第104話 Day 68 本能
午前の配給が始まってしばらく経った頃、いつもなら自分の分を受け取りに来るはずの住民一人が姿を見せていないことに気づいた者がいた。
六十代の男で、寒波が始まってから体調を崩し、ここ一週間ほどは咳と発熱を繰り返していた住民だった。昨日から配給量を減らされた対象者の一人でもあり、同じ階に住む者が様子を見に行ったものの、何度呼びかけても返事がない。結局、田村が呼ばれ、数人の住民とともに男の部屋へ入った。
室内は薄暗く、窓際に置かれた小さな電気ヒーターは作動していなかった。男は布団の中で横向きになったまま動かず、田村が肩へ触れても反応しない。首筋へ指を当て、瞳孔を確認し、しばらくしてから田村は小さく息を吐いた。
「……もう亡くなってます」
「いつ頃ですか?」
「正確には分かりませんけど、身体もかなり冷えてるし……夜中じゃないかと」
田村は布団を掛け直しながら、枕元に置かれた空のペットボトルと、昨日配られたものらしい食品の袋を見た。半分ほど残されているところを見ると、食欲そのものが落ちていたのだろう。男がここ数日急速に弱っていたことは田村も知っていたが、だからこそ、その状態で摂取できる食事まで減った影響を無視することはできなかった。
「病気が悪化したんですか?」
後ろにいた住民から聞かれ、田村は少し困ったように眉を寄せた。
「それだけとは言い切れません。もともとかなり弱ってましたから。ただ……病気で体力が落ちてるところに、食事まで減らされたら、そりゃ身体は持ちませんよ。健康な人なら一食減ったくらいですぐどうこうなりませんけど、この人の場合は条件が違いますから」
その言葉を聞いた住民たちの視線が自然と一ノ瀬へ向いた。一ノ瀬は少し離れた場所で腕を組んでいたが、自分を見る目が増えていることに気づくと、露骨に眉をひそめた。
「……じゃあ、昨日から食料減らしたのが原因ってこと?」
「そこまでは言ってません。ただ、影響がなかったとも――」
「ちょっと待ってよ」
一ノ瀬は田村の言葉を遮ると、今度は周囲の住民を見回した。
「なんか私がこの人を殺したみたいな空気になってるけど、昨日のことはみんなで決めたんでしょ? 私が勝手に食料を取り上げたわけじゃないじゃん。それに食料が足りないのは事実なんだから、じゃあどうすればよかったの?」
「いや、そういうことを言ってるわけじゃ……」
「だったら私に言われても困るよ。食料がもっとあったら私たちだって減らしたりしないし、誰かが病気になることまで私にはどうしようもないでしょ」
一ノ瀬の声には、死んだ男に対する悲しみよりも、自分が責められそうになったことへの苛立ちの方が強く滲んでいた。
誰も明確に彼女を責めたわけではない。それでも一ノ瀬は自分へ向けられた視線を責任追及と受け取り、誰かが言葉にするより先に、自分をその結果から切り離していた。
そして、住民たちはそれ以上何も言わなかった。
食料削減の決定に賛成した者も、この場にはいた。
◇
昼になり、一階の共用部では、まだその日の配給が続いていた。
人数が減ったところで、一人あたりの配給量が急に増えるわけではない。レトルト食品や缶詰、乾麺などが決められた量だけ袋へ入れられ、住民は部屋番号を確認されてから自分の分を受け取っていく。
昨日決められた新しい基準もすでに適用され、水の確保や雪かきに参加している住民には従来に近い量が渡される一方、作業に参加していない者の袋は明らかに軽くなっていた。
「……これだけなんですか?」
袋の中を覗いた女性が、不満そうに顔を上げた。
「決まった量だ」
「でも私、掃除もしてますし、同じ階の子供の面倒だって見てます。それなのに何もしてない人と同じって、おかしくないですか?」
松本は困ったように顔をしかめたものの、後ろにはまだ順番を待つ住民が並んでいる。
「俺に言われても困るよ。昨日決まっただろ。水作りとか雪かきに参加するなら、そっちで名前書いてもらえばいいんじゃない?」
「子供がいるから毎日は無理なんです」
「だったら俺にはどうしようもないって。次待ってるから、とりあえずどいてくれない?」
