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第34話: グレンの修行②

山に入る前


 朝靄の残る村の広場に、俺たちは呼び出されていた。

 グレンが立っている。逞しい腕を組み、背後には山の稜線が見えた。


「今日からお前らは、この山で一週間暮らしてもらう。目的はひとつ、“生き延びる術”を身につけることだ」


 声は低いが、村の大人よりも鋭く響く。

 俺、アルト、ノーラの三人は顔を見合わせ、唾を飲み込んだ。


「剣や魔法は武器の一部に過ぎん。戦場じゃ火が起こせなきゃ死ぬ。飯がなければ動けない。夜を凌げなければ戦う前に倒れる。……その基本を叩き込む」


 アルトが目を輝かせ、ノーラは少し怯みながらも拳を握る。俺は胸の鼓動が高まるのを感じた。


◇一日目 火を起こし夜を凌ぐ


 森に入ったとき、空はまだ昼の色だった。けれど夕刻が迫ると、一気に暗さが降りてくる。山の夜は、村の焚き火の明かりを失ったときのように心細い。


「最初の課題だ」


 広場の真ん中に座り込んだグレンが、周囲の木の枝や乾いた苔を指さす。


「火をつけろ。魔力でも、道具でも、手でも構わん。だが、“夜を越せる火”を見せてみろ」


 アルトが最初に挑む。火打石を力任せに叩きつけ、火花は飛ぶが、草は湿っていて煙すら上がらない。手の皮がめくれ、舌打ちした。

 次にノーラ。苔を拾い、指先に雷を集める。ぱちり、と青白い光が走り―苔は黒焦げの塊になった。火は広がらず、ただ臭い煙が漂う。


「……ちょっと、加減が……」


と顔を赤らめた。

 グレンは首を振る。


「違う。火は叩きつけるものでも、力で焼き尽くすものでもない。火は……撫でるものだ」


 俺は息を飲む。撫でる? 火に?

