第14話 夢の扉
クラルシアは、深い熱の中にいた。
見合い延期の報せは、すでにヴェルナー宰相へ送られている。
だが、返答はまだない。
王宮の空気は静かだった。
静かすぎるほどだった。
寝室では、ロゼが椅子に腰かけ、眠るクラルシアの傍についている。
クラルシアの手には、古びたロザリオが握られていた。
何度かそっと外そうとしたが、そのたびに指先が強ばる。
まるで、それだけは手放してはいけないと、眠りの中でも分かっているかのようだった。
ロゼは何も言わず、その手に布を掛け直した。
雨はもう上がっている。
窓の外には、夜明け前の青い静けさだけが残っていた。
クラルシアは眠っている。
けれど、その心は、どこか遠い場所を歩いていた。
ああ。
また、この夢だ。
わたしは時々、不思議な夢を見る。
目の前に色のついた扉があって、必ずそれを開けなくてはならない。
どれだけ嫌でも。
どれだけ怖くても。
扉は、いつもわたしの記憶へつながっている。
嫌だな。
今日は開けたくない。
そんなふうに思う日ほど、扉は静かにそこにある。
逃げ道なんて、最初から用意されていない。
特に、北壁の教会の夢は見たくなかった。
冷たい水。
濡れた服。
息ができなくなる苦しさ。
あの感覚は、夢の中でも嫌だった。
今日の扉は、黒色だった。
早く開けなくちゃ。
開けなければ、ずっとここに立っていることになる。
わたしは手を伸ばした。
ガチャ、と小さな音がした。
光が見えた。
大きな庭。
古びた校舎。
干された白い布。
食堂から漂う薄いスープの匂い。
ここは、ミリアム救貧院付属修道学校だ。
珍しい。
この夢は、滅多に見ない。
カレンに会えるかもしれない。
わたしの初めての友達に。
「クレア!クレアってば!起きなよ!」
「ん……カレン?」
「なんでパン食べてる途中で眠れるの?あんたは」
「あ、ごめん」
わたしは瞬きをした。
目の前には、硬い黒パンと、薄い豆のスープがあった。
わたしは眠っていたらしい。
ここでのわたしは、クレア。
正しくは、クレアと名乗っている。
クラルシアという名前で散々いじめられたわたしが、この修道学校で咄嗟に嘘をついて出た名前である。
カレンが来たのは、修道学校にきて五年目のことだった。
もう半年が経とうとしている。
彼女はわたしより三つ年上で、もう十八になる。
わたしの知らないことを、たくさん知っていた。
良いことも、悪いことも。
この砕けた言葉遣いも、カレンから学んだようなものだ。
カレン・ブライアは、修道学校の中でよく目立つ少女だった。
南方にルーツを持つマルバ系の女の子で、濃い褐色の肌をしている。
短く跳ねる黒い巻き髪。
背は高く、手足もすらりとしていて、歩く時も、話す時も、どこか堂々としていた。
ヴァイスヴェールではあまり見かけない姿だったけれど、わたしはその肌がとてもかっこいいと思った。
強そうで、逞しくて、わたしとは全然違って見えたからだ。
それに、とにかく背が高い。
そこも、少し羨ましかった。
カレンは無視し続けるわたしを根気よく話しかけてくれた。
とにかく毎日話しかけてくれた。
いたずらされたこともあったけど。
無愛想なわたしをとにかく見捨てないでくれた。
だから、こんなに仲良くなれたんだと思う。
「あんたはモテるねえ」
「そんなことないよ」
わたしはそう答えた。
五年間、誰ともまともに口を利かず、能面のような顔で過ごしてきた。
それでも、時々男の子に呼び出されてしまう。
正直に言うと、やめてほしかった。
またいじめられるのは嫌だった。
だから、ずっと断り続けていた。
断るたびに、胸の奥がずきずきと痛んだ。
好きだと言ってくれる人を、無下にはしたくない。
せめて、できるだけ傷つけないように答えなくては。
そう思うのに、うまくできた試しがない。
「でもさ、一人くらい付き合ってみてもいいんじゃない?」
ああ。
また始まった。
この話はしたくない。
「わたしはそういうのはいいよ。カレンにはいつも言ってるでしょ?」
「だって、キスもしたことないんだもんなー」
「いいって」
「好きな男と裸で抱き合うのは、けっこう幸せなんだけどなー」
「………」
うん。
だから嫌なのだ。
カレンとこういう話になると、すぐそちらへ流れていく。
外で。
昼間に。