女性は納得できない様子で袋を握りしめたが、後ろから向けられる視線に気づくと、それ以上は言わずに列を離れた。そのすぐ後には水作りを担当している男が並び、先ほどより明らかに多い食品を受け取る。女性は一度だけ振り返ったものの、何も言わずに階段へ歩いていった。
そんな配給の最中だった。
「……誰かいるぞ」
入口付近にいた住民の声に、何人かが同時に外を見た。
降り続いていた雪は数日前と比べれば明らかに弱くなっていた。かつては大雪に遮られ、十メートル先さえ白く霞んでいた視界も、今では建物の前に積み上がった雪の向こうまで見通せる。その白い世界の中を、十数人ほどの人影がこちらへ向かって歩いてきていた。
全員が厚手の防寒着を身につけ、顔の半分ほどを布やマスクで覆っている。歩き方は重く、身体を支えるように棒を持っている者もいたが、この時点ではそれを武器だと考えた住民はいなかった。
やがて集団はマンションの入口近くまで来ると、中に人がいることに気づいて足を止めた。
「すみません!」
一人の男が扉越しに声を張り上げた。
「中に人いますよね? ちょっと話をさせてもらえませんか!」
配給を受け取っていた住民たちも集まり始めたが、入口を開けようとする者はいなかった。以前にも外から来た人間を巡って問題が起きている。今さら見知らぬ人間を中へ入れるという選択肢は、住民たちの間には最初から存在していなかった。
「何の用だ!」
内側から男が返す。
「食料を少し分けてもらえませんか! 全部くれなんて言いません。本当に少しでいいんです!」
「無理だ! こっちだって足りてない!」
「お願いします! 俺たち、もう何日もまともなもの食べてないんです。缶詰でも何でもいい。少しだけでいいから!」
外の男が必死に訴えた時、その視線が住民の手元で止まった。
配給の途中だった。
床にはまだ段ボールが置かれ、その中には缶詰やレトルト食品が残っている。決して大量ではない。しかし何日もまともな食事をしていない者にとって、それがどう見えるかは別の話だった。
「……あるじゃないですか」
男の声が変わった。
「今、配ってましたよね? あれだけあるなら、少しくらい分けられるでしょう」
「だから無理だって言ってんだろ! 何人いると思ってんだよ!」
「俺たちはもう死にそうなんですよ!」
「こっちも同じだよ! 食料なんかもうほとんど残ってねえんだ!」
「そんなの嘘だろ! 今普通に配ってたじゃねえか!」
声が少しずつ大きくなり、入口の両側に人が集まっていった。外来者の中には苛立った表情で扉を睨む者もいれば、何度も頭を下げている者もいる。しかしマンション側も譲らない。自分たちの配給量さえ削られ始めている状況で、十数人の見知らぬ人間へ渡せる食料などないことを、住民たちは誰より理解していた。
「このままじゃ俺たち死ぬんだぞ!」
「だからって俺たちの食料をやったら、今度はこっちが死ぬだろ!」
「少しでいいって言ってるだろ!」
「お前らの少しを一回認めたら、次も来るだろうが!」
言い争いはしばらく続いた。
やがて外来者の中で、それまでほとんど喋っていなかった四十代ほどの男が前へ出た。痩せた顔でマンションの中を見つめ、床の食料、入口の構造、集まっている住民たちへ順番に視線を動かす。その目は食料を求めて叫んでいる仲間たちとは違い、妙に冷静だった。
「……分かった」
男はそう言うと、仲間たちへ振り返った。
「一旦引くぞ」
「でも、まだ――」
「いいから行くぞ」
何人かは不満そうだったが、男が先に歩き出すと、やがて集団もその後についていった。住民たちは雪の向こうへ消えていく背中を見送り、誰かが「やっと帰った」と息を吐いた。
少し離れたところから一部始終を見ていた柴田だけは笑わなかった。
以前のマンションで、柴田は何度も似た目を見ている。食料を奪われた人間、奪おうとする人間、追い詰められて何でもするようになった人間。さっきの男は最後まで怒鳴らず、むしろ仲間を止めていた。しかし去る直前、マンションの中を確認していた視線だけが柴田の記憶に引っかかった。
