第53話 殿下、と呼ばれた
草原を歩き始めて、三十分が経った。
街が近づくほど、空気が変わった。
草の匂いが、少し違う。湿度が低い。草の色が、歩き始めた場所より濃い。地面が、少しずつ黒に近い土に変わっていった。
聖夜は足元を見た。
踏んでいる土が、普通の土ではなかった。黒曜石に似た粒子が、土の中に混じっている。光を受けると、微かに光る。踏むたびに、わずかに滑らかな感触があった。
「……この道」と聖夜は言った。
「道標です」とユリアが静かに返した。「この色になっている場所は、意図的に作られています。誰かが、ここに道を作った」
「誰が」
ユリアが少し間を置いた。
「……後で話します」
その言い方が、さっきと同じだった。
聖夜はユリアを見た。横顔だった。氷色の瞳が、遠くを向いていた。街を見ているのではなかった。もっと先を、あるいはもっと内側を、見ているような目だった。
「怖いか」と聖夜は言った。
ユリアが少し止まった。
「……怖い、ではないと思います」
「なら何だ」
「……覚悟が、必要な場所だと思っています」
「そうか」
「あなたにも」
「俺に?」
ユリアが、初めてこちらを向いた。
「……あなたにも、覚悟が必要かもしれません。それだけです。今は」
「わかった」
ユリアが前を向いた。また歩き始めた。
◆
街の手前に、門があった。
正確には、門だったものがあった。柱だけが残っていて、扉はない。石でできた柱の上部に、月を象った紋章が刻まれていた。月の中に、翼を持つ蛇のような生き物が描かれている。見たことのない紋章だった。
「……あれは」とここなが言った。
「通れる」と聖夜は言った。
「わかってるけど、なんか……ね」
「ああ」
「なんか、が来た気がする」
「そうだな」
ここなが深呼吸した。
「……行こっか」
「ああ」
全員が門をくぐった。
柱の間を通った瞬間、空気が変わった。
体が変わったわけではない。気温が変わったわけでもない。ただ、何かが変わった。重さが違う、と聖夜は思った。この場所の空気は、少し密度が高い。草原の空気より、圧がある。
「……感じますか」とユリアが言った。
「ああ」
「……ここは、草原より深い場所です」
「深い?」
「……ここから先は、管理されている」
「誰に」
ユリアが答える前に、ラヴィニアが言った。
「誰かいるわ」
全員が止まった。
道の先に、人影があった。
一人ではなかった。三人だった。黒い外套を纏っていた。頭巾を深くかぶっていた。顔が見えない。しかし、敵意はなかった。武器を構えていない。ただ、立っていた。こちらを待っていた、という佇まいで、道の中央に立っていた。
「……誰だ」と聖夜は言った。
声が届いたのかどうか、三人は動かなかった。
一拍の間があった。
その後、中央の人物が、一歩前に出た。
頭巾の下で、顔が上がった。
四十代前後と思われる女性だった。高い鼻梁。切れ長の目。肌が白く、瞳が深い紫をしていた。その瞳が、聖夜を一瞥した。それからユリアを見た。
その瞬間、女性の表情が変わった。
驚きではなかった。驚きよりも、もっと深いものだった。安堵でも、再会の喜びでもなかった。長い時間の後に、ようやく正しい場所に収まった何かを確認するような、そういう表情だった。
女性が、膝をついた。
後ろの二人も、同時に膝をついた。
そして、女性が言った。
「……お帰りなさいませ」
声が、草原の風の中に広がった。
「ユリア殿下」
◆
聖夜の呼吸が、一拍止まった。
ユリア殿下。
その言葉が、耳の中で繰り返された。
聖夜はユリアを見た。
ユリアは、動かなかった。逃げなかった。横を向かなかった。女性が膝をついた瞬間から、ずっと前を向いていた。氷色の瞳が、膝をついた女性を見ていた。
「……クローナ」とユリアが言った。
女性が頭を上げた。
「はい」
「……久しぶりだ」
「三年ぶりでございます」
ユリアが少し頷いた。それだけだった。
聖夜は、何も言えなかった。
ユリア殿下。その言葉の意味が、頭の中で整理されていく。殿下、という呼び方が意味するものが、少しずつ形になっていく。
(……殿下)
(この場所は)
(ユリアは)
「……聖夜さん」
ユリアが、聖夜を呼んだ。
「ああ」
「……話します。今から」
「ああ」
ユリアが、聖夜の方を向いた。正面から向いた。氷色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「私は、魔王の娘です」
草原の風が、止まった気がした。
「……ヴァルシュタイン王家の第一継承者。名をユリア・ヴァルシュタイン。この土地の、正統な継承権を持ちます」
聖夜は、何も言わなかった。
「……言っていませんでした」とユリアは続けた。「デスゲームの中で、言えませんでした。あなたに選ばせたくなかったから。知った上で選ぶのではなく、ただの感情で選んでほしかったから」
「……」
「……ですが」とユリアは言った。声が、少し変わった。「あなたは選びました。何も知らずに、選びました。隣にいろ、と言った。ずっといろ、と言った。その言葉を、ここに持ってきた」
聖夜は、ユリアを見た。
