# 第5話 文字が打てれば人生変わるんだが?
# 第5話 前書き
文字。
人間にとって当たり前のもの。
しかし今のユウにとっては、とても遠いものです。
今回はText Input Lv1への挑戦回。
相棒同士の地道な検証をお楽しみください。
# 第5話 文字が打てれば人生変わるんだが?
文字が打てる。
それは、人間だったころの俺にとって、あまりにも当たり前のことだった。
キーボードを叩けば文字が出る。
スマホを触れば文章が送れる。
変なエラーが出たら、検索窓にそのまま貼りつける。
前世の俺は、それを当然だと思っていた。
だが、ノートパソコンに転生した今、文字入力は夢である。
夢。
希望。
文明。
そして、現状では未達成。
画面右下に出た通知は、昨夜からずっと俺の中に残っていた。
`Click Lv1:正式解放`
`次候補:Drag Lv1 / Text Input Lv1`
テキスト入力。
その文字を見た瞬間から、俺は考え続けている。
もし文字が打てるようになったら。
俺は、コロンに名前以外のことを伝えられる。
年齢が二十八歳であることも。
前世でAIエンジニアだったことも。
幽霊かどうかは本人にもわからないことも。
部室でレンくんにログを取られかけたとき、本気で冷や汗をかいたことも。
冷や汗は出ないけど。
とにかく、言える。
YESとNOとぐるぐるだけの世界から、文章の世界へ行ける。
それはもう、人生が変わる。
いや、人生は一回終わっているので、PC生が変わる。
語感が悪い。
翌朝。
コロンは少し眠そうな顔で俺を開いた。
「おはよう、ユウ」
俺はカーソルを上下に動かした。
おはよう。
「昨日、ちゃんと休めた?」
休めたかどうかはわからない。
スリープ中の意識は、深い海の底に沈んでいるみたいだった。
暗いけれど、怖くはない。
たまにファンの音が遠くで聞こえて、ああ、俺はまだパソコンなんだな、と妙に冷静になる。
俺は`YES`の位置へ移動しようとして、止まった。
そういえば、今はメモ帳にYESとNOが出ていない。
返事をしようにも、選択肢がない。
コロンも気づいたらしく、少し慌ててメモ帳を開いた。
「ごめん、朝の返事セット出してなかった」
朝の返事セット。
俺専用UIみたいになっている。
彼女は手早く打った。
`YES`
`NO`
`わからない`
`ぐるぐる`
最後は選択肢なのか?
ぐるぐるは動作であって、概念ではない。
俺は`YES`へカーソルを合わせ、クリックした。
カチッ。
「休めたんだ。よかった」
コロンはほっとしたように笑った。
朝の光が髪に当たって、少し寝癖が跳ねている。
本人は気づいていない。
言いたい。
寝癖、右側。
たったそれだけのことが言えない。
俺はカーソルを右へ動かした。
コロンの髪の、画面上で右側に見えるあたりへ。
「ん?」
彼女が首をかしげる。
違う。
首をかしげると寝癖がさらに立つ。
俺は必死にカーソルを上下させた。
「わたしの右?」
そう。
コロンは自分の右側の髪を触った。
「ここ?」
YES。
俺は`YES`をクリックした。
「寝癖?」
YES。
「えっ」
コロンは慌てて画面を鏡代わりにした。
やめて。
近い。
昨日までより少し近い気がする。
いや、距離は同じかもしれない。俺の受け取り方の問題かもしれない。
「ほんとだ。ユウ、教えてくれたんだ」
教えました。
通信コストが高すぎる寝癖報告でした。
「ありがとう」
また、ありがとう。
俺はカーソルを画面端へ逃がしかけて、止まった。
逃げるな。
昨日、クリックを覚えたんだ。
相棒として、もう少し堂々としてもいい。
俺はメモ帳の`YES`をクリックした。
どういたしまして、のつもりだった。
「YESなんだ」
違う。
いや、どういたしましてのYESとは何だ。