「……あいつら、また来るかもしれんぞ」
一ノ瀬が怪訝そうに柴田を見る。
「え? 帰ったじゃん」
「勘違いならそれに越したことはねえよ」
「考えすぎじゃない?」
「だったらいいけどな。あの最後に来た奴、食い物だけじゃなく入口とか中の人数まで見てやがった。前のマンションでもああいう奴は何人も見た。諦めた奴は、あんな目しねえ」
松本も窓の向こうへ目を向けた。
「……俺もそんな気がします」
「もしまた来るなら、夜だろうな……」
柴田が答えると、一ノ瀬は少し考えてからスマートフォンを取り出した。
いつになく警戒している二人を見ているうちに、一ノ瀬も以前のマンションのことを思い出していた。
もし同じことが起きるのなら、今夜は誰かが入口を見張っていた方がいい。
ただし、それを自分たちだけでやる必要はない。今なら、食料を報酬にすれば住民を動かすことができる。
数分後、マンション全体のグループチャットに通知が流れた。
『本日昼頃、外部から十数名の人がマンションに来ました』
『現在、外は非常に危険な状態です。念のため、本日から夜間の警備を強化します』
『今日22時から一階の警備に協力できる方を募集します』
一ノ瀬は一度指を止め、最後に一文を付け加えた。
『本日の警備に参加していただいた方には、追加で缶詰を一個配給します』
反応は早かった。
『参加します』
『何時までですか?』
『俺も行けます』
『缶詰は今日もらえるんですか?』
『参加します。工具持っていった方がいいですか?』
一ノ瀬は増えていく返信を見ながら、わずかに口元を緩めた。
寒波が始まる前なら、百円か二百円で買えた缶詰一個だった。
今ではそれだけで、人を深夜の警備へ立たせることができた。
◇
地下百メートル近くに造られた第七号では、地上の昼夜とは関係なく、決められた時間に仕事が始まり、決められた時間に人と物が動いていた。
黒崎も施設内物流・物資管理の仕事に少しずつ慣れ始めていた。まだ通路の番号を一度で覚えられるほどではないが、台車へ積む物資の種類や配送先の確認方法は分かるようになり、先輩から一つ一つ指示されなくても動ける場面が増えている。
「黒崎、それE-12じゃない。E-21」
「……似すぎじゃないですか?」
「数字ひっくり返したのはお前だろ」
「この施設、もう少し分かりやすい名前にできなかったんですかね」
「国が何十年も時間かけて作った施設に文句言うな」
先輩に笑われながら、黒崎は配送票を確認し直した。こういうどうでもいいやり取りができる程度には、ここでの仕事も日常になりつつある。わずか数日前まで雪の中を歩き、食料と体力の残量ばかり考えていたことを思えば、自分でも奇妙に感じるほどだった。
二人が向かったのはE区画の居住スペースだった。
通路へ入ったところで、黒崎は何となく違和感を覚えた。昨日通った時とは人の顔ぶれが違う。荷物を整理している若い男、職員から説明を受けている三十代ほどの夫婦、作業着姿のまま登録端末を操作している男もいる。全員が健康というわけではないだろうが、少なくとも昨日ここで見た高齢者や、壁にもたれて歩いていた住民たちとは雰囲気が違った。
「先輩、ここって昨日も来ましたよね?」
「来たぞ。生活用品運んだだろ」
「ですよね……」
黒崎は周囲を見回した。
「昨日いた人たち、どこ行ったんです?」
先輩もようやく気づいたように足を止めた。
「ああ……そういや、いないな」
「昨日見た再配置の人たちって、もしかしてここからですか?」
「何人かは見た顔だった気がするけどな」
黒崎はもう一度、新しく荷物を広げている人々を見た。
「じゃあ……空いたところに、この人たちが入ったってことですか?」
「結果だけ見ればそうなるな」
先輩はそれほど気にした様子もなく答えたが、黒崎には昨日見た《収容人口適正化に伴う再配置》という文字が頭に残っていた。
ちょうど近くを職員が通ったため、黒崎は台車を止めて声をかけた。
「すみません。ちょっと聞いてもいいですか?」
「はい」
