれとは話が違う」



 それぞれ黒い剣と白い盾を前方へと傾け、明確な殺意を抜き放っていた。

 そして、和倉姉が最終宣告を下す。



「そこをどいてくださいです、センパイ。恩を仇で返すことはしたくないですが、センパイが立ちふさがるなら、私達はセンパイを殺して進むです」



 和倉姉の瞳には悲しみが見えた。

 それは、遠呂智を殺すことへの悲しみ――つまり、和倉姉には殺す覚悟があるということ。

 対して、和倉妹は表情を浮かべることはなく、遠呂智を目標の一人として捉えていた。

 まともに右腕を動かせないほどの怪我を負っているとはいえ、先ほどまでの戦闘を見ていれば、油断をする人間は一人としていないだろう。

 二人は既に復讐者として、遠呂智と対峙していた。



「恩ですか……どうやら、お二人は人がいいようですね。自分達が私にどれだけ騙され、踊らされ、狂わされたのか。忘れてしまったわけではないでしょうに」



 和倉空海、和倉美莱を殺したと(かた)った嘘吐きは、真実を紅く染めて作り上げた疑心の戯曲の舞台上で、二人の復讐者を前にする。

 それは、遠呂智が望んでいた筋書き通りの展開。

 そして、血と夜と虚構と暴力で満ちた戯曲のフィナーレは――嘘吐きが地獄に落ちることで幕を閉じる。



「では、仕方がありません。陳腐な台詞で申し訳ありませんが、いわせていただきましょう。百爪様を殺すのならば、私ごと殺しなさい」



 再び、遠呂智と和倉姉妹は敵対することとなった。

 遠呂智が騙らなければ、和倉姉妹は嘘吐きと接触することさえなかっただろう。

 だから、俺はこの戦いを止めることも、なにか口出しすることはできない。

 なにもしてやれなかった俺が、遠呂智――駆が望んでいることを否定する権利などないのだから。

 つまり、この場に戦いを止める者はいない――はずだった。


 カチリ、という音がした。


 その音源は、遠呂智でも和倉姉妹でもない。

 向き合う二組の間に、夜闇の中に橙色の光が灯っていた。

 その光は煙草に火をつけ、煙草は火先から一筋の紫煙を立ち上らせる。



「――おい、若造ども。いつまで下らん騒ぎを続けとる」



 丁寧に後ろに流した茶色の頭髪。

 人より肥えた腹部。

 一目見ただけで一級品だということが分かるスーツ。

 袖を通さずに肩に羽織った灰色のコート。

 煙草を銜えたまま吐き出した紫煙は、その存在を示すように暗闇に漂う。

 その立ち姿があるだけで、周囲の空気が張り詰めているのがわかる。



「喧嘩ならもっと派手に騒げ。せめて世界の終わりを終わらせるぐらいの喧嘩でないと、ただの一興にもならん」



 この地を治める四谷財閥の現当主。

 俺や駆が従い、従えることのできた唯一の男。

 そして、伊達駆という異端に『朔望月相』を与え、四谷最強や最悪を生み出した元凶。



「それでも、キャバクラの嬢ちゃんと乳繰り合っとった方が数万倍は楽しいがのう」



 四谷源蔵は――笑った。

 どこにでもいる好々爺のような笑みで。

 この時に国一つを転覆させていてもおかしくない笑みで。

 笑っていた。









 お久しぶりでございます。七月の絶望的な状況を超え、なんとか返ってきた夷です。返ってくるなとはいわないでください。素で凹ます。

 二ヶ月放置がよくあることになってしまって、大変情けない限りでございます。そして、また双子編完結せず……最悪な嘘吐きになりつつある自分を叱咤しながら、続きを執筆させていただきます。

 ではまた。

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