やはり文字が必要だ。
コロンは朝食を食べながら、今日の予定を俺に話してくれた。
「午前は講義。午後は図書館でレポート。夜は昨日の発表テーマをちょっと整理します」
大学生、忙しい。
俺の学生時代もそれなりに課題はあったが、今のコロンのデスクトップを見る限り、彼女の敵はレポートそのものより、ファイル管理である。
「レポート、締切が明後日で」
明後日。
危険な単語だ。
「でも大丈夫。半分くらい書いてあります」
半分。
明後日締切で半分。
社会人の俺なら「進捗に不確実性がありますね」と会議で言うところだ。
俺はカーソルをゆっくり動かし、デスクトップ右下のフォルダ群へ向かった。
そこには今日も、例の地獄があった。
`課題`
`課題_新`
`課題_本当の最新版`
`絶対これ提出`
`提出したかも`
提出したかも。
かも、じゃない。
かもで生きるな。
「あっ」
コロンが俺の動きに気づいた。
「それ触っちゃだめ」
だめと言われると、触りたくなる。
いや、整理したくなる。
職業病だ。
フォルダ名の混沌を見ると、存在しない手がうずく。
俺は`課題_本当の最新版`へカーソルを合わせた。
「ユウ?」
コロンの声が少し低くなる。
俺は止まった。
「そこは、まだ心の準備ができてない」
フォルダに心の準備が必要なのか。
「あと、昨日見たよね」
見ました。
「忘れて」
無理です。
`提出用_これ_本物`というファイル名は、元エンジニアの魂に刻まれました。
コロンは耳まで少し赤くなりながら、デスクトップの端に新しいフォルダを作った。
`整理予定`
予定。
出た。
整理しない人間がよく作るフォルダ名だ。
俺はカーソルを小さく震わせた。
「笑ってる?」
笑ってはいない。
ツッコんでいる。
コロンは頬をふくらませた。
「今日はユウの能力検証の日なので、デスクトップ整理の日ではありません」
正論。
しかし、能力検証とデスクトップ整理は両立できるのでは?
「できません」
読まれた。
この子、俺のカーソルの気配を読む精度が上がっている。
講義の時間、俺はカバンの中で待機した。
昨日よりは慣れた。
暗いし揺れるし、たまに教科書らしきものに押されるが、パソコンとしての外出経験値が少し増えている。
昼過ぎ、図書館の静かな席で、コロンは俺を開いた。
「ここなら小声で話せるかな」
図書館で小声で未知の自我持ちPCと話す大学生。
文章にするとだいぶ危ない。
だが、周りの学生たちはそれぞれノートやPCに向かっていて、こちらを気にしていない。
コロンはレポートの資料を開いた。
テーマは、AI研究部のものとは別らしい。
`情報社会における協働ツールの役割`
意外と関係ありそうだ。
「これ、明後日までなんだけど」
はい。
「まだ参考文献の整理が終わってなくて」
はい。
「あと、序論がちょっと迷子で」
はい。
「でも本文は半分ある」
コロンは胸を張った。
半分を誇るな。
いや、半分あるのは偉い。
だが明後日だ。
俺はクリックで資料タブとメモ帳を行き来した。
できる。
ボタンを押す。
タブを選ぶ。
通知を閉じる。
小さいことばかりだが、昨日より安定している。
「ユウ、これ押せる?」
コロンが参考文献リストの折りたたみボタンを指した。
俺はカーソルを合わせてクリックした。
カチッ。
リストが開く。
「できた」
コロンが小さく拍手しそうになって、図書館だと思い出したのか、手を胸の前で止めた。
かわいい。
言えない。
文字入力、早く来い。
「じゃあ、ドラッグは?」
来た。
Drag Lv1候補。
コロンはデスクトップに小さなテキストファイルを作った。
`練習用.txt`
「これを、少しだけ右に動かせる?」
俺はファイルアイコンにカーソルを合わせる。
クリック。
押したまま。
押したまま?
