第13話 雨に濡れて
クラルシアが静かに姿を消したことに、最初に気づいたのはロゼだった。
寝室の扉は閉じられていた。
窓も割られていない。
寝具も荒れていない。
床に争った痕跡もない。
寝台脇には、室内履きが揃えられたまま残されていた。
それを見た瞬間、ロゼの胸が冷えた。
誘拐ではない。
そう判断した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
陛下が、自ら出ていかれた。
「……まずい」
呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
窓の外では、雨が降っていた。
細い雨ではない。
すべての音を書き消すような激しい雨。
夜の王宮の屋根を打つ音が、廊下の気配も、見張りの足音も、何もかも覆い隠している。
この雨なら、足音は消える。
この雨なら、白い影が城門を抜けても、誰かが気づくとは限らない。
ロゼは奥歯を噛んだ。
大事にしてはならない。
それは保身でも、失態を隠したいからでもなかった。
もし今、王宮中に知らせが回れば、兵が動き、宰相が動き、王都保安団まで出張ってくる。
そして戻ってこられた陛下は、また大勢の目に晒される。
なぜ消えたのか。
どこへ行ったのか。
誰と会ったのか。
何を考えていたのか。
そのすべてを、冷たい目で問われる。
壊れかけた心を、さらに踏みにじられる。
それだけはロゼは避けたかった。
ロゼは知っていた。
クラルシアが、ただの美しい女王ではないことを。
夜更けに眠れず、寝台の上で膝を抱えていたこと。
ふとした時に、女王ではなく少女のような顔で「ロゼ」と呼ぶこと。
小さな甘菓子を見て、ほんの少しだけ目元を和らげること。
誰かに迷惑をかけたのではないかと、真っ先に謝ってしまうこと。
夜中に一人で王国法や礼法、財政を必死に勉強していた姿。
そして、宰相から女官、厨房の下働きの者に至るまで、宮中に仕える者の名をひとり残らず覚えようとしていた。
その姿は、傷つき、怯え、それでも誰かを責めることさえできない、ひどく優しい少女だった。
その少女を、自分は守ると決めたはずだった。
なのに。
ロゼは短く息を吸い、最低限の部下だけに指示を飛ばした。
「騒がないで。灯りを増やさない。陛下の不在を、まだ誰にも悟らせないで」
「隊長、しかし――」
「命令です」
声は冷たかった。
部下はそれ以上問わなかった。
ロゼは外套を掴むと、自ら城門へ向かった。
ロゼの薄い桃色の髪が揺れる。
夜の王宮は不気味なほど静かだった。
その様相に焦燥感に駆られる。
ただ、雨の音だけがある。
石畳を叩き、屋根を打ち、城壁を濡らし、王宮全体を暗い水の底へ沈めているようだった。
ロゼは門の影で立ち止まり、雨の向こうを睨む。
どこへ行かれた。
陛下。
どうか、まだ――。
その時だった。
夜道の向こうから、一つの長い影が近づいてきた。
男の影だった。
高い背。
黒い外套。
雨を吸った髪。
腕には、一人の少女を抱いている。
門灯の弱い光と月明かりが雨幕を裂いた瞬間、ロゼは息を呑んだ。
「トルガ・ラグレイ……陛下!」
考えるより先に、足が動いた。
ロゼは急いで駆け寄る。
トルガもこちらを認め、わずかに目を細めた。
「ロゼか」
「陛下!」
ロゼはクラルシアの顔を覗き込んだ。
白い。
けれど、息はある。
長い睫毛は閉じられ、涙の跡が頬に残っていた。
濡れた金の髪が肌に貼りつき、薄い寝衣は雨と泥を吸って重くなっている。
クラルシアは眠っていた。
深く、疲れ果てたように。
それでも、苦しげではなかった。
まるで、泣き疲れてようやく眠った子供のようだった。
「よかった……」
ロゼの声が震えた。
「本当に……よかった……」
「橋だ」
トルガは低く言った。
「白鐘橋の近くで倒れてた。足をやってる。医者を呼べ」
「白鐘橋……」
ロゼは唇を噛んだ。
聖ルミナ教会へ向かう街道の入口。
陛下は、そこへ向かわれたのか。
胸に深く突き刺さった。
どれほど追い詰められていたのか。
自分は、側にいながら何を見ていたのか。
この方がどれほど静かに壊れていたのか、なぜ見抜けなかったのか。
トルガは、クラルシアをロゼへ預けるように少し腕を下ろした。
だが、ロゼはすぐには受け取らなかった。
彼女はトルガを見上げる。
雨に濡れた黒い外套。
王宮の礼儀など欠片もない男。
下層区の黒犬。
けれど、その腕はクラルシアを乱暴には扱っていない。
濡れた身体を冷やさぬよう、外套で覆っている。
折れそうな足に負担がかからぬよう、抱き方を変えている。
不器用で、粗野で、それでいて丁寧だった。
「信じてよいのですね」
短い問いだったが、トルガは逃げなかった。
言い訳もせず、ただ、真っ直ぐにロゼを見返した。
「信じるかはお前が決めろ」
低い声だった。
「俺は何もしてねえ。橋で倒れてた。それだけだ」
ロゼはその目を見た。
嘘をつく男かはまだ分からない。
だが、この場で都合のいい嘘を重ねる男ではない。
少なくとも、そう見え、ロゼはようやくクラルシアを受け取った。
小さく、軽い身体だった。
あまりにも軽い身体にロゼの胸は苦しくなる。
「陛下……」
腕の中の主の体温に触れた瞬間、ロゼの目から涙がこぼれた。