「昨日までここにいた人たちって、再配置になったんですよね?」
職員は端末を確認することもなく頷いた。
「この区画からも対象になった方はいらっしゃいます。収容状況や施設運営上の必要性に応じて、居住者の再配置は随時行われています」
「その人たちは、別の保護地区に行ったんですか?」
「再配置先は対象者ごとに異なります。他の区画へ移る場合もありますし、別の施設が指定される場合もあります」
「どこに行ったかは分かります?」
「申し訳ありません。個別の再配置先については、ご本人や登録された家族などを除き、お答えできません」
職員の態度に不自然なところはなかった。質問を嫌がったわけでもなく、隠そうとしているようにも見えない。規則として答えられないことを、そのまま説明しているだけだった。
「分かりました。ありがとうございます」
黒崎が頭を下げると、職員も軽く会釈して去っていった。
「気になるのか?」
「いや……昨日ここにいた人を移して、今日また新しい人を入れるなら、最初から今日来た人を別の場所に入れればいいんじゃないかなって」
「収容人数だけで決めてるわけじゃないんだろ。俺たちには分からん事情もあるんじゃないか?」
「そうなんでしょうけど……」
黒崎は納得しきれないまま、新しく入ってきた人々へ視線を戻した。
偶然なのかもしれない。
ただ、昨日《再配置》の列で見た人間には、高齢者や身体の弱そうな者が何人もいた。それに対して今日ここへ入っている人間は比較的若く、少なくとも働くことのできそうな者が多い。
黒崎はそこで、初日に受けた適性評価を思い出した。
健康状態。職歴。資格。経験。労働能力。
そしてAからEまで分けられる評価。
「……再配置にも、評価って関係あるんですかね」
「ある……だろうな、でもよくわからん」
先輩は台車から荷物を下ろしながら首を振った。
「俺もそこまで詳しくない。気になるなら職員に聞いてみればいい。ただ、考えすぎるなよ。俺なんかここ来た時Eだったんだぞ? 今はDまで上がったし、ちゃんと働いてりゃ見てくれるところは見てくれる」
「そうでしたね」
「俺は先にCまで行くからな。そうなったら先輩づらしてやるよ」
「今もう十分してるじゃないですか」
「それもそうだな」
先輩が笑い、黒崎もつられて笑った。
それでも、さっき感じた小さな違和感だけは消えなかった。
◇
夕食の時間になり、黒崎が同じマンションから来た仲間たちと食事をしていると、一人の男が周囲を見回しながら声をかけてきた。
「黒崎さん、吉岡さん見ませんでした?」
「吉岡さん? 今日は見てないけど、仕事じゃないのか?」
「それが、昨日の夜から部屋に戻ってないみたいなんです。同じ区画の人も見てないって」
吉岡は五十歳を少し過ぎた男で、黒崎たちと同じマンションからここまで歩いてきた住民の一人だった。持病があり、移動中も何度か休憩を必要としていたため、入所時の評価はEだったと本人から聞いている。
「医療区画じゃないのか?」
「それも聞いたんですけど、入ってないみたいで」
昼間のことが頭をよぎった。
黒崎は食事を途中で止め、近くにいた職員へ確認を頼んだ。しばらく待たされたあと戻ってきた職員から告げられたのは、短い答えだった。
「吉岡さんは本日付で再配置対象となっています」
「……再配置?」
黒崎の隣にいた住民が驚いた。
「どこに行ったんですか?」
「申し訳ありません。個別の再配置先についてはお答えできません」
「でも俺たち、一緒にここまで来たんです」
黒崎は声を荒らげることなく、それでも昼間より一歩だけ踏み込んだ。
「行き先を詳しく教えてくれとは言いません。無事に別の施設へ着いたのか、それだけでも確認できませんか? あの人、持病もあるし、外を歩けるような状態じゃないんです」
職員は困ったように表情を曇らせた。
「お気持ちは分かります。ただ、私の権限ではお答えできません。ご家族として登録されている方であれば照会できる場合がありますが、それ以外の方には個人情報を開示できない規則になっています」
「……そうですか」
「申し訳ありません」