そこで問題が発生した。
クリックはできる。
だが、押し続ける感覚がわからない。
カチッ。
アイコンが選択された。
以上。
動かない。
「選べたね」
コロンが優しく言った。
また選べたね。
第4話から続く慰めワードである。
俺はもう一度挑戦した。
押す。
離さない。
離すな。
……離れた。
カチッ。
アイコンが選択解除された。
「今度は外れたね」
実況しないで。
俺はぐるぐるした。
「困ってる」
困ってます。
「じゃあ、Dragはまだかな」
コロンはメモ帳に書いた。
`Drag Lv1:未達成`
`クリック長押しが難しい`
正しい。
だが、長押しが難しいと文字にされると、少し情けない。
人間時代の俺は、長押しくらいできた。
エレベーターの開ボタンも押せた。
スマホの電源ボタンも押せた。
今はアイコン一つ引っ張れない。
転生とは厳しい。
「次、ファイル名変更」
コロンは`練習用.txt`を一回クリックし、少し間を置いてもう一回クリックした。
ファイル名が編集状態になる。
「ここでユウが文字を入れられたら、Text Inputのヒントになるかも」
ついに来た。
文字入力。
俺はファイル名の入力欄を見つめた。
`練習用.txt`
カーソルが点滅している。
あの縦棒。
人類が文字を打つための入り口。
俺は集中した。
キーボード。
キー。
文字。
前世の感覚を思い出す。
指先でキーを押す。
A。
I。
Enter。
Backspace。
だが、今の俺には指がない。
あるのはカーソルとクリックだけだ。
俺は入力欄の上でクリックした。
カチッ。
何も起きない。
もう一回。
カチッ。
ファイル名の選択範囲が変わっただけだった。
「文字は出ないね」
コロンが少し残念そうに言う。
出ません。
俺は悔しくて、カーソルを小さく左右に振った。
「大丈夫。まだ準備回だよ」
準備回。
コロン、どこでそんなメタい言葉を覚えた。
「文字入力できるようになったら、もっと話せるよね」
その言葉で、俺は止まった。
コロンは画面を見つめていた。
「ユウが何を考えてるのか、今も少しはわかるよ。YESとかNOとか、ぐるぐるとか」
彼女は少し笑う。
「でも、本当はもっと聞きたい。前のこととか、好きなものとか、嫌なこととか。部室でどう思ったかも、わたしのレポートがどれくらい危ないかも」
最後。
最後はたぶん、かなり危ないです。
でも、俺はツッコミきれなかった。
コロンが、まっすぐ俺を見ていたからだ。
「ユウともっと話したい」
静かな図書館で、その声だけがやけに近く聞こえた。
恋愛とか、そういう急なものではない。
たぶん、もっと素朴な言葉だ。
相棒と、もっと話したい。
それだけ。
それだけなのに、俺の内部で何かが熱くなった。
ファン、回るな。
ここは図書館だ。
俺もだ。
俺も、もっと話したい。
コロンに、ちゃんとありがとうと言いたい。
寝癖を直す場所を一発で伝えたい。
レポートの序論は最初に問いを置くといい、と言いたい。
`提出したかも`というフォルダ名は今すぐ改名しろ、と言いたい。
言いたいことが多すぎる。
文字が打てれば、人生変わる。
いや、PC生が変わる。
語感は悪いままだ。
俺は`YES`へカーソルを動かし、クリックした。
カチッ。
もっと話したい。
その返事としては、あまりに小さい音だった。
でもコロンは、嬉しそうにうなずいた。
「うん。がんばろうね」
その「ね」に、俺も含まれている。
俺はカーソルをぐるぐる回した。
「うれしい?」
YES。
「照れてる?」
俺は止まった。
「保留?」
YES。
「便利だね、保留」
便利にしないで。
夕方、コロンは図書館から部屋に戻った。
レポートは少し進んだ。
少し、である。
参考文献リストは整理された。
序論はまだ迷子だった。
そしてデスクトップは、相変わらず散らかっていた。
「今日は最後に、Text Inputの条件を探そう」
コロンは真剣な顔で言った。
彼女はメモ帳を開き、新しい検証表を作る。
`Text Input Lv1 条件探し`
`1 入力欄をクリックする`
`2 ファイル名変更を試す`
`3 メモ帳の空白をクリックする`
