第79話「正義と正義」
実技授業の三日目に、それは起きた。
ヴィルマ教官が「自由対戦」を宣言した。好きな相手を選び、模擬戦を行え、と。
アルトが真っ先に手を挙げた。
「ガルド=ベルヘン。お前とやりたい」
教室が少しざわめいた。アルトは冒険者Cランク。ガルドは学院予科からの生え抜きで、風紀委員。二人が初日から何度か言い合いをしていたのは周知の事実だった。
ガルドが腕を組んだまま立ち上がった。
「いいだろう。——お前の戦い方を見せろ。パーティの連携に頼らない、個人の実力を」
アルトの目に火が灯った。「頼らない」という言葉に反応したのだ。冒険者としてのアルトの強みは四人の連携だが、ガルドの言う「個人の実力」は、アルト自身がずっと問われてきたことでもある。セレンがいなくても戦えるのか。仲間の音がなくても剣は振れるのか。
訓練場の中央に二人が立った。ヴィルマが審判を務める。
「ルール。降参か戦闘不能で決着。殺傷禁止。——始め」
◇
ガルドが最初に動いた。
右手を地面に叩きつける。石の壁が——三枚同時に立ち上がった。一枚目はアルトの正面を塞ぎ、二枚目は右側を、三枚目は左側を。三方向を壁で囲い、退路を断つ。
「お前は前に出る型だろう。なら前を塞げばいい」
ガルドの声は淡々としていた。挑発ではない。純粋な戦術の宣言。
アルトが走った。正面の壁に向かって、剣を振りかぶる。
裂岩斬。全身のバネを使った渾身の縦斬り。傭兵団で鍛えた一撃が石壁に叩き込まれ——壁が砕け散った。
「力はある。だが」
砕けた壁の向こうに、ガルドはいなかった。壁の破片が視界を塞いでいる間に、ガルドは左に移動している。そして——新しい壁が立つ。四枚目。
アルトが左に走り、四枚目を斬る。砕ける。だが五枚目が右に立つ。斬る。六枚目。斬る。七枚目。
「……くそ、キリがねぇ!」
アルトの息が荒くなっている。壁を一枚割るたびに体力を消耗するが、ガルドは壁を立てるだけでいい。土属性の壁は地面から直接引き上げるため、MP消費は攻撃魔法の半分以下だ。
俺は観客席から見ていた。共鳴探知で二人の体内の脈動を聴いている。
アルトの心拍は百三十を超えている。全力で走り、全力で斬り続けている。魔力ではなく体力の消耗。対してガルドの心拍は九十前後で安定。壁を立てる動作は片手で済むし、移動も最小限。消耗戦は明らかにガルドが有利だ。
八枚目の壁をアルトが割った時、ガルドが仕掛けた。
壁ではなく——足場。
アルトの踏み込んだ地面が、ぐにゃりと沈んだ。土属性の足場操作。地面の硬度を瞬時に変え、泥濘に変える。
「っ——!」
アルトの右足が沈み、体勢が崩れる。剣を振ろうとした腕が止まる。
その隙に、ガルドが土の檻を展開した。アルトの周囲に四本の石柱が立ち上がり、上部が繋がって格子状の天井になる。檻だ。中で剣を振る空間がない。
「ここまでだ。お前は強いが、力の使い方が雑だ」
ガルドの声に感情はない。勝者の優越でもなく、ただ事実を述べている。
「壁を正面から割ることしか考えていない。壁には継ぎ目がある。薄い部分がある。そこを突けば、三分の一の力で崩せる。力を温存できる。——お前の弱点は力がないことじゃない。力しか見ていないことだ」
アルトは檻の中で黙っていた。悔しさで拳が震えている。だが——ガルドの言葉が正しいことは、アルト自身がわかっていた。
俺にはわかる。アルトの心拍が落ち着いていく音が聴こえた。怒りが消え、代わりに「考え始めた」時の脈拍パターンに変わっている。
「……壁の弱い場所か」
「ああ。石の壁は一枚板ではない。土を圧縮して作っている。圧縮が甘い場所、土の密度が低い場所がある。そこを見つけて突けば、力はほとんど要らない」
「見つけるって言っても、目で見てわかるもんじゃないだろ」
「わかる人間もいる。土属性の熟練者は、自分の壁の構造を把握している。——だがお前には別の方法があるはずだ」
ガルドがちらりと俺の方を見た。
「お前のパーティの音属性。あいつなら壁の中の構造を"聴いて"読めるだろう。だがそれはあいつの力だ。お前自身の力で見つける方法を、考えろ」
石の檻がゆっくりと崩れた。ガルドが解除したのだ。アルトが砂埃を払って立ち上がる。
ガルドが手を差し出した。
「お前は強い。剣を振る力も、前に出る勇気も、この学年で一番かもしれない。だが"強さの使い方"を知らない。——知れば、もっと強くなる」
アルトがその手を見つめた。三秒。それから握った。
「……お前、厳しいけど、的確だな」
「規則を守る人間は、無駄が嫌いなだけだ」
「それ褒め言葉に聞こえないんだけど」
「褒めている」
二人の間の空気が変わった。敵対から——ぎこちないが、確かな敬意に。
俺は観客席でノートを開いた。