 乾いた草を手に包み込み、細く風に混ぜる。草がわずかに震え、そこに火花を落とすと……か細い炎が立った。


「……そうだ」


 グレンの目が光る。


「その火があれば夜は越せる。忘れるな、火は仲間であり、命だ」


 その夜は冷えた。葉を重ねて作った寝床は湿って背中に痛みを残す。それでも、炎の温かさと「自分で火を起こした」という誇らしさが胸を支えてくれた。


◇二日目 索敵と監視


 朝靄がまだ濃く、森の葉が滴を垂らす頃。俺たちは昨日の疲れを引きずった体を押し立て、再び山の中へと足を踏み入れていた。

 空気はひんやりしているのに、妙に胸の奥が熱い。昨日は火を起こし、夜を越せた。ほんの小さな達成だったが、その分「今日はもっと大きな試練が来る」と肌で感じていた。


 グレンは木立の開けた場所に立ち、腕を組んで俺たちを見渡した。


「今日の課題は“索敵と監視”だ」


 その言葉に、アルトが思わず眉をしかめる。


「索敵……って、敵を探すってことか?」


「ああ」


 グレンの目は細く鋭かった。


「剣を振るうのは最後だ。敵を見つける前に死んだ奴は、剣を抜くことすらできん。まずは感じ取れ。魔物は、姿を見せずに忍び寄る。気づけるかどうかが生死を分ける」


 ノーラが小さく息を呑む。


「……魔物って、気配を隠すの?」


「隠すどころか、鳴き声を消し、風に紛れる。人間よりもはるかに上手い」


 グレンはあえて言葉を切り、俺たち一人ひとりの目を見てから、さらに低く声を落とした。


「だが―人間も同じだ」


 その響きに、俺たちは一瞬息を止めた。


「山賊、盗賊、裏切り者。冒険者になれば、そういう奴らと剣を交えることもある。魔物は本能で襲うが、人間は悪意を持って襲う。その狡猾さは魔物以上だ」


 グレンの言葉に、アルトが苦々しげに言った。


「……人間相手にまで、そんなこと考えなきゃならねぇのか」


「そうだ。だから今日の訓練は二重の想定だ。表向きは“魔物”。だが裏では“人”だ」


 グレンはそう言い捨て、木々の影に紛れて姿を消した。

 残された俺たちは、互いに顔を見合わせる。ノーラが震える声で言う。


「……どこにいるの? 全然分からない」


「俺が見つける!」


 アルトは気負って剣を構え、きょろきょろと森を睨んだ。だが目に映るのは無数の影。濃い葉の揺らぎに惑わされ、ただ焦りだけが募っていく。


「くそっ……右か!」


 勢いよく剣を振り抜いたが、そこには誰もいなかった。剣は空を切り、鳥が驚いて羽音を立てて飛び立った。

 ノーラは動かず、息を止めるようにして目を凝らしていた。


(魔力の流れ……どこかに不自然な揺れが……)


 だが、森全体がざわめいていて、決定的な違和感は掴めない。


「……何も見えない……」


 小さく吐き出した声に、悔しさがにじんでいた。

 俺は剣も魔法も使わず、ただ耳を澄ませた。深く息を吸って吐く。

 鳥の声が響いている。虫の音が重なり、風が葉を揺らしている。……けれど。

 ほんの一瞬、鳥の鳴き声が途絶えた。たった数秒。だがそこだけが、不自然にぽっかりと空いた。


 心臓が跳ねる。

 空白のある方角に意識を集中させると、枝葉の揺らぎが“風に逆らっている”ように見えた。


「……左の茂み!」


 思わず声が出た。

 その瞬間、草が揺れ、そこから影が現れた。グレンだった。


「ほう」


 彼は草を払って現れ、俺を見やった。


「よく気づいたな」


 アルトは驚愕し、剣を握り直す。


「左……だと? 俺は右に……」


 ノーラは息を吐き、悔しげに肩を落とした。


「音なんて、気にしてなかった……」


 グレンは二人を見回し、ゆっくりと言葉を続けた。


「敵は姿を見せん。魔物は鳴き声を消し、気配を殺す。だが完全に沈黙はできん。鳥の声が止まる。虫が鳴かなくなる。……それが“合図”だ」


 そこまで言って、彼は目を細める。


「人間も同じだ。笑いながら近づき、油断させてから刃を抜く。だがその時、必ず違和感が残る。呼吸の乱れ、声の震え、足の踏みしめ方……それを拾え」


 アルトは悔しさを滲ませながら拳を握った。


「……まだ全然分からねぇ」


 ノーラは視線を伏せ、唇を噛んだ。


「……魔力の流れを考えてた。でも違和感を感じるにはまだ足りていない……」


 俺は胸の奥で、鼓動の速さを感じていた。耳を澄ますだけで“違い”を掴めた。それが、命を守る術になる。


(俺にも……できるんだ)


