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第2話 白鐘の条件


 クラルシア・ヴァイスヴェールは、十八歳の春、子を産むことを求められた。


 それは、命令ではなかった。


 少なくとも、会議室に集められた男たちは誰一人として、その言葉を命令とは呼ばなかった。


 王家の存続。


 国の安定。


 次代への責任。


 女王陛下の御身を案じて。


 ヴァイスヴェールの未来のために。


 美しい言葉はいくらでも並べられた。


 けれど、そのどれもがクラルシアには同じ意味に聞こえた。


 ――あなたの身体を、国のために使いなさい。


 白い指先が、膝の上でわずかに強張る。


 それでも、クラルシアは表情を変えなかった。


 王宮の会議室は、今日も白かった。


 磨き上げられた床。


 重々しい長卓。


 壁に飾られた歴代国王の肖像画。


 窓から差し込む春の光さえ、ここでは冷たく整えられているように見えた。


 卓の向こうには、王国の重臣たちが並んでいる。


 ヴェルナー・クロイツェル宰相。


 アルフレッド内務卿。


 セシル財務卿。


 レオポルド法務卿。


 そして壁際には、親衛隊長ロゼが控えていた。


 彼女だけが、先ほどからずっとクラルシアの横顔を気にしている。


 それが分かるから、クラルシアは余計に微笑みを崩せなかった。


「陛下」


 長卓の向こうで、ヴェルナーが穏やかな声を作る。


 灰色の瞳に、感情らしいものはほとんどない。けれど、その声はよく磨かれていた。誰が聞いても、忠臣の諫言に聞こえる程度には。


「各国より、正式に婚姻の打診が届いております。いずれも王家の血筋として申し分なく、我が国にとっても大きな利となるでしょう」


 書記官が羊皮紙を広げていく。


 隣国の王子。


 北方公国の第二王子。


 海峡を挟んだ商業国家の若き大公。


 顔も知らぬ男たちの名が、まるで商品の札のように並べられていく。


「陛下のお美しさは、すでに諸国にも知れ渡っております」


 ヴェルナーはただ事実を告げるように話、続けて


「各国がこぞって婚姻を望むのも、当然のことでしょう」


とまた感情のない声で告げるのであった。


 褒め言葉のつもりなのだろう。


 クラルシアは、ただ静かに目を伏せた。


 美しい。


 また、その言葉だ。


 王宮に戻されてから、彼女は何度もその言葉を聞いた。


 美しい女王。


 祝福の女王。


 ヴァイスヴェールの宝。


 国を照らす白き星。


 けれど、その言葉を向けられるたび、胸の奥に冷たい石が沈んでいく。


 美しいから、利用される。


 美しいから、欲しがられる。


 美しいから、憎まれる。


 北壁の教会の冷たい床。


 水を吸った服。


 絡め取られる金の髪。


 少女たちの囁き声。


 ――その顔で、また誰かに助けてもらうつもり?