パンを食べながらする話題ではない。
「だって、あんたもうそろそろ十五でしょ? 男の一人や二人、知っておいた方がいいって」
「声が大きいよ!」
周りも食事をしているのだ。
そんな開けっ広げに話さないでほしい。
わたしだって恥ずかしい。
周りには男の子もいる。
それに、カレンの恋愛事情は生々しすぎて、聞いていられない時がある。
男はこうすれば喜ぶ。
ああすれば喜ぶ。
こういう時は信用するな。
そういう話を、キスすらしたことがないわたしに聞かせないでほしい。
「最近そういうのないから、相手もいないし」
そう。
これは本当だ。
ここ二か月ほど、男の子からの告白はない。
とても快適に過ごせている。
「そりゃそうでしょ」
「そうなの?」
「うん。あんたは女の子が好きだって、周りにちゃんと言っといたから。で、わたしに片思い中」
「………」
これは難しい。
普通の女の子は、怒るのだろうか。
それとも、お礼を言うのだろうか。
ありがとう。
いや、何か違う気がする。
「あれ?怒んないの?」
やっぱり怒るところらしい。
でも、何と言えばいいのだろう。
わたしは、怒ったことがあまりない。
怒り方が分からない。
「あはははは!」
カレンは急に笑い出した。
「嘘に決まってんでしょ!馬鹿なんだから!何その真面目な顔!」
「……いい。これからカレンとは口利かないもん」
わたしはさすがに怒って、口を尖らせた。
「利いてるじゃん」
「これから利かないの!」
「それがもう子供の言い方なんだよ!」
カレンはまた笑った。
いつもこうやって馬鹿にする。
でも、なぜかとても楽しかった。
笑われているのに、嫌ではなかった。
からかわれているのに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「この肌だよ」
「ん?」
カレンは急に、真面目そうな顔をした。
「周りにわたししかいないでしょ? この肌」
「いないけど……」
急に真面目な話をされて、わたしは怒りの置き場所を失った。
「あんたは、わたしと一緒にいるから告白されなくなったの。ごめんね」
カレンは寂しそうに言った。
その顔を見た瞬間、胸が締めつけられた。
なぜだろう。
どこか、自分のことを言われているような気がした。
「カレンの肌は、かっこいいよ」
「いいから、そういうの」
「本当だから」
わたしは慌てて続けた。
「濃く淹れたコーヒーみたいで、かっこいい」
褒めたつもりだった。
わたしはコーヒーが好きだから。
けれど、カレンは目を丸くしていた。
「……それ、褒め方として合ってる?」
「合ってるよ。わたし、コーヒー好きだもの」
「あんた、コーヒー飲めんの?」
「飲めるよ」
「ちっこい子供みたいな顔して」
「また馬鹿にしてる!」
気にしていることを。
もう本当に知らない。
わたしはそっぽを向いた。
「あはははは!」
また笑っている。
「でも、コーヒーなら私も飲んだことあるよ。苦くて、何が美味しいのか全然分かんなかったけど」
「……砂糖いれればいいでしょ?」
「んー、まー、コーヒーも珍しいけどさ」
カレンは黒パンをちぎりながら、少しだけ目を輝かせた。
「ヴァイスヴェール王国にいってみたいんだよね」
その名前が出た瞬間、胸の奥が小さく固まった。
ヴァイスヴェール。
わたしがいた国。
わたしが追い出された国。
「商業国家だからさ。南の香辛料とか、東の島国の茶葉とか、砂糖漬けの果物とか、変な形の焼き菓子とか。港町には、見たことない食べ物が山ほど並んでるって聞いた」
カレンは、わたしがいた国を眩しい場所のように語っていた。
「あと、ちゃんと子供の教育がされてて治安もいいってお母さんが言ってた。ま、お母さんも行ったことないんだけどね。」
カレンの声には、憧れがあるようにみえた。
わたしが思い出すたびに胸の奥を固くする名前を、カレンはまるで宝箱の名前みたいに呼ぶ。
「……きっと、楽しいよ」
わたしはそう答えた。
嘘ではない。
ヴァイスヴェールには、美味しいものがたくさんある。
王都の市場には、色とりどりの果物が並ぶ。
焼き立ての菓子の匂いが通りに流れる。
異国の茶や香辛料を売る店もある。
読み書きできる子供も多い。
それを、わたしは知っている。
知っているのに、うまく笑えなかった。