 剣も魔法もなくても。

 耳を澄まし、自然の流れを感じることならできる。


 昨日は火。今日は静けさ。

 一つひとつの訓練が、確かに俺たちを「生き残る者」に変えていく。


 そしてその術は、魔物にも、人間にも、通じる。



◇三日目 狩猟と採集


 昼を過ぎると、腹の虫が鳴き始めた。

 最初は我慢できると思っていたが、時間が経つほどに足取りは重くなり、頭の中がぼんやりしていく。剣を握る力も入らず、集中も続かない。

 その様子を見て、グレンは口を開いた。


「……腹が減っては剣も振れん。今日は“食い物を探す”訓練だ」


 俺とアルト、ノーラは顔を見合わせた。昨日までと違い、今日の課題は“生き残る”ためのもっと原始的な行為だった。

 グレンは枝を一本拾い、簡単な罠を見せてくれた。

 枝を曲げて輪を作り、草で隠して獣道に仕掛ける。獲物が通れば足を取られて引き上げられる仕組みだ。


「魔物と違って、動物は殺せば食える。……だが、油断すれば逆に魔物を呼ぶ。匂い、血、骨。全部、敵を誘う罠になる」


 彼の目は冷たかった。


「腹を満たす術を知らん者は死ぬ。奪うしかなくなる。人から、仲間から……。だから覚えろ。食えるだけで勝ちだ」


 “仲間から”という言葉に、俺は背筋を冷やした。アルトもノーラも、ちらりと互いに目を見合わせていた。


「よし、俺は魚を獲ってやる!」


 アルトは勢いよく川に飛び込み、石を蹴りながら魚を追いかけた。

 水面が跳ね、光る鱗が揺れる。彼は何度も手を伸ばしたが、魚はするりと逃げていく。


「ちくしょう……速すぎる!」


 肩まで濡れた彼は、苛立ちを隠せずに叫んだ。

 岸に上がると、剣を握る手を見て悔しそうに笑う。


「剣なら一撃なのに……素手じゃ全然勝てねぇ」


 一方ノーラは、森の中で木の実を集めてきた。

 赤や紫に色づいた実を袋に詰め、嬉しそうに差し出したが、グレンが一瞥した瞬間に声を低くした。


「半分は毒だ。食えば腹を壊す。弱ったところを魔物に食われるのがオチだ」


 ノーラは顔を赤くし、唇を震わせた。


「……だって、色も形も、食べられるのと同じに見えるんだもの」


 グレンは首を振る。


「だから観察だ。匂い、味、茎の切り口。小さな違いを見抜けなきゃ、死ぬ」


 ノーラは唇を噛み、悔し涙をこらえていた。

  俺は川沿いの土を掘り、根を探した。

 指に触れる硬い感触を頼りに引き抜くと、白い根が現れる。

 だが齧ってみれば、土臭くて渋く、喉に引っかかる味だった。


「……これじゃ、とても食えないな」


 思わず顔をしかめた。

 それでも腹は空いている。飲み込むと胃が少し落ち着き、ほんの少し力が戻る気がした。

 日が暮れる直前、アルトが仕掛けた罠に小鳥がかかっていた。

 羽をばたつかせる命の重みが、俺たちの胸を締めつける。けれど、躊躇はできなかった。

 小さな焚き火に串を立て、肉を炙る。

 煙が鼻を突き、油がじりじりと焦げる匂いが漂う。俺たちは夢中でその肉にかぶりついた。


「闘いは剣で決まると思うかもしれんが、実際は飯だ。食えなきゃ声も剣も出せん。空腹は敵より早く命を奪う」


 グレンの言葉は重く響いた。


 肉は硬く、塩も油もない。だが、噛みしめるたびに旨みが溢れ、涙が滲んだ。

 飢えが満たされること。それ自体が力となり、心を生き返らせる。


「覚えとけ。食を失えば魔物に負ける。……人にも負ける。奪う側に堕ちるな。奪われる側にもなるな」


 俺たちは黙ってうなずいた。

 焚き火の明かりに照らされながら、食べられるという事実が、こんなにも大きな喜びになるとは思いもしなかった。


(生き延びるために、食う。こんな単純なことが、こんなにも難しいなんて……)


 火を起こした昨日。静けさを拾った今日。

 そして今日得たのは「食えることが力になる」という真実だった。


◇四日目 襲撃と待ち伏せ


 四日目の訓練は、朝から重たい空気に包まれていた。

 夜の冷え込みで体は強張り、昨日の狩猟で得た小鳥の肉はすでに胃の奥に消えてしまっている。腹はまた空き始め、体の動きは鈍い。だが、そんな弱音を吐ける雰囲気ではなかった。グレンは足を止め、俺たちを見回した。