職員は頭を下げ、離れていった。
黒崎はしばらく食事へ手をつけなかった。
昨日までは、通路の向こうを歩いていく知らない人たちの話だった。
そして今日、その三文字は、一緒に雪の中を歩いてここまで来た人間の名前と結びついた。
《再配置》。
それが何を意味しているのか、黒崎にはまだ分からなかった。
◇
午後十時。
マンション一階には、柴田一味、それに昼間の募集を見て集まった住民たち6名が集まっていた。一ノ瀬も最初だけ顔を出し、参加者の名前をスマートフォンで確認している。追加分の缶詰については翌朝の配給時に渡すと説明すると、「ちゃんと覚えておいてくださいよ」と念を押す者までいた。
「分かってるって。参加した人は全部名前残してるから」
一ノ瀬はそう答えると、入口近くに立つ柴田へ目を向けた。
「本当に来ると思う?」
「知らねえよ。来ねえならそれでいいだろ」
柴田は昼間の外来者が消えていった方向を、ガラス越しにしばらく眺めていた。右手には普段から使っているハンマーがあり、松本も鉄パイプを壁へ立てかけている。住民へ警備を押しつけて部屋へ戻るつもりはないらしく、柴田は集まった人数を数えると入口付近と共用廊下側へ何人かずつ立つよう指示した。
「全員固まってても意味ねえ。入口見る奴と、奥にいる奴に分かれろ。何か見えたら勝手に外へ出んな。まず全員に知らせろ」
普段なら柴田から命令されるだけで顔をしかめる住民も、今日ばかりは文句を言わなかった。
昼間の外来者を実際に見た者が多く、しかも一ノ瀬が缶詰一個という報酬まで用意している。念のため武器になる物を持ってくるよう言われていたため、金属製の棒を持ってきた者、工具箱から大きめのレンチを持ち出した者、中には木刀を抱えてきた者までいた。
一ノ瀬は集まった顔ぶれを一通り確認すると、「何かあったらすぐグループに書いて」と言い残して上へ戻っていった。柴田たちはそのまま一階に残り、最初のうちは住民たちと一緒に入口や窓の外を警戒していた。
しかし、昼間の外来者が去ってからすでに何時間も経っているが、その後は何も起きていない。
最初こそ誰もがガラスの向こうへ何度も目をやっていたものの、一時間を過ぎた頃には次第に緊張が緩んでいった。
柴田は入口近くの壁にもたれて黙って外を見ており、松本は住民の一人と煙草の残り本数についてどうでもいい話を始めている。ほかの住民たちも壁際へ座り込み、やがてあちこちで雑談が始まった。
「これで本当に缶詰もらえるんだよな?」
「一ノ瀬がそう言ったんだから出すだろ。これでなしとか言われたら俺今帰るぞ」
「お前、缶詰一個で夜中まで起きてんのかよ」
「じゃあお前は何しに来たんだよ」
「……缶詰」
「同じじゃねえか」
小さな笑いが起きた。
以前ならほとんど話したこともなかった住民同士だった。住んでいる階も違えば、年齢も仕事も違う。それが六十八日間も同じ建物に閉じ込められ、今では誰が水を作っているのか、誰が病気なのか、どの階で揉め事が起きたのかまで知っている。
「それにしても、雪かなり弱くなったよな」
一人がガラスの向こうを見ながら言った。
「ああ。先週なんか外ほとんど見えなかったからな。このまま止むんじゃねえか?」
「止まってくれないと困るよ。もう食料だってそんなにないんだろ?」
「なぁ、このマンションのやつで政府の保護地区に行った奴、いるのかな」
「そりゃいるだろ。ここの住民政府関係者もいたし、繋がってる人もいたしな」
話題は政府の保護地区へ移り、そこから今後配給が再開されるのか、外気温はいつ上がるのか、雪が止まれば道路を使えるようになるのかと続いていった。
誰にも答えは分からない。
それでも数日前まで、世界がこのまま白い雪に埋まり続けるとしか思えなかった頃と比べれば、降雪が明らかに弱くなっているという事実だけでも、住民たちには僅かな希望になっていた。
「あと少し耐えれば、何とかなるかもな」
壁際に座っていた誰かが、そんなことを呟いた。
少し前までなら楽観的すぎると笑われていたかもしれないが、今はそれを否定する者もいない。静かな時間が続くほど、張り詰めていた空気は少しずつ緩んでいった。