「でしょ?私、絶対行くから」
カレンは当然のように言った。
「その時は案内してよ、クレア」
「……わたしが?」
「うん。あんた、可愛いし、妙に上品だし。道に迷っても、知らないふりして王宮まで入れそう」
「入れないよ」
カレンは楽しそうに笑った。
わたしも、少しだけ笑った。
「いや、あんた、自分の顔が嫌いって言ってたからさ」
「……」
「わたしは、クレアみたいな顔で生まれたら、男を口説いて回るのにな。羨ましい」
また、そんな顔をする。
切なそうな顔。
知らないのに。
カレンは、わたしの顔で生きたことなんてないのに。
でも、わたしも、カレンの肌で生きたことはない。
「わたしは、カレンが羨ましいよ。かっこいいから」
「そう」
カレンは少しだけ黙った。
それから、肩をすくめる。
「んじゃ、一緒だね」
「………うん」
一緒。
その言葉が、とても嬉しかった。
わたしとカレンは、何もかも違う。
背の高さも。
肌の色も。
話し方も。
生き方も。
それでも、一緒だと言ってもらえることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
くるくると景色が回る。
あ。
嫌だな。
もう終わる。
まだ、カレンと話していたいのに。
目の前に、次の扉が現れた。
また、黒い色だった。
珍しい。
同じ色の扉が続くことは、あまりない。
開けなくちゃ。
わたしは手を伸ばした。
今度の扉は、少しだけ重かった。
気がつくと、わたしは聖ルミナ教会にいた。
聖ルミナ教会の小さな食堂だ。
嬉しい。
木の長椅子。
白い布のかかった古い机。
窓辺に置かれた花瓶。
焼きたてのパンの匂い。
わたしは椅子に座って、足を少し揺らしていた。
今日は、八歳の誕生日だった。
だから、朝からずっと落ち着かなかった。
テレサ様は何も言わない。
いつも通りに祈りをして、いつも通りに庭の草を見て、いつも通りに子供たちにパンを分けている。
でも、わたしは知っている。
去年も、その前の年も、誕生日には小さな苺のケーキが出た。
白いクリームの上に、赤い苺が一粒だけ乗ったケーキ。
一人分より少し大きいくらいの、わたしにとっては王宮のどんなお菓子より嬉しいケーキ。
今年はいつ出てくるのだろう。
食後だろうか。
お祈りの後だろうか。
それとも、庭の仕事が終わってからだろうか。
わたしはそわそわしながら、テレサ様の手元を何度も見ていた。
「クラルシア」
「はい」
呼ばれて、背筋を伸ばす。
テレサ様は小さな包みを持っていた。
ケーキではなかった。
少しだけ残念に思った。
けれど、包みを開いた瞬間、その気持ちはどこかへ消えた。
中に入っていたのは、古びたロザリオだった。
銀色の小さな十字。
長く使われていたのか、縁は少し丸くなっている。
派手な宝石も、きらきらした飾りもない。
けれど、不思議と目が離せなかった。
「これは……?」
「あなたに差し上げます」
「わたしに?」
「ええ。八歳のお誕生日、おめでとうございます」
テレサ様は微笑んだ。
その顔を見た瞬間、胸の奥がふわりと温かくなった。
わたしは両手でロザリオを受け取った。
思ったより冷たくて、思ったより重かった。
「綺麗……」
「手放さないように」
テレサ様の声は、いつもより少しだけ真剣だった。
「うん。手放さない」
「よろしい」
「……でも」
「はい?」
「苺のケーキは?」
テレサ様は一瞬だけ目を丸くした。
それから、口元を押さえて笑った。
「もちろん、ありますよ」
「本当?」
「ええ。ただし、庭の薔薇を見てからです」
「今?」
「今です」
苺のケーキがある。
その言葉だけで、わたしは少し元気になった。
ロザリオを胸元に握りしめたまま、わたしはテレサ様と一緒に庭へ出た。
聖ルミナ教会の庭は、雨上がりの匂いがした。
庭の隅に植えられた小さな薔薇。
王宮の薔薇とは違う。
花弁は小さく、虫に食われた跡もある。
けれど、わたしはこちらの方が好きだった。
懸命にそこに立っているように見えたから。
「この子、もう咲けないの?」
わたしは、テレサ様にそう聞いた。
胸元には、もらったばかりのロザリオがあった。
さっきまで苺のケーキのことばかり考えていたのに、傷んだ薔薇を見つけた途端、そのことを忘れていた。
「分かりません」