「今日の課題は“襲撃と待ち伏せ”だ」


 その言葉に、アルトが剣を握り直す。ノーラは小さく息を呑み、俺は胸の奥で緊張を覚えた。


「敵は必ずしも正面からは来ない。むしろ、正面から来る敵なんて甘い。背後から、横から、罠を張り、油断を誘い、叩く。魔物も人間も同じだ」


 グレンの声は低く、湿った土を踏むように重かった。


「森では“待つ”ことも戦術だ。敵を追うだけが戦いじゃない。誘い、欺き、仕留めろ」


 俺たちは岩陰に身を潜めた。地面の湿気が服に染み込み、息を殺すたび胸が苦しくなる。

 アルトが前に出て剣を構えた。


「俺が切り込む。ノーラ、囮を頼む。セレンは合図だ」


「分かった」


 ノーラは掌に雷を灯した。ぱちぱちと青白い火花が散り、森の中に小さな音を作る。鳥が一瞬鳴き止み、再びざわめいた。

俺は喉を震わせ、低く合図を送った。

岩陰に潜み、気配を殺してグレンを誘い込む。

緊張で全身の毛穴が開いていく感覚。汗が背を流れる。

次の瞬間


「……甘い」


 背後から声がした。心臓が飛び出しそうになり、俺たちは振り返る。そこにはすでにグレンが立っていた。

 剣は振り下ろされる前に止められ、ノーラの雷は空を切り、俺の合図は虚しく宙に消えた。


「全滅だ」


グレンの声が落ちる。

悔しさで拳を握りしめる俺たちに、グレンは笑わなかった。


「悪くねぇ。筋は見えてる」


 アルトが食い下がる。


「俺たち、ちゃんと気配を殺してた! どうして……」


 グレンは岩を指で叩き、淡々と告げた。


「呼吸が荒い。耳を澄ませば分かる。アルト、お前の剣の柄を握る音まで聞こえていた。ノーラ、お前の雷は光と音で囮にはなるが、逆に位置を晒している。セレン、お前の合図は悪くない。だが敵がそれを“読んだら”どうなる?」


俺は唇を噛んだ。


「……逆に利用される」


「ああ」


 グレンは頷いた。


「敵はもっと狡猾だ。魔物は獲物を逃がさぬために群れで追い込み、人間は油断を誘うために仲間を装う。待ち伏せは一度で決めろ。二度目はない。何度も繰り返せ、身体で覚えろ」


アルトは剣を地面に突き立て、悔しそうに唸った。


「くそ……俺、斬ることしか考えてなかった」


 ノーラは視線を落とし、手のひらに残る雷の痕を見つめていた。


「囮のつもりが……逆に目印になってたなんて」


俺は息を整えながら思った。


(声で仲間を導けても、敵にも届いてしまう。……それは武器にもなるし、諸刃にもなる)


胸がざわめき、不安と同時に妙な熱が湧いた。

グレンは最後に短く言った。


「雷の光、剣の音、そして合図。組み合わせは悪くねぇんだ。どんな時でも形にできれば戦術になる」


その言葉が、俺たちの胸に残った。

悔しさの中に、小さな光が差す。


◇五日目 火と煙の管理


 朝靄が晴れ、森に静かな時間が流れていた。四日間の訓練で体も心も削られ、俺たちの顔には疲労の影が濃かった。だが、この日の課題はさらに地味で、そして苛酷だった。


「今日やるのは火と煙の管理だ」


グレンは簡潔に告げ、焚き火を指で示した。


「魔物は匂いを嗅ぎつける。人は光を目にする。どちらにしても、お前たちの存在を知らせるのは“火”だ。生き残りたきゃ、火を敵に悟らせるな」


 俺はその意図を察して背筋がひやりとした。火と煙は、人間相手にも致命的な痕跡になる。山賊、ならず者、あるいは冒険者の中にすら、敵として牙を向ける者がいるかもしれない、グレンはそれを教えようとしているのだ。


 俺たちはそれぞれ火を起こし、課題に挑んだ。

アルトは乾いた枝を積みすぎて炎を大きくし、湿った薪を放り込んで煙をもうもうと立ち昇らせた。焦った顔で必死に枝を投げるその姿は、逆に“ここにいるぞ”と叫んでいるようだった。