 クラルシアは、わずかに息を整えた。


 女王に即位して三年。


 自分は、いつまでこの国に利用され続けるのだろう。


 いや、おそらく一生なのだ。


 相手を選べないことは分かっていた。


 いいえ、違う。


 そもそも、クラルシアには選ぶ権利などない。


 ――陛下は、笑顔で立っていてくださればよろしいのです。


 即位して間もない十五歳の頃、誰かがそう言った。


 あれは慰めではなかった。


 役割の説明だった。


 誰も、クラルシアに何かを期待していない。


 むしろ、何もできない方が都合がよいのだろう。


 王家の血を持つ、美しい娘。


 都合のよい象徴。


 国の上に飾られた、傷のない人形。


 正直に言えば、クラルシア自身も、この国のことなどどうでもよかった。


 国。


 王家。


 血筋。


 そのどれもが、幼い頃のクラルシアから大切なものを奪っていった言葉だった。


 母シーラが死んだのは、クラルシアが三歳の時だった。


 奴隷としてこの国に売られ、やがて父レオニス王に見初められた、美しい人。


 正室アナスタシアのいる王宮で、決して安らかな立場ではなかった人。


 王の寵愛を受けた奴隷上がりの女。


 そう囁く者たちがいた。


 表立って誰かがシーラを罵ったわけではない。


 少なくとも、幼いクラルシアの前ではそうだった。


 けれど、王宮の廊下にはいつも冷たい目があった。


 正室アナスタシアに連なる貴族たち。


 王の寵愛を奪われたと感じる者たち。


 血筋の正しさを重んじる者たち。


 彼らは母を見て、そして幼いクラルシアを見た。


 奴隷女の娘。


 王の過ち。


 正しき血を乱す子。


 クラルシアには、その言葉の意味までは分からなかった。


 けれど、声の冷たさだけは覚えている。


 母の手を握っていなければ、王宮の廊下を歩くことさえ怖かった。


 その母が、いなくなった。


 なぜ死んだのか。


 誰が守れなかったのか。


 誰が見捨てたのか。


 幼いクラルシアには、何も分からなかった。


 ただ、母は死に、父は自分を王宮から遠ざけた。


 聖ルミナ教会へ。


 通称、白鐘の小教会。


 父は、クラルシアを守るためにそうしたのかもしれない。


 正室アナスタシアのいる王宮から。


 その背後にいる貴族たちの目から。


 母シーラを憎んでいた者たちの手から。


 幼い娘を遠ざけるしかなかったのかもしれない。


 けれど、三歳のクラルシアには分からなかった。


 分かるはずがなかった。


 母が死んだ。


 父は自分を置いていった。


 王宮は、自分をいらない子として外へ出した。


 ただ、それだけだった。


 クラルシアは、聖ルミナ教会で五年を過ごした。


 三歳から八歳まで。


 母を失い、父に手放されたと思っていた幼い少女にとって、その五年だけが、初めて息のできる時間だった。


 シスター・テレサがいた。


 朝には白鐘が鳴った。


 薄いスープがあった。


 硬くても温かいパンがあった。


 泣いてもいい。


 食べてもいい。


 ここにいていい。


 そう言ってくれる人がいた。


 王宮ではない。


 血筋でもない。


 美しさでもない。


 ただ、クラルシアという子供が、今日も生きていていい場所。


 それが聖ルミナ教会だった。


 けれど、その場所も長くは続かなかった。


 八歳の年に、戦が来た。


 火が上がった。


 白い壁が赤く染まった。


 煙が喉を焼いた。


 クラルシアは、戦場の中を泣きながら逃げ回った。


 誰の手も掴めなかった。


 テレサの声を探した。


 白鐘の音を探した。


 けれど、見つからなかった。


 最後に聞こえたのは、炎の中で鳴り続ける、かすれた鐘の音だけだった。


 その後、クラルシアは聖バルナバ教会へ送られた。


 通称、北壁の教会。


 そこで過ごしたのは、たった一年だった。


 けれど、その一年でクラルシアは覚えた。


 人の悪意を。


 何度も顔を水に押しつけられた。


 何度も尊厳を踏みにじられた。


 何度も、声を出さずに泣く方法を覚えさせられた。


 聖ルミナ教会の五年でようやく温まった心を、冷たい水に沈めるには、一年で十分だった。


 やがて、その教会も運営難により閉じられた。


 クラルシアはまた移された。


 ミリアム救貧院付属修道学校。


 そこで彼女は、身を守るためにクレアという名を使った。


 クラルシア・ヴァイスヴェールではなく、ただのクレアとして、六年を過ごした。


 九歳から十五歳まで。


 目立たないように。


 笑いすぎないように。


 誰とも深く関わりすぎないように。


 美しいと言われないように。


 誰かの嫉妬を買わないように。


 それでも、完全には隠せなかった。


 金の髪も。


 白い肌も。


 母に似た顔も。

 どこへ行っても、自分の身体だけはついてきた。


 そして十五歳の時、クラルシアは王宮へ戻された。


 レオニス王が死んだからだった。


 王宮がクラルシアを探し出した理由は、ただ一つ。


 王家直系の血を継ぐ者が、他に残っていなかったからだ。


 正室アナスタシアの血筋から、王位を継げる者は出なかった。


 分家筋の者たちはいたが、王位を継がせるには血が遠く、貴族たちの利害をまとめるには弱すぎた。


 ヴァイスヴェール王家の名を保つためには、レオニス王の血を引く娘が必要だった。


 だから、彼らはクラルシアを探し出した。


 聖ルミナ教会が焼けた時も。


 北壁の教会で泣いていた時も。


 ミリアムでクレアと名乗り、息を潜めていた六年間も。


 誰も、来なかった。


 けれど王が死に、王家の血が必要になった途端、彼らはクラルシアを見つけ出した。


 王女として。


 次の女王として。


 ヴァイスヴェールの血を継ぐ、美しい器として。


 何を今さら。


 そう思った。


 けれど、その言葉を口にすることはできなかった。


 クラルシアには、拒む場所も、逃げる場所も、もう残っていなかったから。


 王宮に戻ったクラルシアを、誰も娘として迎えはしなかった。


 誰も、よく生きていたとは言わなかった。


 ただ、跪いた。


 陛下、と呼んだ。


 そして、美しいと褒めた。


 人としてではなく。


 娘としてでもなく。


 国に必要な血を持つ、美しい器として。


 その時だった。


 遠い記憶の中から、別の声が蘇った。


 ――生きていれば、必ず良いことがやってきます。今がつらければ、今度はきっと良いことがやって来るのですよ。


 幼いクラルシアは、首を傾げて尋ねた。


 ――本当に? 神様が決めたの?


 シスター・テレサは、少し困ったように笑った。


 ――いいえ。わたくしの経験からですよ。


 ――経験?