「よかった……本当に……」
親衛隊長として泣くべきではない。
しかし、そうしようとしても抑えられない。
この腕の中にいるのは、女王ではない。
ロゼがずっと守りたかった、たった一人の少女である。
トルガはその様子を見て、わずかに視線を逸らした。
「俺は戻る」
「トルガ殿」
その呼び方に、トルガが少しだけ目を動かした。
先ほどまでの「トルガ・ラグレイ」ではなかった。
ロゼ自身も、その変化に気づいていた。
「……陛下は、あなたに何と?」
「助けて、と言った」
ロゼは息を止めた。
助けて。
陛下が。
あの方が、自分から。
クラルシアは、いつも飲み込んできた。
嫌だと言わなかった。
苦しいと言わなかった。
助けてなど、決して言わなかった。
その陛下が。
あの小さな声で。
「……そう、ですか」
ロゼはクラルシアを抱きしめ直した。
涙が、雨に混じって落ちた。
トルガは短く続ける。
「あいつが自分で言った。なら、俺は助ける」
ロゼは顔を上げた。
「……はい」
「用があるなら、下層区の八番通りだ」
「八番通り」
「来ねえなら、それでいい」
乱暴な言い方だが、ロゼには意味が分かった。
これは、『待つ』という意味だ。
トルガ・ラグレイは、逃げ道を残している。
命令でも、要求でもない。
クラルシアが自分で選べるように。
ロゼはクラルシアを抱いたまま、深く頭を下げた。
「本当に、感謝いたします。トルガ殿」
「礼はまだ早い」
トルガは背を向けた。
「そいつが目を覚ましてからだろ」
雨の中、黒い外套が揺れる。
ロゼはその背を見送った。
トルガは数歩進んだところで、一度だけ足を止めた。
「ロゼ」
「はい」
「見合いは止めろ」
ロゼの瞳が揺れた。
「……それは、わたくし一人では」
「………」
トルガは振り返らなかった。
「また同じことをするなら、今度は俺がこいつを攫う」
それだけ言い残し、彼は夜の下層区へ向かって歩き出した。
ロゼはその背を見送った。
黒い外套が雨と闇に溶けていく。
腕の中で、クラルシアが小さく身じろぎした。
胸元には、古びたロザリオが握られている。
ロゼはそっとその手を包んだ。
陛下は選ばれたのだ。
誰かに選ばされたのではない。
国益でも、血筋でも、宰相の采配でもない。
あの方は、自分の声で助けを求めた。
そして、あの男はそれに応えた。
これからどうなるのか、分からない。
王宮は荒れる。
宰相は黙っていない。
王都保安団も、貴族たちも、決して簡単には受け入れないだろう。
それでも。
「お戻りください、陛下」
震える声で、そう囁く。
「今度こそ、わたくしもお守りいたします。」
雨はまだ降っていた。
けれど、その音はもう、先ほどまでのように世界を閉ざす音ではなかった。
ロゼは、クラルシアを抱いたまま、夜明け前の王宮へ戻った。
腕の中のクラルシアは、もう震えていない。
眠っている。
深く、疲れ果てるように。
涙の跡が残る頬と赤く滲んだ裸足。
呼びかけようとしたが、起こしてしまうようでロゼはやめた。
起こせば、またあの冷たい王宮へ引き戻してしまう気がしたから。
まだもう少し眠っていて欲しい。
見合い。
明日にもある。
陛下の口から断りを入れさせたくない。
これ以上追い詰めさせたくない。
苦しんで欲しくない。
出ていかれたことは上手く隠して、見合いができる状態ではないことをヴェルナー宰相に伝えねば。
早馬を出せばまだ間に合う。
陛下が起きるまで、早く。
そう決めて。
「医師を。静かに」
寝室へ戻るなり、ロゼは最低限の声で命じた。
「灯りは増やしすぎないで。女官も呼ぶのは二人まで。陛下の不在は、まだ誰にも知らせない」
部下たちは青ざめながらも頷いた。
クラルシアは寝台へ横たえられた。
濡れた寝衣を替え、冷えた身体を温める。
足の裏には、小さな傷がいくつもあった。
石で切れた傷。
潰れた血豆。
泥と雨に晒された白い皮膚。
医師は診察を終えると、苦い顔で言った。
「命に別状はありません。ですが、極度の疲労と冷え、熱がございます。それから足の傷も酷いとは言えませんが歩くのは少し辛いでしょう。数日は絶対に安静が必要です」
「目を覚まされたら?」
「水を少しずつ。食事は無理に取らせず、まずは眠らせてください。今は、身体より心が限界に近い。万が一、心の病に侵されれば、数年かけての治療になります。そういう意味ではできれば一週間ほどは安静にして陛下の様子をみていただきたい。」
心。
その言葉に、ロゼは胸を刺された。
医師が去った後、ロゼは寝台の傍に椅子を寄せた。
クラルシアの手には、まだロザリオが握られていた。
外そうとして、やめた。
あまりにも強く握られていたからだ。
「……陛下」
今度は、小さく呼んだ。
返事はない。
長い睫毛は伏せられ、呼吸だけがかすかに上下している。
ロゼはその手を両手で包んだ。
「わたくしは、あなたの親衛隊長です」
声が震えた。
「なのに、あなたがどこまで追い詰められていたのか、見抜けませんでした。」
雨音が、窓の外で続いている。
激しかった雨は、少しずつ弱まりつつあった。
「申し訳ありません」
ロゼは額を垂れた。
「でも、今度こそ……今度こそ、わたくしもお守りいたします」
そう誓うロゼの目にはもう涙はなかった。




