第37話 Day 20 扉を壊す者
朝。
エントランス脇には、昨夜のままブルーシートが残されていた。
警察にも消防にも連絡は入っている。しかし道路は雪で寸断され、救助要請も各地から殺到していたため、遺体の回収がいつになるかは分からない。住民たちは扉一枚を隔てた場所に死者がいる状態で、新しい一日を迎えることになった。
一階を通る住民は、ほとんど例外なくブルーシートへ一度だけ視線を向け、その存在を確かめると、すぐに目を逸らした。
昨日の昼には、あの男は確かに生きていた。自分たちと同じように寒さから逃れ、暖かい場所を求めてここまで辿り着いた。それでもマンションの扉は開かなかった。
誰も殺してはいない。
それでも、誰も完全に無関係だとは思えなかった。
午前八時過ぎ、住民代表から今日の配給について連絡が入った。
『共同備蓄を可能な限り維持するため、本日から配給量をさらに減らします。乳幼児、持病のある方については個別に対応します。ご理解をお願いいたします』
昨日までなら、このような通知が出ればすぐに不満が噴き出していただろう。しかし今日は違った。
『分かりました』
『できるだけ長く持たせてください』
『仕方ないと思います』
ほとんど反対が出なかった。
住民たちが急に物分かりのいい人間になったわけではない。ただ、全員が昨日見てしまった。食料も暖房も行く場所もなくなった人間が、最後にどうなるのか。それを数字やニュースではなく、目の前の死として知ってしまった。
◇
昼。
一階では、その日の配給が始まっていた。
昨日より明らかに小さくなった袋が、列に並ぶ住民たちへ順番に渡されていく。中に入っているのはパックご飯、缶詰、栄養補助食品など最低限のものだけで、家族構成に応じて多少の差はあるものの、腹を満たすには到底足りない量だった。
それでも、誰も大声では文句を言わなかった。ないよりはいい。今あるものを少しでも長く持たせるしかない。その考えが、昨日までよりずっと現実的なものとして住民たちの中に共有され始めていた。
列の中には、母親と一緒に並ぶ小学生くらいの男の子がいた。昨日からほとんど食べていないのだろう。頬は少し痩せ、母親の腕へ身体を預けながら、ゆっくりと列の前へ進んでいた。
「もう少しだからね」
母親が声を掛けると、少年は小さく頷いた。
列が一歩進み、さらにもう一歩進んだ、その時だった。
少年の身体から突然力が抜けた。
「え?」
母親が振り返るより早く、少年はそのまま床へ崩れ落ちた。
「拓也!」
周囲が一気に騒然となる。
「大丈夫!?」
「誰か、横にして!」
「毛布持ってきて!」
住民代表の一人が駆け寄り、別の住民がすぐに毛布を持ってくる。母親は床へ膝をつき、少年の頬を何度も叩いた。
「拓也! 拓也!」
しばらくして、少年の目がゆっくりと開いた。
「……お腹すいた」
弱々しい声が漏れた瞬間、母親の顔が歪んだ。
「ごめんね……」
少年を強く抱き締める。
「ごめんね……」
その光景を、列に並んでいた一人の男が黙って見ていた。少年の父親だった。
何も言わないまま、握っていた拳だけがゆっくりと固くなっていった。
◇
少年の家族は三人暮らしだった。
寒波が始まった頃には、それなりに食料があった。米、冷凍食品、カップ麺、菓子。特別な備蓄ではなく、普通の家庭にある程度の量だった。
それでも二十日が経てば、どれだけ節約していても限界は来る。
父親は自宅へ戻ると、配給された小さな袋をテーブルへ置いた。妻は寝室で息子を寝かせており、家の中に残された食料らしい食料は、今受け取ってきたものだけだった。
妻が小さな声で言う。
「今日は拓也に全部食べさせよう」
夫は黙って頷いた。
自分たちは我慢すればいい。一日くらい、二日くらいなら耐えられる。
そう思う。
だが、その先はどうする。
男は窓の外へ視線を向けた。救援物資が来る保証はなく、共同備蓄も減っている。そして昨日、このマンションのすぐ外で人が死んだ。
その時、男の頭に一つの話が浮かんだ。
十三階の、あの夫婦。
以前、大量の米や水を持っているところを見た人がいる。共同備蓄にはほとんど出しておらず、備蓄確認にも反対していた。住民グループでも何度か名前が出ている。
あくまで噂でしかない。証拠はない。
それでも、今の男には十分だった。