 ――そうです。だから、自分の心だけは守らなければならないのです。


 ――変なテレサ様。


 そう言って、幼いクラルシアはテレサと笑い合った。


 朝になると、シスター・テレサは鐘を鳴らした。


 聖ルミナ教会。


 通称、白鐘の小教会。


 古びた鐘の音は、決して美しくはなかった。


 少しかすれていて、時々頼りなく揺れて、けれど不思議と遠くまで届いた。


 幼いクラルシアにとって、その音だけが「今日も生きていい」と告げてくれるものだった。


 ――自分の心だけは。


 クラルシアは、唇の奥で小さく呟いた。


「陛下?」


「近いうちに見合いの席を設けさせていただけますれば」


 ヴェルナーの声が、現実へ引き戻す。


 長卓の向こうで、宰相がこちらを見ている。


 他の重臣たちも同じだった。


 誰もが女王の返答を待っていた。


 いいえ。


 違う。


 彼らが待っているのは、クラルシアの返答ではない。


 女王が、彼らの用意した道を受け入れる瞬間だった。


 ごめんなさい、シスター・テレサ。


 わたしの心は、もうだいぶ侵食されてしまっているようです。


 自分さえも、守れていない。


 それでも。


「……条件が、ございます」


 クラルシアは小さな声で告げた。


 会議室の空気が、わずかに変わった。


 アルフレッド内務卿が、鋭い目を細める。


 セシル財務卿は無言で指先を組み直した。


 レオポルド法務卿は、静かに顔を上げる。


 背後に控えていたロゼ親衛隊長が、心配そうにわずかに身じろぎした。


「条件、でございますか」


 ヴェルナーが問い返す。


 その声には、ほんのわずかな苛立ちが混じっていた。


「はい」


 クラルシアは、ゆっくりと顔を上げた。


 逃げ道を探していた。


 もうどこにも残っていない場所の名を出せば、彼らも諦めると思った。


「あの方々の中から選べと仰るのであれば、わたくしは承服できません」


「陛下」


「もし、どうしても伴侶を選べというのであれば」


 クラルシアは、胸の奥で白鐘の音を聞いた。


「わたくしが最初に育った場所――聖ルミナ教会に所縁のある者を」


 誰かが眉をひそめた。


「聖ルミナ教会……戦で焼失した、あの小教会ですか」


「はい」


「しかし、あそこに関係する者など、もうほとんど残っては――」


「だからこそです」


 クラルシアの声は静かだった。


 静かすぎて、自分でも自分の声ではないように思えた。


「あの場所は、わたくしが初めて人として育てられた場所です。王配となる者が、わたくしの過去も、痛みも、何も知らぬ者であるなら、わたくしは受け入れることができません」