《アルトの課題:壁の構造を「読む」手段がない。俺の共鳴探知に頼らず、自力で弱点を見つける方法が必要。——土属性の感知能力? アルトは土属性だが使おうとしない。剣聖の誇りが邪魔をしている。これを解く鍵がどこかにあるはずだ》
◇
その夜。俺は図書館にいた。
消灯時間が迫っているが、司書に頼んで延長許可をもらっていた。エルデ教官の推薦状が効いた。
古代文献の棚。「歴代の剣聖」に関する資料を探していた。アルトのために——ではなく、純粋な好奇心で。剣聖の戦闘記録に、土属性の使用を示唆する記述がないか。
一冊目。『王国武勇伝』。通俗的な英雄譚。「剣聖ヴァルディスは剣の一振りで百の敵を薙ぎ払った」。役に立たない。
二冊目。『王国騎士団史 第四巻』。組織論が中心。ヴァルディスの名前は出てくるが戦闘の詳細はない。
三冊目。
『剣聖ヴァルディスの戦闘記録——王国騎士団史第七巻抜粋』
薄い冊子だが、紙が違う。他の本より古い。表紙の端が擦り切れている。誰もが手に取る人気の本ではなく、棚の奥に埋もれていた。
頁をめくる。文体が硬い。同時代の軍人による報告書形式。
『建国暦六四七年、北部辺境の戦いにおいて、ヴァルディス隊長率いる第三騎士団は魔王軍の第七師団と遭遇。戦力比は一対五。通常であれば撤退が妥当であったが、ヴァルディスは前進を選択した』
ここまでは通俗的な英雄譚と同じだ。だが次の記述で、目が止まった。
『ヴァルディスの剣は大地を震わせた。彼が剣を振るうたび、足元の土が共鳴し、敵の足場が崩れた。第七師団の前衛部隊は足場を失い、陣形が瓦解した。これを人々は"剣の力"と呼んだが、実際には大地の力を剣に宿した"魔法剣"であったと、同時代の学者ルクレール卿は記している』
さらに頁をめくる。
『ルクレール卿の所見:ヴァルディスは鑑定の儀において土属性と判定されている。しかし本人は生涯、魔法を使ったことを認めなかった。「俺は剣士だ。魔法使いではない」が口癖であったという。だが戦場を調査した学者たちの見解は一致している——ヴァルディスの斬撃には土属性の魔脈が含まれていた。彼の剣は、鋼に土の力を流し込み、振り下ろす瞬間に地面と"共鳴"させていた。これは意識的な魔法ではなく、剣を極めた結果として自然に発現した"魔法剣"であったと推測される』
——剣を極めた結果として、自然に発現した。
つまりヴァルディスは「魔法を使った」のではない。「剣を振ることに全てを込めた」結果として、体に眠っていた土属性の力が剣に流れ込んだのだ。
剣と魔法は対立概念ではなかった。ヴァルディスにとって、土の力は「魔法」ではなく「剣の一部」だった。
この記録を、アルトに見せるべきか。
今日のガルドとの模擬戦。アルトは「壁の弱い場所を見つける方法」を探している。もしアルトが土属性の感知能力に目覚めれば——地面を通じて壁の構造を「感じる」ことができるはずだ。セレンの反響定位と同じ原理。媒質が空気ではなく大地になるだけ。
だが今見せるのは早い。アルトは「剣で戦う」という誇りを持っている。剣聖が魔法剣の使い手だったという事実は、その誇りを根底から揺さぶる。揺さぶり方を間違えれば、折れる。
時期が来たら。アルト自身が「剣だけでは足りない」と感じた時に。
古書を棚に戻し——いや、戻さなかった。借りておく。いつか必要になる日のために。
◇
図書館を出て、男子学生棟に戻る途中。
東棟の前を通りかかった時、耳が反応した。
音紋標識。東棟の地下入口に仕掛けたマーカーが、振動を返している。誰かがマーカーの近くを通過した。
時刻は午前一時四十分。いつもの午前二時より早い。だが足音のパターンは同一だ。あの厨房の雑用係。
——今夜は早めに動いている。何か急ぎの連絡があるのか。
足を止めて、耳を澄ませる。
地下から、壁を叩く暗号打鍵の振動が微かに聴こえてきた。いつものパターン。コツ、コツコツ、コツ——。
そして数秒後、本棟三階から応答の打鍵。
今夜も二箇所が連携している。
さらに——本棟三階に仕掛けた二つ目の音紋標識が反応した。三階の東端。打鍵の応答と、音紋標識の反応位置が一致する。
フィンの部屋は三階の東端。
まだ断定はできない。三階東端には他にも二つの寮室がある。だが確率は三分の一から——状況証拠を加えれば、八割以上だ。
今夜は動かない。もう少し打鍵パターンを蓄積してから、解読を試みる。
男子棟に戻り、窓から自室に入った。アルトはぐっすり眠っている。今日のガルドとの模擬戦で体力を使い果たしたのだろう。寝息が深い。
ベッドに入り、天井を見つめた。
アルトの課題。剣聖の真実。暗殺ギルドの影。全てが同時に動いている。
この学院は——表に見えるものと、裏に潜むものが重なっている。昼の授業で魔脈の理論を学びながら、夜は暗号の振動を聴いている。
二つの世界を同時に生きている感覚。
——面白い、と思ってしまう自分が、少し怖い。