「分からないの?」
「ええ。花にも、休みたい時がありますから」
わたしは、膝を抱えるようにして薔薇を見ている。
「でも、咲かなくちゃ意味がないよ」
そう呟いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
わたしは、もうそれを知っていた気がしたから。
テレサ様は叱らなかった。
ただ、泥で汚れたわたしの指先を、そっと包んでくれた。
「そう思う日もありますね」
「だって、薔薇なのに」
「ええ。薔薇です」
「薔薇なのに、咲けなかったら……」
言葉が続かなかった。
咲けなかったら。
美しくなかったら。
役に立たなかったら。
意味がない。
そんな言葉を、どこで覚えたのだろう。
テレサ様は、傷んだ薔薇を見つめたまま、静かに言った。
「わたくしは、咲こうとしている花を、意味がないとは言いたくありません」
「咲けなかったら?」
「その時は、休ませてあげればよいのです」
「休むの?」
「ええ」
テレサ様は微笑んだ。
「花は、誰かのために咲く前に、まず生きているものですから」
夢の底で、何度もその声が響いた。
けれど、幼いわたしはまだ納得できない顔で薔薇を見つめている。
「でも、わたしは……咲けないかもしれない」
テレサ様の手が、ゆっくりと頭に乗った。
「それでも、あなたはあなたです」
温かい手だった。
「咲いた日だけが、あなたではありません。泣いた日も、逃げた日も、何もできなかった日も、あなたはあなたです」
その声に、世界が少し揺れた。
その時、向こうから少し高い声がした。
「婆さん、傷んでんなら、折れねえように支えればいいだろ」
わたしは、その男の子の方を向いた。
黒い髪。
痩せた身体。
不機嫌そうな目。
たしか少し前にこの教会に入ってきた男の子だった。
顔を確認したあと、わたしはすぐに別の方を見た。
婆さん?
なんて失礼なの。
その男の子の言うことなど、聞かないようにした。
短くて、優しくなどない声。
でも、その声は続いた。
「咲こうが咲くまいが、薔薇は薔薇だろ。めんどくさく考えすぎなんだよ」
「そうかもしれませんね」
テレサ様は笑っていた。
けれど、わたしは許せなかった。
この子は、テレサ様に失礼なことを言った。
それなのに、テレサ様は少しも怒らない。
むしろ、どこか嬉しそうにさえ見えた。
「トルガ」
テレサ様が、その名を呼んだ。
幼いわたしは、その名前を聞いていた。
聞いていたはずなのに。
その時は、何も残らなかった。
黒い髪の男の子は、ふん、と顔を背ける。
「俺は間違ったこと言ってねえ」
「ええ。そうですね」
テレサ様が小さく笑った。
わたしは、ますます腹が立った。
テレサ様を困らせてる。
いや、妬いていたのかもしれない。
それでも、男の子は薔薇の枝を見ていた。
咲くかどうかではなく。
折れるかどうかを見ていた。
クラルシアは、目を開けた。
けれど瞼は重く、身体はまだ夢の底に沈んでいる。
白鐘の音が遠ざかる。
テレサ様の手の温かさも。
庭の薔薇も。
ミリアムの中庭で隣に座ったカレンの声も。
少しずつ、白く溶けていく。
最後に残ったのは、黒い外套越しに抱き上げられた感触だった。
折れないように。
ただ、支えるための腕。
クラルシアは眠りの底で、小さく息をした。
咲けなくても。
まだ、折れてはいない。
トルガ。
見つけた。
あんなところに、あなたはいた。
こんな大切な記憶なのに。
今まで、思い出せなかった。
わたしと、あなたと、テレサ様。
三人は、あの庭にいたのだ。
クラルシアの指が、ロザリオをわずかに握り直した。
椅子に座っていたロゼが、その小さな動きに気づいて顔を上げる。
「……陛下?」
返事はなかった。
クラルシアはまだ、眠っている。
けれど、その呼吸は先ほどよりも少しだけ穏やかだった。
ロゼはしばらくその寝顔を見つめていた。
そして、声にならないほど小さく呟いた。
「どうか、もう少しだけ……お休みください」
窓の外で、朝の光が少しずつ広がり始めていた。
クラルシアはまだ目覚めない。
けれど夢の奥で、確かに思い出していた。
自分は、最初から一人ではなかったのだと。
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