 嘘ではなかった。


 けれど、真実のすべてでもなかった。


 聖ルミナ教会はもうない。


 シスター・テレサもいない。


 あの鐘の音を知る者も、きっとほとんど生きてはいない。


 だから、この条件は通らない。


 そう思っていた。


 これが、クラルシアにできる精一杯の反抗だった。


 結婚をすれば、今度は夫に利用されるのだろう。


 それにまだ結婚などしたくない。


 これ以上、自分を利用する人間を増やしたくない。


 ごめんなさい、シスター・テレサ。


 大切な教会を使ってしまって。


 自分で口に出しておきながら、聖ルミナ教会の思い出を穢してしまったような気がした。


 ヴェルナーは、しばしクラルシアを見つめていた。


 やがて、大きく息を吐く。


「陛下。御身は、もはや陛下お一人のものではございません」


 穏やかな声だった。


 けれど、その言葉だけは刃のように冷たかった。


「王家の血を継ぐ者として、もっとこの国の未来をお考えいただかねば」


 クラルシアは答えなかった。


 会議室に沈黙が落ちる。


 だがすぐに、ヴェルナーの目に別の計算が宿った。


 聖ルミナ教会に所縁のある者など、出るはずがない。


 あの一帯は戦で焼かれ、記録も人もほとんど失われた。


 調べたという事実さえあれば、女王のわがままを一度は聞き入れた形にできる。


 そう判断した。


「……分かりました」


 ヴェルナーはロゼへ視線を向けた。


「ロゼ親衛隊長」


「はっ」


「陛下のご要望通り、聖ルミナ教会について調べよ。孤児名簿、奉仕者名簿、保護記録、残っているものはすべてだ」


「御意に」


 ロゼは深く頭を下げた。


 だが、その声にはわずかな緊張が混じっていた。


 聖ルミナ教会。


 クラルシアがその名を口にした意味を、ロゼだけは理解している。


 それが、クラルシアにとって単なる条件ではないことも。


「陛下」


 ヴェルナーは再びクラルシアへ向き直った。


「もし何も見つからなければ、再考していただけますね」


「いいえ」


 クラルシアは静かに立ち上がった。


 椅子の脚が、白い床をわずかに鳴らした。


「これだけは、承服しかねます」


 それだけ告げて、彼女は会議室を後にした。


 背後で扉が閉まる。


 その音が消えたあと、ヴェルナーは低く呟いた。


「……陛下にも、まだご自分の意思が残っておいでか」


 誰も答えなかった。


 その声を、クラルシアは聞かなかった。


 そして数日後。


 ロゼ親衛隊長は、蒼白な面持ちでクラルシアの私室を訪れた。


 その腕には、一冊の古びた名簿が抱えられている。


 革表紙は煤け、端はところどころ焼け焦げていた。


 長い年月を経てなお、戦火の匂いだけが薄く残っているようだった。


「陛下……聖ルミナ教会の孤児名簿が、一部のみ現存しておりました」

 クラルシアは、書き物机の前で静かに顔を上げた。


 その瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。


「……生存者は」


 問いながら、自分の声がかすかに震えていることに気づいた。


 ロゼは一度、唇を引き結んだ。


「多くは死亡、あるいは消息不明でございます。ただ一名のみ、現在の所在が確認されました」


「一名……?」


 その言葉は、思いがけない重みを持ってクラルシアの胸に落ちた。


 生き残りがいた。


 聖ルミナ教会に。


 白鐘の小教会に。


 クラルシアは、しばし言葉を失った。


 あの日のことを忘れたことはない。


 赤く染まった空。


 煙を含んだ風。


 泣き叫ぶ子供たち。


 燃え落ちていく白い壁。