やがて時計は午前零時を回った。
入口を見張る住民たちにも疲れが見え始め、欠伸を噛み殺す者や、壁にもたれて目を閉じる者まで出ている。それでもマンションの外は静かなままで、あれほど警戒していた外来者が再び姿を現すことはなかった。
「やっぱ考えすぎだったんじゃねえの?」
「映画じゃあるまいし、本当に攻めてくるかよ」
「じゃあもう帰っていいですか?」
「缶詰もらえなくなるぞ」
「それは困ります」
また笑いが起きた、その直後だった。
入口近くに立っていた男の表情が変わった。
「……おい」
誰も反応しない。
「おい! 外!」
声に押されるように全員が振り返る。
弱くなった雪の向こうに、人影があった。
昼間と同じ十数人。
ただし今度は、全員の手に何かが握られていた。
鉄パイプ、バール、ハンマー、斧。昼間は杖代わりにも見えた金属棒も、今度は明らかに武器として握られている。
「……マジかよ」
警備に参加していた男が震える指でスマートフォンを取り出した。
『昼の奴ら本当に来た!』
『武器持ってる!』
『俺らより人数が多い! 一階に来れる奴もっと来てくれ!』
深夜にもかかわらず、既読の数字は急速に増えていく。
『柴田たちに任せればいいだろ?』
『警備の人いるんですよね?』
『何人いるの?』
『誰かいけよ』
『じゃあお前がいけよ!』
いつものマンションだった。
危険なことは誰かに任せる。自分は部屋から出ない。柴田が嫌いでも、こういう時だけは柴田に何とかしてもらおうとする。
そんな書き込みが続く中、一つのメッセージが流れた。
『バカか!もうそんなこと言ってる場合じゃねえだろ!』
昼間、水作りを担当していた男だった。
『あいつらに食料取られたら俺たち全員死ぬぞ!』
『俺は行く。家にある工具持って降りる』
それを境に、チャットの流れが変わった。
『確かに持ってかれたら俺たち冗談抜きでやばいぞ』
『一緒にいくやついる?』
『俺、行くわ』
『自分も行きます』
『何か武器になるもの持っていった方がいいですよね?』
一つ、また一つと部屋の扉が開いた。
これまで危険が起きるたびに部屋へ閉じこもり、誰かが解決するのを待っていた住民たちが、バットや工具、家具から外した棒を手に廊下へ出てくる。彼らを動かしたのは勇気でも正義感でもなかった。
自分たちがあと何日生きられるか分からない中、残された食料だけは奪われるわけにはいかないという、もっと単純で切実な理由だった。
階段から住民たちが次々と降りてきて、一階にはあっという間に大勢の人間が集まり、その光景を目にした外来者たちの表情は、明らかに変わった。
だが、人数が集まったからといって、まだ双方が直接向かい合っていたわけではない。
マンションの正面入口には、ガラス張りの自動ドアが残っている。電力が不安定になってからは自動開閉を止め、内側から施錠したまま使っていた。昼間も外来者たちはそのガラス越しに話しており、今もまだ一枚の扉が両者を隔てていた。
「おい! そこで止まれ!」
柴田が内側から怒鳴った。
「昼にも言っただろ! 帰れ!」
外来者たちは足を止めたが、今度は誰も引き返さなかった。先頭にいる男がガラス越しに中を見て、その後ろでは鉄パイプやバールを握った者たちが息を荒くしている。
「もう一回だけ話をさせてくれ!」
「話すことなんかねえよ!」
「頼む! 本当に少しでいいんだ!」
「昼に断っただろ!」
住民たちからも怒鳴り声が飛び、エントランスの中は一気に騒がしくなった。昼間ならまだ扉越しに言い争うだけで済んでいたが、外来者側にはもう引き返して朝を待つだけの余裕がなかった。
先頭の男が何度か仲間を振り返った。
「……仕方ない」
「おい、何する気だ!」
住民の一人が声を上げた時、外来者の一人が前へ出た。
手にしていたバールが振り上げられる。
ガンッ!
鈍い衝撃音とともに、入口のガラスが大きく震えた。
「てめえ!」
「離れろ! ガラスから離れろ!」
松本が叫び、最前列にいた住民たちが反射的に数歩下がった。
もう一度。
ガンッ!