ユリアの目が、揺れていた。氷色の瞳が、今まで見たことのない揺れ方をしていた。泣いているのではなかった。崩れているのでもなかった。ただ、揺れていた。
「……怒っていますか」
「怒っていない」
「……そうですか」
「言えなかった理由は、わかる」
「……」
「俺も、言えなかったことがある。お前は知っている」
ユリアが、少し止まった。
「……はい」
「なら、同じだ」
ユリアが、またこちらを見た。
「……同じ、ですか」
「同じだ。黙っていたことは、嘘じゃない」
ユリアの目から、何かが消えた。緊張のようなものが、少し引いた。
◆
クローナという女性が立ち上がった。
こちらに近づいてきた。聖夜を見た。紫の瞳が、聖夜を正面から見た。
「……あなたが、殿下とともにゲームを越えた者ですか」
「ああ」
「殿下の隣に立った者ですか」
「そうだ」
クローナが、少し止まった。
聖夜を上から下まで、一度だけ見た。値踏みではなかった。確認だった。何かを測っていた。
「……一つだけ、聞いてもよいですか」
「何だ」
「あなたは、殿下が魔王の娘であることを知らずに、隣にいると選びましたか」
「知らなかった」
「では、今知った上で、どうしますか」
聖夜は少し止まった。
風が来た。草が揺れた。遠くで、何かの羽音がした。
「……変わらない」と聖夜は言った。
「理由を」
「隣にいろと言った。その言葉は、俺が言った言葉だ。理由があって言ったわけじゃない。だから、理由ができても変わらない」
クローナが、また止まった。
長い沈黙だった。
「……知らなかったことは、免罪になります」とクローナはゆっくり言った。「ですが」
「ですが?」
「……選ばなかったことには、なりません」
その言葉が、空気の中に落ちた。
「あなたはすでに選んだ。その選択は、この土地では政治的な意味を持ちます。霊的な意味を持ちます。殿下の隣に立った者として、この先、それ相応のものを問われる可能性があります」
「わかった」
「……わかった、だけですか」
「今の俺に言えることは、それだけだ。この先何を問われるかは、その時に答える」
クローナが、聖夜を見た。
もう一度、今度はもっとゆっくり、見た。
「……では、歓迎します」
一礼だった。深くはなかったが、軽くもなかった。
「殿下の帰還を、心よりお迎えします」
◆
ここなが、聖夜の袖を引いた。
「……ねえ」
「ああ」
「魔王の娘って、すごい話じゃない」
「そうだな」
「聖夜は、いいの?」
「何が」
「何がって……色々」
「色々は、これから考える」
「……今は考えないの」
「今は、前を向く」
ここなが少し止まった。
「……なんか、聖夜っぽい」
「そうか」
「うん」
ここなが、また前を向いた。
「まあ、あーしらもついてくけどね」とここなは言った。「魔王の娘の友達、ちょっとかっこよくない?」
「かっこいいかどうかはお前が決めることだ」
「かっこいいことにする」
◆
ユリアが聖夜の隣に来た。
二人で、街の入口を見た。
壁があった。石でできた壁だった。高さが十メートル以上ある。黒い石で、所々に月の紋章が刻まれていた。門があって、開いていた。その向こうに、街が見えた。
「……入りますか」とユリアが言った。
「ああ」
「……怖いですか」
「怖い」
ユリアが少し止まった。
「……私もです」
「知っているか、この街を」
「……生まれた場所です。三年ぶりに、帰ります」
生まれた場所。
その言葉の重さが、聖夜には少しだけわかった気がした。
「……一緒に入るか」と聖夜は言った。
「……はい」
「俺が先に入ってもいいか」
ユリアが、少し間を置いた。
「……なぜですか」
「お前の帰還なら、俺が先に入った方がいい気がする。魔王の娘が先に入ると、それだけで何かが始まりそうだ。一人の人間が先に入ってから、お前が入る方が、少し時間が稼げる」
ユリアが、また止まった。
「……合理的ではありません」
「そうか」
「ですが」
「ですが?」
「……うれしいです」とユリアは言った。声が、少し低くなった。いつもの静かな声より、もっと下の場所から出てきた声だった。「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……では、先に入ってください」
「ああ」
聖夜が一歩、前に出た。
門の方に歩き始めた。
背後でユリアが、ほんの少し息を吸う音がした。
「……聖夜」
「ああ」
「……隣にいてください。その先も」
聖夜は止まらずに歩いた。
「ずっといろと言った」
「……はい」
「俺の言葉は変わらない」
ユリアが、追いついてきた。
二人が並んで、門をくぐった。
その後ろから、ここな、美羽、ラヴィニア、イリヤーナが続いた。ヴェルナのシルエットが最後に入った。
七つの影が、黒い石の街に入った。
魔の国の、最初の夜が始まった。
【LVR:聖夜 175、ユリア 114、美羽 99、ここな 127、ラヴィニア 107、イリヤーナ 133】
【世界B:浮遊島 魔の国太陰外縁 移動完了】
【第2章へ続く】
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