 手を伸ばしても、誰にも届かなかった。


 テレサ様、と叫んだ声は、煙に呑まれた。


 シスターの白い衣も、子供たちの影も、炎の向こうで滲んで消えた。


 そして、最後まで鳴り続けていた白鐘の音。


 あの音だけが、今でも耳の奥に残っている。


 自分は、たまたま生き残った。


 ずっとそう思ってきた。


 いいえ、それは決して間違いではない。


 あの戦火の中で生き延びたこと自体が、奇跡に近かったのだから。


 それなのに、もう一人。


 あの場所を知る者が、まだこの世にいる。


「……その者は、どのような人物なのですか」


 ロゼは、わずかに目を伏せた。


 その沈黙だけで、穏やかな報告ではないことが知れた。


「名は、トルガ・ラグレイ」


 聞いたことのない名だった。


 けれど、その響きはなぜか、煤けた白鐘の破片のように胸の奥へ落ちた。


「聖ルミナ教会の保護記録では、当時、推定十歳。現在は二十歳前後と見られております。王都下層区の出身でございます」


「王都下層区……」


「はい。現在、スラム街にて名を知られつつある男です」


 ロゼの声音には、明らかな警戒が滲んでいた。


「王都保安団の記録にも、複数回名が残されております。下層区での通称は――黒犬」


「黒犬……」


 クラルシアは小さく繰り返した。


 聖ルミナ教会。


 白鐘の小教会。


 シスター・テレサ。


 そこから繋がった名が、下層区の黒犬。


 あまりに似合わない。


 けれど、だからこそクラルシアは目を逸らせなかった。


「人買い組織、違法賭場、密売組織。そのような下層区の犯罪組織が、複数、この男一人に潰されたとの報告がございます」


「一人で、ですか」


「噂の域を出ぬものもございます。ですが、王都保安団――下層区で“銀靴”と呼ばれる者たちでさえ、この男には手を焼いているようです」


 銀靴。


 王都保安団を、下層区の人々はそう呼ぶという。


 磨き上げた軍靴で泥を踏み、貧しい者の戸口を蹴る者たち。


 王都の秩序を守る精鋭でありながら、下層の人々には恐れられ、忌まれている者たち。


 その銀靴でさえ手を焼く男。


 クラルシアは膝の上で、そっと指を握った。


 困ったことになった。


 聖ルミナ教会に所縁のある者など、もう見つかるはずがない。


 そう思って出した条件だった。


 ただの時間稼ぎ。


 ほんの少しだけ、自分の心を守るための抵抗。


 それなのに。


 本当にいた。


 あの白鐘の音を、知っているかもしれない者が。


「……その方は、本当に聖ルミナ教会に」


「記録によれば、短期間ではありますが、保護児として名が残されております。滞在期間は三ヶ月ほど。戦の直前まで、聖ルミナ教会にいたようです」


 三ヶ月。


 長い歳月ではない。


 けれど、十分だった。


 あの教会の朝を知るには。


 テレサ様の声を聞くには。


 無償で差し出されるパンの温かさを知るには。


「その方は……シスター・テレサを、覚えているのでしょうか」


 思わず、声が漏れた。


 ロゼは慎重に答える。


「確かなことは申し上げられません。ただ、記録上は同じ時期に保護されております。面識があった可能性は、十分にございます」


 胸の奥で、かすかに白鐘が鳴ったような気がした。


 もう誰とも話せないと思っていた。


 聖ルミナ教会のことも。


 テレサ様のことも。


 あの朝の鐘のことも。


 王宮の誰に話しても、きっと分からない。


 彼らにとって聖ルミナ教会は、戦で失われた小さな施設の一つに過ぎない。


 けれど、その男が本当にあそこにいたのなら。


 もしかしたら。


 ほんの少しでも。


「会います」