◇
午後三時。
十三階の一室で、インターホンが鳴った。
備蓄を隠している夫がモニターを見ると、そこには見覚えのない男が立っていた。しかし同じマンションの住民であることは分かる。
「はい」
『すみません。少しお話いいですか?』
「何でしょう」
男はしばらく黙ったあと、意を決したように言った。
『食料を少し分けてもらえませんか』
夫の表情が硬くなる。
「……うちも余裕ありません」
『米だけでもいいんです』
「ありません」
『少しでいいんです。子供が今日、配給の列で倒れたんです』
夫の手が止まった。
昼間の出来事は、すでに住民グループを通じて知っていた。
『お願いします』
インターホン越しの声が震える。
『米一キロでいい。いや、五百グラムでもいいんです。必ず返しますから』
夫は背後へ視線を向けた。クローゼットの奥には、まだかなりの米がある。
十キロ。
五百グラムや一キロを分けたところで、自分たちにとってすぐに致命的な量になるわけではない。
だが、一人に渡せば次が来る。
この男の子供へ渡したのなら、別の子供はどうする。老人は、病人は。次に同じ理由で頼まれた時、断ることができなくなる。
夫はしばらく迷った末に答えた。
「申し訳ありません。うちにも本当に余裕がないんです」
『……本当に?』
声が変わった。
夫の眉が動く。
「はい」
『前に米、かなり持ってたって聞きました』
「いつの話ですか」
『本当にないんですか?』
「ありません」
短い沈黙のあと、男はそれ以上何も言わなかった。
『……分かりました』
通話が切れ、モニターの中で男がゆっくりと去っていく。
夫はしばらくその後ろ姿を見ていた。
妻が後ろから出てくる。
「誰?」
「食料分けてくれって」
「……あの倒れた子の家?」
「ああ」
妻は少し黙ったあと、小さく呟いた。
「少しくらい……」
夫が振り返る。
「駄目だ」
「でも子供でしょ」
「一人に渡したら終わりだ。ここにあるって知られたら、全部持っていかれる」
妻はそれ以上何も言えなかった。
◇
夜。
午後九時十二分。
十三階の廊下に、三人の男が現れた。
昼間来た父親と、別の住民が二人。三人ともほとんど言葉を交わさないまま廊下を進み、ある部屋の前で足を止めた。
インターホンが鳴る。
室内で夫婦が顔を見合わせた。
「まただ」
夫がモニターを見る。
昼間の男だ。
だが、今度は一人ではない。
「何でしょう」
インターホン越しに答える。
『もう一度お願いします。食料を分けてください』
昼間と同じ男の声だった。
「昼にも言いましたけど、うちにも余裕はありません」
『嘘ですよね』
夫の顔が変わる。
「何を根拠に――」
『前に見た人がいる。米も水も缶詰もあったって』
「それはずっと前の話です」
『じゃあ、部屋を見せてもらえます?』
夫は黙った。
男はその沈黙を待つように続けた。
『本当にないなら、見せられますよね』
「お断りします」
『何でですか?』
「ここは私の家です」
『こっちは子供が腹空かせてるんですよ』
「それは……私にはどうにもできません」
一瞬、静かになった。
そして昼間と同じ男が、低い声で言った。
『じゃあ、俺の子供が死んでもいいってことですね』
夫の顔が強張る。
「そんなことは言ってません」
『同じでしょう』
「帰ってください」
『食料見せてください』
「帰ってください!」
夫は通話を切った。
妻が不安そうに夫を見る。
「大丈夫?」
「鍵確認しろ」
夫はすぐに玄関へ向かい、補助錠とドアチェーンを一つずつ確認した。
その直後、玄関扉が激しく叩かれた。
ドンドン!
妻の身体が跳ねる。
「おい!」
外から声がする。
「開けてください!」
夫は答えない。
もう一度、扉が叩かれる。
ドンドン!
「本当に食料ないなら見せればいいだろ!」
「帰れ!」
夫も声を張り上げる。
「警察呼びますよ!」
一瞬の沈黙のあと、外から冷たい声が返ってきた。
「警察?」
男は少し間を置いて続けた。
「来るんですか?」
夫は何も言えなかった。
その言葉は、以前一ノ瀬の隣人へ押し入った柴田が口にしたものと同じだった。
この世界ではもう、警察という言葉だけで人を止めることができなくなっていた。
◇
次に響いた音は、さっきまでのものとは明らかに違った。
ドンッ!