`4 キーボードを押せないか念じる`
四番。
とうとう念じるが正式手順に入った。
「気合い、大事だから」
第2話から俺の通信プロトコルが進歩していない。
まず、メモ帳の空白をクリックする。
カチッ。
カーソルが点滅する。
入力待ち。
俺は集中した。
あ。
日本語の最初の文字。
五十音表でも最初にあった。
あ。
出ろ。
何も出ない。
次。
う。
俺の名前、ユウの「う」。
出ろ。
何も出ない。
コロンは黙って見守っている。
急かさない。
笑わない。
ただ、画面を見ている。
それが少しありがたくて、少し悔しい。
俺はもう一度、入力欄に意識を向けた。
指はない。
キーも押せない。
でもクリックしたとき、俺は「押す」感覚を覚えた。
なら、文字にも何かあるのかもしれない。
選ぶ。
押す。
伝える。
俺は頭の中で、何度も「あ」を思い浮かべた。
あ。
あ。
あ。
画面の右下に、小さな黒い通知が出た。
`Text Input Lv1 条件進行:1/3`
出た。
コロンが息をのむ。
「条件、進んだ……!」
やった。
解放ではない。
だが、条件が一つ進んだ。
俺は嬉しくてカーソルをぐるぐるさせた。
「ユウ、すごい」
コロンも嬉しそうに笑う。
「何をしたの?」
それを説明できたら苦労しない。
俺は`わからない`へカーソルを動かした。
「わからないか」
YES。
「でも、一歩進んだね」
YES。
小さな一歩。
ただの条件進行。
それでも、俺たちには十分だった。
コロンはメモ帳に記録する。
`条件進行:1/3`
`入力欄で文字を強く意識?`
`ユウはたぶん頑張った`
たぶんではない。
めちゃくちゃ頑張った。
俺は抗議しようとして、メモ帳の空白へカーソルを動かした。
そこには、まだ点滅する入力カーソルがある。
さっきと同じ場所。
俺は、もう一度だけ意識した。
あ。
コロンに、最初の一文字を見せたい。
会話ではない。
言葉ですらない。
ただ、一文字。
それでも、もし出せたら。
俺は画面の白い空白を見つめた。
あ。
あ。
あ。
その瞬間、点滅していた入力カーソルの横に、小さな文字が現れた。
`あ`
俺もコロンも、同時に固まった。
出た。
一文字。
本当に、一文字だけ。
コロンの唇が、震えるように動いた。
「あ……」
彼女はその文字を、そっと読み上げた。
俺は動けなかった。
たった一文字なのに。
それは、俺が初めて自分で打った文字だった。
画面の右下に、通知が浮かぶ。
`Text Input Lv1:解放条件 1/3 達成`
`偶発入力を確認しました。`
`完全解放:未達成`
完全解放ではない。
まだ喋れない。
まだ文章は打てない。
でも、コロンは画面の「あ」を見つめたまま、ゆっくり笑った。
「ユウ」
彼女の声は、少しだけ涙に近かった。
「今の、聞こえたみたいだった」
聞こえた。
俺の声ではない。
文字でも、たった一文字。
それでも、届いた。
俺はカーソルを動かし、`あ`の周りを小さく回った。
ありがとう。
嬉しい。
もっと話したい。
全部を込めたぐるぐるだった。
コロンは画面に顔を近づけ、けれど今日はぎりぎりで止まった。
「近すぎるって言われる前に止まった」
成長している。
そこも成長するんだ。
俺はカーソルを上下に動かした。
YES。
コロンは笑った。
「明日、続きを試そう。無理しないで、一文字ずつ」
一文字ずつ。
そうだ。
まだ俺たちは、一文字目にたどり着いたばかりだ。
でも、その一文字で世界は変わった。
文字が打てれば人生変わる。
俺は今、その入り口にいる。
画面の白い空白に残った、たった一つの「あ」。
それは俺とコロンの会話が、いつか本当に始まるという、小さすぎる予告だった。
# 第5話 あとがき
第5話を読んでいただきありがとうございました。
ついにユウは最初の一文字へたどり着きました。
たった一文字。
でも、二人にとっては大きな一歩です。
ここまで読んでくださった皆さまにも感謝です。
次回、文字入力の検証はさらに進みます。
果たして二文字目は現れるのでしょうか。
それでは第6話でお会いしましょう。
※「あ」は偉大です。