ガラスの表面に白い亀裂が走った。
「マジで割る気だぞ!」
「ふざけんな! やめろ!」
「開けてくれりゃこんなことしねえよ!」
「だから食料はやれねえって言ってんだろ!」
怒鳴り声を無視するように、今度は別の男も鉄パイプを振り下ろした。
ガンッ! ガンッ!
何度目かの衝撃で、ガラス全体へ細かな亀裂が一気に広がった。次の一撃が入った瞬間、耐えていたガラスが大きな音を立てて崩れ、細かな破片がエントランスの床と外の雪へ飛び散った。
「下がれ!」
柴田が叫ぶ。
割れた部分からすぐに入れるほどの穴ではなかったが、外来者は残ったガラスをバールで叩き落としてから、割れた部分から腕を伸ばし、内側の解錠レバーへ手をかけた。
「おい、やべえ!」
住民が腕を叩こうとした時には遅かった。
ガチャッ。
ロックが外れた。
最初は扉一枚を挟んだ押し合いだったが、飢えているとはいえ十数人がまとめて体重をかければ、一人二人では支えきれない。
「押せ! 入れさせんな!」
「もっと来い!」
住民たちで一緒に扉を押し返したが、外からも怒号が上がり、数度大きく揺れたあと、扉が半人分ほど開いた。
そして、一人の外来者が肩をねじ込む。
そこからは早かった。
入口では、押し返そうとする住民と中へ踏み込もうとする外来者が激しくぶつかり合っていた。怒鳴り声が飛び交い、鉄パイプや工具がぶつかる音が狭いエントランスに響き渡る。
やがて均衡が崩れた。
外来者の一人が住民を突き飛ばし、その隙間へ数人が一気に身体をねじ込む。押し合っていた住民たちがよろめき、外来者たちはそのままエントランスの中へ雪崩れ込んだ。
もはや、入口のガラス扉に両者を隔てる役目など残っていなかった。
だが、中へ踏み込んだ外来者たちの足が止まる。
薄暗いエントランスの奥。階段の前にも、廊下にも、壁際にも人がいる。鉄パイプや工具を握った住民たちが、いつの間にか彼らを取り囲むように立っていた。
外から見えていた人数だけではない。
まだ、こんなにいる。
その光景を前に、外来者の一人が思わず声を漏らした。
「……お前ら、まだそんなにいたのか」
驚くのも無理はなかった。
彼らが身を寄せていた場所にも、寒波が始まった頃にはこのマンションと大きく変わらない数の人間がいた。
しかし、そこには食料を一括して管理する者も、全員へ一定量を配る仕組みもなかった。各自が自室に残っていた食料を食べ、それが尽きれば空き部屋を漁り、備蓄が見つかれば奪い合った。多く持つ者は隠し、力のある者は他人から奪い、明日のことなど考えず、その日に腹を満たせるだけ食べる者もいた。
当然、備蓄の減り方は同じではなかった。まだ数日分を隠し持つ者がいる一方で、何日もまともに食べていない者が現れ、やがて食料そのものより、それを巡る争いで傷つく者まで増えていった。
体力を失った者から倒れ、奪う側と奪われる側の境界も何度も入れ替わり、六十八日を経た今では、最初にいた住民の多くがいなくなっていた。
皮肉なことに、このマンションは違った。
柴田たちが来てから、住民は食料を奪われ、配給量を決められ、最近では高齢者や病人、働いていない者の取り分まで削られている。そのやり方を公平だと思う者などおらず、柴田たちを恨んでいる住民も少なくない。
だが、彼らが食料を一括して管理し、勝手に消費することを許さなかったからこそ、備蓄がここまで残ったのも事実だった。
住民たちが憎んできたその管理が、皮肉にも八十人を超える人間を今日まで生かしている。
もちろん、それを柴田たちのおかげだと思っている住民など一人もいなかった。
「……頼む」
昼間、最後に仲間を連れて引き上げた男が前へ出た。手にはバールを持っているが、まだ構えてはいない。
「俺たちだって、こんなことしたいわけじゃない。本当に少しでいいんだ。食料を分けてくれ。俺たちも、もう後がない」
「ふざけんな!」
マンション側から声が飛んだ。
「昼にも言っただろ! これは俺たちのもんだ!」
「お前らにはまだあるだろ!」
「だから何だよ! お前らに渡したら、その分俺たちが早く死ぬんだよ!」
「こっちはもう何日も食ってねえんだぞ!」
「知らねえよ! 俺たちだって毎日腹いっぱい食ってるわけじゃねえ!」
昼間と同じ言い争いだった。
ただ、昼間とは違い、双方の手には武器があった。
互いの距離が縮まり、最前列にいた男同士が胸を押し合った。一度押されれば押し返し、肩がぶつかり、誰かが「触んな!」と怒鳴る。
後ろから仲間を止めようとする声も聞こえたが、十数人と数十人の感情が一箇所へ集まった状況で、誰か一人の声だけが届くはずもなかった。
「帰れって言ってんだろ!」
「だから少しでいいんだ! 食料を分けてくれ!」
「いいからもう帰れ!」
「話を聞けって!」
マンション側の男が外来者の胸倉を掴み、そのまま力任せに引き寄せた。
「てめえら、いい加減に――」
「離せコラ!」
怒鳴り声と同時に、外来者の後ろにいた若い男が飛び出した。その手には、鉄パイプが握られている。
誰かが止める間もなかった。
大きく振り上げられた鉄パイプが、胸倉を掴んでいた男の側頭部へ叩きつけられる。
ゴッ!