「くそっ、なんでだ……!」


彼の声が裏山に響いたとき、グレンが鋭い声で制した。


「声を張り上げるな! 煙と声、両方で居場所を売ってどうする」


 ノーラは逆に、魔力で炎を強引に抑え込んだ。火はしゅうと小さな音を立てて消え、ただ黒い炭だけが残る。


「……あ、あれ?」


彼女は唇を噛んで悔しげに俯いた。


「抑えることに囚われすぎだ。火は消しても残り香を放つ。消した瞬間に闇の中で光が途絶えれば、人間の目にはかえって目印になることもある」


 グレンの言葉は冷ややかだが、そこに嘲りはなく、ただ事実を突きつける重さがあった。

 俺は喉を震わせ、小さな声を吐いて風に混ぜた。

 声が火の揺らぎを撫で、炎の息が穏やかに落ち着いていく。ぱち、と小さな音を立てながら火が低く燃え、煙は薄く、地面に沿って消えていった。


「……ふむ」


グレンが初めて、俺に長く視線を向けた。


「火をも操るか。面白い……お前はただの魔法使いじゃねぇな」


その声に、アルトとノーラが同時にこちらを振り返る。俺は慌てて視線をそらした。


(操るなんて大げさだ。ただ魔力の流れを合わせただけだ……)


グレンはゆっくりと立ち上がり、俺たちを見回した。


「覚えておけ。火は命を支える。だが、同時に“敵を呼ぶ印”にもなる。魔物は煙で嗅ぎつける。人は夜目で光を見つける。……人間の目は魔物よりも厄介だ。闇に慣れた狩人は、小さな火花すら見逃さない」


俺たちは言葉を失った。森を渡る風が煙を攫い、夜に吸い込んでいく。アルトは拳を握りしめ、悔しそうに呟いた。


「……訓練じゃなく、本当に人間に見つかったら……」


ノーラは膝に手を置き、わずかに震えていた。

俺は胸の奥がざわつき、喉が乾いて声を出せなかった。

グレンは静かに告げた。


「忘れるな。敵は魔物とは限らない。牙を持たず、言葉を操る人間こそが最も狡猾だ。だからこそ、火と煙を制することは、生き延びる術の第一歩なんだ」


その夜、俺たちは小さな炎を囲んで眠った。

煙はほとんど立たず、火は土の窪みに収まっていた。

冷えが背を刺したが、不思議と心には温かさが残っていた。


(……火は目立たせず、でも消してはならない。命を支える火を、敵に悟らせず守る。それが、生き残るってことなんだ)


◇六日目 異変の察知


 朝の森は薄暗く、冷えた空気が肌にまとわりついていた。昨日は火をどう隠すかを学んだが、今日はさらに目に見えぬものを探る訓練だという。俺たちはまだ疲れの残る体を引きずりながら、森の奥へと足を踏み入れた。


「今日は“いつも”を見ろ」


グレンは大樹の根に腰を下ろし、静かに目を閉じた。


「森は毎日同じではない。だが、お前らが“いつも”を知らなければ、“違い”を見抜くことはできん」


アルトが眉を寄せた。


「“いつも”って……そんなの、気にして歩いたことねぇぞ」


「だからお前は見逃す。戦場では一瞬の見逃しが命取りになる」


グレンの声は低く、鋭かった。


 俺たちは黙って周囲を見渡した。葉の揺れ、鳥の声、風の流れ、土の湿り。普段ならただ通り過ぎるだけの景色だ。だが今日だけは、一つ一つを意識して刻みつける。

ノーラがふと立ち止まり、耳を澄ませた。


「……何か変だ」


彼女の表情が強張る。


気づけば、普段は騒がしく鳴いていた小鳥の声が消えていた。森のざわめきが途絶え、張り詰めた沈黙が降りる。


 次の瞬間、斜面の上から石がごろりと転がり落ちてきた。俺たちは反射的に退いた。土埃が舞い、茂みの陰から赤い目がこちらを覗く。低い唸り声―魔物だ。


「来るぞ!」


アルトが剣を抜いて吠える。

ノーラの掌に雷光が走り、青白い閃光が森を裂いた。

俺は喉を震わせて声を仲間に投げかける。焦りで動きが乱れそうになる二人を繋ぎ、合図を重ねた。

魔物は斬撃と雷の閃きに怯んだのか、深追いせず退いていった。だが安堵よりも背筋を這う冷気の方が勝った。


(……ほんの小さな違和感を、もし見逃していたら……)