扉そのものが大きく揺れ、妻が悲鳴を上げる。
「何してるの!」
外から男の声がする。
「開けてください!」
再び扉が大きく鳴った。
今度は拳ではない。
蹴ったのだ。
「やめろ!」
夫が叫ぶ。
三度目の衝撃が響く。
幸い、扉は要塞化された蓮の部屋ほどではないにせよ、一般的なマンションの防火扉だったため、簡単に破られるものではなかった。それでも蝶番と枠からは大きな音が響き、衝撃のたびに扉全体が震える。
「やめろって言ってんだろ!」
夫は玄関脇へ走った。
そこには以前、災害用に買っていた金属製のバールが置かれていた。本来なら家具を動かしたり、非常時に使ったりするための物だ。
夫はそれを両手で握った。
妻の顔が青ざめる。
「あなた……」
「もし入ってきたら、殴る」
夫は扉から目を離さなかった。
妻は何も言えなかった。
◇
騒ぎを聞きつけた同じ階の住民たちが、少しずつ部屋から出始めた。
「何してるんですか!」
「やめろ!」
廊下に人が増えると、扉を蹴っていた三人も周囲を見回した。
そのうちの一人が声を上げる。
「こいつら食料隠してるんですよ!」
「だからって扉壊していいわけないだろ!」
「子供が今日倒れたんだぞ!」
「知ってるよ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
父親が突然叫んだ。
その声で廊下が静かになる。
「今日、目の前で倒れたんだぞ!」
声が震えている。
「腹減ったって!」
誰もすぐには何も言えなかった。
「昨日、人が死んだだろ!」
男は十三階の住民たちを見回した。
「俺の息子もああなるまで待てっていうのかよ!」
「だからって人の家に押し入るのか!」
別の住民が怒鳴る。
「じゃあどうすればいいんだよ!」
男も怒鳴り返す。
「教えてくれよ!」
誰も答えられなかった。
食料はない。救援は来ない。子供は倒れた。そして目の前には、食料を持っているかもしれない家がある。
正しい答えなど、もうどこにもなかった。
◇
その時、十三階の扉が僅かに開いた。
チェーンは掛かったままで、住人の夫が狭い隙間から顔を出す。その手には、先ほど握った金属製のバールがあった。
廊下にいた全員の視線が、そこへ集まった。
「帰れ」
夫の声は震えていた。恐怖なのか怒りなのか、本人にも分からなかった。
「もう一度扉を蹴ったら、次は俺も黙ってない」
そう言ってバールを握り直す。
父親と目が合った。
数秒間、誰も動かなかった。
昨日まで、同じマンションに住んでいた者同士だった。名前すら知らず、顔を合わせれば挨拶する程度の関係。それだけだった二人が、今では片方が扉を破ろうとし、もう片方が武器を持ってその向こうで待っている。
最終的に、父親が先に目を逸らした。
「……帰るぞ」
一緒に来た二人を見る。
誰も反対しなかった。
三人はゆっくりと十三階の廊下を離れていった。
◇
騒ぎはすぐに住民グループへ広がった。
『十三階で住民が他の部屋へ押し入ろうとしたそうです』
『本当ですか?』
『扉を蹴っていたのを複数人が確認しています』
『食料があるか確認しようとしたらしいです』
『確認って……それ強盗じゃないですか?』
すぐに別の意見が入る。
『でも十三階の家、食料隠してるって前から言われてましたよね』
『だから何?』
『本当に大量に持ってるなら少しくらい出してもいいのでは?』
『家に押し入って奪っていい理由にはならないでしょう』
『昨日、人が死んだんですよ』
『だからって何してもいいんですか?』
議論は、これまでよりずっと激しかった。
なぜなら今回は、食料をどう分配するかという話ではない。
他人の家へ力ずくで入り、食料を奪ってもいいのか。
そこまで来てしまったからだ。
◇
蓮は監視モニターで、騒ぎの一部始終を見ていた。
もちろん各住民の部屋の中までは見えない。それでも十三階の共用廊下に集まる三人、玄関を蹴る様子、周囲の住民が部屋から出てくる様子、そして最後に扉の隙間から見えた金属の棒まで確認できた。
それだけで十分だった。
「……そろそろ限界だな」
蓮は小さく呟いた。
昨日、このマンションの住民たちは初めて目の前の死を見た。そして今日、その恐怖は早速別の形へ変わった。
助け合おう。食料を分けよう。公平にしよう。
そんな話はまだ住民グループの中に残っている。
だが、もうそれだけではない。
持っているなら奪う。
奪いに来るなら武器を持つ。
その選択肢が、今日このマンションの中に生まれた。
蓮はソファへ身体を預けた。
ここから先、玄関の扉はただの扉ではなくなる。
自分の家族、自分の食料、自分の命。
その全部を守る境界線になる。
そして、その境界を越えようとする人間には、もう言葉だけでは足りなくなる。
◇
夜。
十三階の夫婦は、ほとんど眠れなかった。
玄関の前には家具が置かれ、夫は昼間まで非常用品でしかなかったバールをベッドの横へ置いている。
妻が小さな声で聞いた。
「……また来るかな」
夫はしばらく答えなかった。
「分からない」
それが、一番正しい答えだった。
少し離れた別の部屋では、昼間息子が倒れた父親が眠っている子供を見ていた。妻は隣で泣いており、テーブルの上には今日の配給で受け取ったわずかな食料しかない。
男は自分の拳へ視線を落とした。
今日、他人の家の扉を蹴った。
あと少しで、中へ入ろうとしていた。
後悔している。
それでも眠る息子を見ると、別の感情まで消すことはできなかった。
次に倒れた時はどうするのか。
男はその先を考えないようにした。
だが、一度浮かんだ考えを、もう頭の中から完全に消すことはできなかった。
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Day 20
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「昨日は扉を閉めた。今日は、その扉を壊す者が現れた」
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