肉の奥まで響くような鈍い音が、一階のエントランスに響いた。
男の身体から一瞬で力が抜けた。掴んでいた手が外れ、膝から崩れるように床へ倒れ込む。
それまで飛び交っていた怒鳴り声が、ぴたりと止まった。
誰もが、床に倒れた男を見ていた。
ただの言い争いだったはずのものが、その一撃で完全に別のものへ変わった。
殴った男自身も目を見開いた。ほんの一瞬前まで怒鳴り合っていただけだった。殺そうと思って振ったのか、それとも仲間を助けようとしただけなのか、それを考える時間すらなかった。
「……てめえ」
人垣の奥から、押し殺したような声が響いた。
柴田だった。
前にいた住民の肩を乱暴に押し退けながら進み出る。その顔には、さっきまでの警戒も迷いもなかった。あるのは、自分の目の前でこっち側が殴られたことへの剥き出しの怒り。
「何してくれてんだ、コラァ!」
怒声とともに、柴田が踏み込んだ。
外来者が気配に気づいて振り向いた時には、柴田のハンマーはすでに頭上高くまで振り上げられていた。
男は咄嗟に腕を上げようとしたが、それよりも早く、柴田は踏み込むと同時に全身の力を込めてハンマーを振り下ろした。
鉄の塊が脳天をまともに捉え、ゴッ、と硬いものを叩き割るような音がエントランスに響き、衝撃で男の頭が大きく沈み、その身体は抵抗する間もなく膝から崩れ落ちた。
握っていた武器が床を転がり、額から溢れ出した血が顔を伝っていくが、男はすでに身じろぎ一つしなかった。
あまりにも容赦のない一撃に、周囲の空気が変わる。
柴田は倒れた男には目もくれず、ハンマーを握ったまま外来者たちを睨みつけた。
「ゴチャゴチャうるせえ!」
柴田の怒声に反応するように、外来者たちが一斉に武器を構えた。
そして、マンションの住民たちも退かなかった。
誰かに命令されるより先に、それぞれが手にしていたバットや工具を強く握り直す。目の前には頭から血を流して倒れた仲間がいて、そのすぐ近くには柴田の一撃を受け、動かなくなった外来者がいる。
ほんの数時間前まで、両者に大した違いなどなかった。死にたくない。食料が欲しい。そして、自分たちと一緒に生きてきた仲間を守りたい。ただそれだけの理由で、それぞれがここまで生き延びてきた。
だが、一度血が流れてしまえば、そんなことはもう関係なかった。
武器を取った自分、それから自分たちの仲間を傷つけた敵。
それだけで十分だった。
柴田がハンマーを持ち上げ、外来者たちを睨みつける。
「殺るぞ!」
その一声で、六十八日間の飢えと恐怖の中でも辛うじて押し込められていた住民たちの原始的な本能が、今、一斉に目を覚ました。
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Day 68
電力 ▲
ガス ×
水道 ×
通信 ▲
降雪 微弱
生存確認者 85人
今日のメモ:
「本能が目覚めた時、恐怖は意外と早く消える。」
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