そう思うだけで、胸が強く締めつけられた。

グレンはゆっくりと立ち上がり、俺たちに告げた。


「異変とは、いつもと違うことだ。だが“いつも”を知らぬ者には、異変は見えん」


彼の瞳は森を超えて、もっと遠くを見ているようだった。


「魔物は気配を消し、風の音に紛れる。だが人間はさらに狡猾だ。わざと足跡を残し、偽りの物音で惑わせる。……だからこそ、毎日の森を覚え、細部を心に刻みつけろ。そうすれば嘘も罠も見抜ける」


アルトは歯を食いしばり、剣を強く握った。

ノーラはまだ胸を押さえていたが、悔しげに頷いた。

俺もまた、胸の奥に強い重みを感じていた。


(“いつも”を作り、違いを知る。それが命を守る第一歩……)


 静まり返った森の中で、鳥の声が戻るのを待ちながら、俺たちはそれぞれの心にその言葉を深く刻んだ。


◇七日目 総仕上げ


七日目の朝。最後の訓練は、森全体を戦場に見立てた生死をかけた模擬戦だった。

失敗すれば即“死”と見なされる。合格か、死か。もう後がない。

霧は濃く、木々は牙を剥いたようにそびえる。落葉を踏めば音が響き、ひとつの油断が命取りとなる。

森そのものが敵であり、逃げ場などどこにもなかった。


「この一週間で学んだすべてを使え」


グレンの声は重く響く。


「条件は一つ。日暮れまでに俺から逃げ切れたら合格。捕まったら、お前たちは“死んだ”と同じだ。

覚えろ、戦場では生き残るか、死ぬか。その二つしかない」


俺たちはごくりと息を呑み、覚悟を決めた。


森の奥、獣道もろくにない斜面を、俺たちは全力で駆け抜ける。前を切り拓くのはアルト。剣で枝を払い、泥に足を取られながらも強引に道を作る。ノーラはその背を追い、雷を指先に灯していつでも囮にできるよう構える。俺は最後尾、声と合図で二人を束ねる役目だ。


昨日の焚き火跡にさしかかったとき、アルトが慌てて枝を崩したせいで白い煙がもくもくと立った。


「馬鹿! 煙を立てるな、居場所を売っているぞ!」


グレンの声が森の奥から鋭く響き、全身が凍る。

ノーラがしゃがみ込んで濡れ葉をかぶせ、俺は声を低く混ぜて炎を鎮める。わずかな残光だけを残し、匂いは土に吸い込まれていった。


「……良し。火は消すな、隠せ」


グレンの声は遠くで低く唸り、アルトは顔を赤くして歯を食いしばる。

 走りを再開すると、突然、森のざわめきの一角が途絶えた。鳥の声が消え、風と逆に枝葉が揺れる。俺は振り返り、「右後方!」と叫んだ。だがノーラは焦って逆の方向へ雷を走らせ、青白い閃光が木々を照らした。


「囮のつもりが目印になっている!」


頭上を影がかすめ、枝葉が落ちる。ノーラの肩がびくりと震えた。

急い俺は正しい方向を指示する。アルトが剣で視界を切り開き、ノーラは雷を極小に抑え直した。


「……今度は正解だ。静けさの欠落は三拍早く拾え」


木陰の声が霧に溶ける。

 さらに進むと、斜面の下に小川の走る谷に出た。ぬかるみに足跡が残りやすく、このままでは追跡される。アルトは腰袋から魚の鱗を取り出し、谷側へぱらぱらと撒いた。湿った風に乗って生臭い匂いが広がる。獣や魔物を呼ぶ危険と引き換えに、俺たちの痕跡を隠す“囮”だ。


