第0話 崩れた人生、ログインの先に
兄貴が死んだ。
深夜、ブラック企業からの帰り道。
トラックに撥ねられたらしい。
連絡が来た時、俺は布団の中でスマホを眺めていた。
感情が、なかった。
悲しいとか、辛いとか、そういうものが来なかった。
ただ、心の奥底で何かが静かに崩れる音だけがした。
兄貴は昔から、頼れる存在だった。
俺が転んで泣いた時、「大丈夫だ、傷は男の勲章だ」と笑っておんぶして帰ってくれた。
俺が学校で嫌なことがあった時、何も言わず隣に座ってゲームをしてくれた。
「俺の弟だからな、強くなれよ」と言って、またすぐ出かけていく。
寂しかったけど、誇らしかった。
やがて兄貴は高校を卒業して、大学のある都市へ出て行った。
薄給激務の中でも仕送りを欠かさず、たまの帰省には必ずお菓子を買ってきた。
俺は何もしなかった。
高校を出ても実家でぐずぐずして、バイトも続かず、部屋にこもってゲームと配信だけが世界だった。
夢があった。歌だ。高校の時、声を褒めてくれた女の子がいた。
その子の笑顔が忘れられなくて、「歌ってみた」動画を投稿し続けた。
でもある日、その子をネットで見つけた。
別の場所で。
別の形で。
それから何もかも嫌になって、大学を辞めた。
外に出るのが怖くなった。
部屋の中だけが俺の世界になった。
最後に兄貴と話した日、俺は言ってしまった。
「兄貴だって、所詮オタクじゃん。リアルで負けてるから、二次元でしか輝けないんだろ」
兄貴は悲しそうな目をして、何も言わずに部屋を出ていった。
それが、最後だった。
◆
葬式が終わると、家が冷たくなった。
「うちには余裕がないのよ」
母親は現実的だった。
父親は黙ったまま、俺の荷物をダンボールに詰め始めた。
「悪いな」
たった一言だった。
追い出された。
外は雨だった。
重い荷物を抱えて、傘もなく、駅前を歩いた。
ネットカフェも三日で金が尽きた。
スマホの充電が切れた。
通帳の残高は数百円だった。
裏路地で雨宿りをしながら、俺はただ、時間が過ぎるのを待っていた。
「なんで、俺だけ……」
誰にも届かない呟きが、雨に消えた。
◆
その時、目に入った。
雨に濡れた一枚のチラシ。
「高額賞金付きVRMMO大会 参加者募集」
参加費無料。
優勝者には数千万円の賞金。
罠だと思った。
でも、もうどうにでもなれという気持ちが勝っていた。
「……これが俺の逆転の切り札だ」
その瞬間、背後から足音がした。
「運命みたいなもんだな」
黒尽くめの男が、不気味な笑みを浮かべていた。
「迷ってる暇はねえぞ。踏み出すか、朽ちるか。人生、どっちかしかねえ」
俺は会場に向かった。
◆
雑居ビルの一室に、何十台ものVRカプセルが並んでいた。
スタッフは誰も喋らない。
無機質にカプセルへと案内される。
薄暗い内部。消毒薬の匂い。
扉が閉まり、モニターに「エントリー受付中」の文字が浮かんだ。
「……せめて、最後くらい主役になってやる」
深呼吸して、バイザーを装着した。
カウントダウンが響く。
脳が一瞬、浮遊感に包まれて——
◆
目を開けると、見知らぬ世界だった。
白い空間。
床も天井もなく、ただ何百という人影が円形に並んでいる。
耳元に、無機質な声が響いた。
『ようこそ、プレイヤーの皆様』
『これより、初期スキル抽選を開始します』
順番にスキルが付与されていく。
「剣帝」
「召雷」
「血霊召喚」
歓声と悲鳴が混じる。
そして俺の番が来た。
『プレイヤーNo.112——識別コード:聖夜』
『抽選開始』
次の瞬間、ノイズが走った。
『……エラー……識別不能……コードΩ干渉確認……』
『性神スキル《エンプティ・リンク》、付与』
「……あ?」
周囲が静まり返った。
一瞬の沈黙の後、誰かが吹き出した。
「なんだよそのスキル名ww」
「"性神"てw 中二病かよw」
{コメント:こいつ、童貞なのに性神ってマジで草}
{コメント:今期の笑い枠、爆誕w}
{コメント:詰みスキルで草 相手いないやろww}
俺は笑えなかった。
《スキル《エンプティ・リンク Lv.1》付与完了》
《ステータス:童貞/未契約》
《LVR:100》
《WARNING:《エンプティ・リンク》保持者は
LVR減少速度が通常の2倍です》
《現在のLVR減少速度:−10/時間》
《LVR0到達まで:10時間00分》
数字が、俺の目に焼きついた。
(10時間)
他の全員は20時間ある。
俺だけ10時間だ。
(詰んでる)
その時、システムの声が続いた。
『プレイヤーの皆様に、ゲームのルールをお伝えします』
ルールが読み上げられた。
【死亡条件】
一、HPがゼロになること。
二、LVRがマイナスになること。
三、制限時間内に層を突破できないこと。
四、審判で「視聴価値なし」と判定されること。
『停滞は、死です』
ざわめきが広がった。
「視聴価値って何だよ」
「LVRがマイナスで即死? ゼロじゃなくて?」
「審判って何の審判だ」
『LVRとは——』
システムが続けた。
『LVRとは、恋愛値です』
『接触、共闘、感情的な交流により上昇します』
『マイナスになった瞬間、即時排除されます』
恋愛値。
その言葉だけが、やけに浮いていた。
でも、笑っていられる空気ではなかった。
誰かが言った。
「……これ、恋愛ゲームじゃないか」
「接触で上がるって……それって……」
「童貞死亡ゲームかよ」
{コメント:LVRマイナスで即死って言ったぞ今}
{コメント:審判ってなんだよ怖すぎる}
{コメント:童貞主人公、開幕詰みで草}
俺は自分の画面を見た。
《LVR:100》
《減少速度:−10/時間》
《LVR0まで:10時間00分》
(10時間以内に誰かと接触しなければ、俺は死ぬ)
スキルの内容を確認した。
《エンプティ・リンク》
異性との接触により、LVRが上昇する
接触の深度により上昇量が変化する
接触がない場合、LVRの減少速度が加速する
最後の一行を、二度読んだ。
(接触がない場合、減少速度が加速する)
つまり、何もしなければ10時間を待たずに死ぬ。
「……こんなスキル、誰が嬉しいんだよ」
誰にも届かない呟きだった。
◆
転送が始まった。
視界が暗転して——
次の瞬間、地面に叩きつけられた。
鬱蒼とした木々。
腐葉土の湿った匂い。
どこかで獣が低く唸っていた。
《第1層「死の森」に転送されました》
《制限時間:11:59:58》
《LVR減少中:−10/時間》
《現在のLVR:98》
森の中に、一人だった。
周囲には誰もいない。
遠くで悲鳴が聞こえた。
本物の悲鳴だった。
◆
その時、どこかで笑い声がした。
遠く、世界の外側から。
くつくつと、満足したような笑い声。
俺には聞こえなかった。
でも——
誰かが、確かに笑っていた。
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