「陛下」


 ロゼの声が、即座に硬くなった。


「恐れながら、それはお勧めできません」


「なぜですか」


「危険人物でございます。王都保安団ですら持て余している男です。そのような者を陛下にお引き合わせするなど、あまりに危険です」


「ですが、その方は、わたくしの出した条件に合うただ一人の人物なのでしょう」


「それは……左様でございますが」


「ならば、会わぬわけにはまいりません」


 ロゼは唇を引き結んだ。


 親衛隊長として、当然の反応だった。


 女王の御前に、下層区の無法者を近づける。


 常識で考えれば、正気の沙汰ではない。


 それでも、クラルシアの決意は揺らがなかった。


「できれば、一対一で話したいのです」


「それだけはなりません」


 ロゼは、ほとんど遮るように言った。


「陛下に万が一のことがあれば、わたくしは何をもって償えばよろしいのですか」


 その声は、職務だけのものではなかった。


 ロゼは本気で案じている。


 そのことが分かって、クラルシアはわずかに胸を痛めた。


「婚姻を結ぶかもしれぬ相手に、護衛を並べて臨むのは、かえって非礼に当たります」


「陛下」


「それに、その方が本当に聖ルミナ教会にいたのなら……わたくしは、王宮の者たちの目がないところで話したいのです」


 ロゼはしばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「では、見えぬ位置に控えさせていただきます」


「ロゼ」


「それが最大限の譲歩でございます。扉の外、あるいは隣室。陛下の声が届く位置に、わたくしと親衛隊を置きます。異変があれば、即座に踏み込みます」


 クラルシアは、ロゼの目を見た。


 これ以上は譲らない。


 その瞳が、静かにそう告げていた。


「……分かりました」


「必ずでございます、陛下」


「ええ」


 クラルシアは小さく頷いた。


 だが、その胸の奥には、誰にも告げられない感情が沈んでいた。


 もし、その男が本当に危険人物なら。


 もし、王都保安団でさえ手をつけられぬほどの悪党なら。


 その刃が、自分へ向けられることもあるのだろうか。


 そう考えた瞬間、クラルシアは自分の心にぞっとした。


 恐怖だけではなかった。


 ほんのわずかに、安堵に似たものがあった。


 これ以上、王宮に飾られ続けることも。


 顔も知らぬ男に嫁がされることも。


 国のために子を産めと求められることも。


 もし、すべてが終わるのなら。


 そう思ってしまった自分が、確かにいた。


 ごめんなさい、シスター・テレサ。


 わたくしはまだ、生きていれば良いことがあると、信じきることができません。


 クラルシアは目を伏せた。


 けれど、その奥で、もう一つの思いも確かに息づいていた。


 聖ルミナ教会のことを、話したい。


 シスター・テレサのことを、聞きたい。


 白鐘の音を知る者が、本当にいるのなら。


 会わなければならない。


 たとえその男が、下層区の黒犬と呼ばれる危険人物だったとしても。


 ロゼは古びた名簿を静かに閉じた。


 煤けた革表紙が、小さく軋む。


 その音はまるで、焼け落ちた白鐘の小教会が、遠い過去からもう一度扉を開いた音のようだった。


 トルガ・ラグレイ。


 下層区の黒犬。


 聖ルミナ教会に所縁ある、ただ一人の生存者。


 その名を聞いた時、クラルシアはまだ知らなかった。


 その男がやがて王宮の白い床に泥を持ち込み、彼女を縛る美しい言葉のすべてを、無礼な靴音で踏み砕いていくことを。


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