「ちょっと待って! 魔物まで寄ってきたらどうするの!?」


ノーラが慌てて声を上げる。


「わかってる! でも、ただ走るだけじゃグレンに追いつかれる!」


アルトは振り返って言い放つが、鱗は粒が大きすぎ、光を反射していた。


「荒い! 人の手で撒いた跡だ!」


木陰の声が鋭く飛ぶ。アルトは歯を食いしばり、指で鱗を潰して粉にして散らし直した。霧雨のように舞った鱗は光を失い、土と草に紛れていく。


「……今度は悪くない。匂いは残り、痕跡は消える。危険を承知で選んだ判断、それ自体は正解だ」


谷を抜ける出口に差しかかり、俺たちは狭い通路に倒木を仕掛けた。息を詰め、俺が合図を飛ばす。しかし焦りで声が大きすぎ、すぐに気配が迫る。


「セレン! 声は敵にも届く!」


冷汗が背を伝う。ノーラが粉塵を光らせて目くらましを作り、アルトが倒木を突き崩す。俺は抜けを指示し、三人は泥の斜面を滑り降りて、細い獣道へ転がり込んだ。


「……まあ及第だ。だが同じ手は二度効かん」


その後も背後から足音が追ってくる。アルトの踏み込みは重く荒く、ノーラは息を吸うばかりで呼吸が乱れていた。俺は必死に合図する。アルトが歩幅を修正し、ノーラが吐く息で雷を安定させる。互いの肩を支え合いながら、俺たちは泥に足を取られつつも前へ進んだ。

 やがて木々の間から夕陽が差し込み、森全体が赤く染まっていく。鳥の声が戻り、チチチと普段通りの鳴き声が木立に広がった。俺たちは最後の力で光の帯を三人同時に跨いだ。


「……合格だ。今日のお前たちは生き延びた」


木陰から現れたグレンがそう告げた瞬間、ノーラがふらりと崩れ落ちる。


「ノーラ!」


俺とアルトが抱きとめる。


「……生き延びた、よね……」


震える声に、俺たちは必死に頷いた。


グレンは腕を組み、静かに言葉を落とす。


「アルト。お前は力任せが過ぎる。だが工夫を覚えれば伸びる。粗さを知った剣は強い」


「ノーラ。お前は出力が大きすぎる。だが今日は抑えることを学んだ。制御できる雷は脅威になる」


「セレン。お前は声が大きすぎる。だが仲間を導けるのはお前しかいない。声は諸刃だ。だが使いこなせば武器になる」


「三人とも、今日でようやく“生き延びる者”になった。

だが忘れるな。同じ手は二度と通じない。次は、今日を超えろ」


泥と汗にまみれながら、俺たちはその言葉を胸に刻んだ。勝ったのではない。ただ、生き残った。

それが、最初の、そして何より重い勝利だった。


「……よし。一週間でよくやった」


 俺たちは全身汗と泥にまみれ、互いの顔を見合って笑った。達成感と安堵で、胸が熱くなった。

グレンはふと俺を見やり、ぼそりと呟いた。


「……セレン、お前、楽しそうだな」


俺は息を整えながら答えた。


「はい。苦しかったけど……楽しかったです」


 空腹も、痛みも、寒さもあった。

けれど、火を起こせたとき。鳥を捕まえたとき。仲間と声を繋げたとき。ひとつひとつが胸の奥に小さな光を宿していた。


(これが、生き延びるってことなんだ……)


夜の森が深く沈む中、その光は確かに俺の中で燃えていた。


村に戻ると、母は驚いたように俺の顔を見つめた。


「少し……逞しくなったね」


 兄も短く頷き、アルトは「次はもっと強くなる」と拳を振り上げ、ノーラは「もう何もできないお嬢様じゃない」と笑った。

グレンは最後に告げた。


「だが、これはまだ“準備運動”だ。本番はこれからだ。もっと長く、もっと深く、敵と自然の中で過ごすことになる」


俺は胸の奥で震えを感じた。またあの山で学びたい。厳しさの中で、もっと世界を知りたい。

次なる試練への期待が、確かに芽生えていた。

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