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第32話: 謎の男グレン、来訪

夜襲から数日後、村にはまだ爪痕が残っていた。

柵の一部は牙に食い破られたまま仮の板で補強され、納屋の壁板には鋭い爪痕が生々しく刻まれている。血に染まった藁束は片隅に積まれ、乾ききらぬ鉄臭さが鼻を刺した。

夜ごとにうなされて泣く子もおり、大人たちもふとした物音に肩を震わせる。人々の顔に疲れの影は残っていたが、それでも壊れた家を直し、倒れた木柵を起こしながら、互いに声を掛け合っていた。恐怖の余韻と、生き延びた安堵がないまぜになった空気。それが昼の村を覆っていた。


そんな折、広場の真ん中に見慣れない大人の男が立っていたのだ。

逞しい体躯に粗末な外套、腰には使い込まれた剣。ぼさりとした銀髪に日に焼けた肌。けれど、目はやたらと鋭いのに、不思議と柔らかさを帯びている。


「ねぇ見て、かっこよくない?」

「ほんとだ、あの剣……本物だよ」

「お兄ちゃんたちが言ってた! あれが“傭兵”なんだって!」


女衆や子どもたちが集まって、口々に囁き合っていた。笑い声がいつもより高く響き、村の空気がざわめいている。

俺も、人垣の隙間からそっとその男を覗いた。胸の奥で、ちり、と何かが火をつけられたような感覚が走った。


(誰だろうあの人……ただの通りすがりじゃない。剣を持って立ってるだけで、場が締まる……)


やがて、杖をついた村長ハルドが前に出て、皆に告げた。


「先日の魔物の襲撃を思い出せ。あの狼型の群れが二度と来ぬ保証はない。いや、むしろまた来ると見た方がよい。……それに、聞け。ヨアンは命を落とし、カスパルも戻らぬ者となった。今や村の戦力は大きく削がれている。暫定でもいい、早急に戦力を補強しておかなければ、次に来た時は全滅にもなりかねん。」


ざわめきが広がる。


「傭兵……」

「そんな余裕、村にあるのか?」

「だが必要だろう。次は全滅しかねん」


「無いのは承知だ。だが、無策でいるわけにもいかぬ。今は金だけでなく、人手と経験が必要だ。子供や年寄りを守るためにも、しばらくのあいだ、傭兵を雇い入れることにした」


村長は言い切ると、重くうなずき、その男を示した。


「彼の名は―グレン。腕は確かだと聞き及んでいる。この村の守りを、しばし頼む」


グレンと名乗ったその男は、穏やかな声で言った。


「俺はグレン。ただの渡り者だ。縁あってしばらく世話になる。女や子どもを守るのも仕事のうち、遠慮せずに声をかけてくれ」


その一言に、人垣がまたざわめいた。女たちは微笑み、子どもは目を輝かせた。なぜだか分からないが、彼の声には妙な安心感があった。


ハルドが「傭兵を雇う」と告げると、村人たちの間にざわめきが広がった。

その余韻をやわらげるように、少し離れた場所で女衆と談笑していたのがオルド神父だった。

穏やかな笑みと仕草で人々を落ち着かせる姿は、村の灯火のように見えた。


やがてグレンが立ち上がり、皆に軽く会釈してから神父のもとへ歩み寄る。


「神父様、遠路戻られたばかりと伺いました」


グレンが頭を下げると、オルドは目尻に皺を寄せてうなずく。


「礼儀正しいのう。お主が噂の傭兵か」


「はい。しばしお世話になります。……ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「構わんよ」


「先日の魔物との件で、『女神の加護』という言葉を耳にしました。ご神意とは―?」


神父は一瞬だけ言葉を探すように目を細め、やがて穏やかに答えた。


「女神の加護といっても、天から盾が降るわけではない。せいぜい魔物への少しばかりの守りの加護よ。なんせ籠城には向かん辺境ゆえな。だが、その証があるだけで、人の心は折れずに済む」


グレンはうなずき、少し考えるように目を細めた。


「まるで『聖なる灯火の寓話』のようですね」


「ほう?」オルドが顎に手を当てる。


「闇に沈んだ荒野を、ひとつの灯火が照らした……。灯火は獣を焼き払うほどの力は持たずとも、人々はその小さな光を囲み、夜を越えた。女神の加護もまた、あの灯火のようなものではないかと」


「……ほう、よく知っておるな。まさしく我らに伝わる寓話じゃ」


オルドの顔に深い皺が笑みとして刻まれる。


「名は力、灯は縁。どちらも人を集め、心をつなぐ……。それを異郷の傭兵が口にするとはな」


グレンは微かに肩をすくめ、口元に笑みを浮かべる。


オルドは周りで立ち聞きしていた村人たちへと視線を向けた。


「ほら、皆も遠慮せず寄ってきなさい。この方が今回わしらを助けてくれる傭兵―グレン殿だ」


戸惑いながらも、農具を手にしていた男衆や女衆が一歩、また一歩と近づいてくる。


「傭兵さん、荒野を越えたことはあるのか?」

「山脈の向こうに町はあるのかい?」


次々と問いかける声に、オルドは笑みを浮かべ、手を差し伸べるようにして促した。


「せっかくじゃ、聞きたいことがあれば聞くといい。わしらには知らぬ世界を見てきた方だ」


グレンは村人たちの問いに、にこやかに答えていった。

遠い町の市の様子、山賊の話、旅路で出会った不思議な習慣。時に冗談を混ぜ、時に妙に具体的な描写を加えながら、聞く者を飽きさせない。普段は口数の少ない男衆まで笑いを洩らし、輪はどんどん広がっていった。


俺はその光景を少し離れたところから眺めていた。

恐怖と不安が残る村に、こうして笑いが戻ってくるのは久しぶりだった。


夜になり、

広場の片隅で焚き火が燃え、グレンの周りに子どもたちの輪ができていた。俺もアルトもノーラも、その輪に混じって座った。ぱちぱちと木が弾ける音が響く。


「世界は広いぞ」


焚き火に照らされたグレンの顔は、昼間よりも柔らかく見えた。


「山を越えれば、俺たちとまったく違う言葉を話す人々がいる。海を渡れば、城の何倍も高い塔がある都市がある。戦場では、名も知らぬ魔物が群れをなし、軍隊が国を越えて衝突する」


アルトが身を乗り出す。


「本当か!? 俺、いつか戦ってみたい!」


「馬鹿ね」ノーラが肩をすくめる。

「死ぬだけよ」


まだ見ぬ異世界の光景を想像して、焚き火の明かりに照らされたグレンの横顔から目が離せなかった。


グレンは俺の視線に気づいたのか、ふっと笑って言った。


「坊主。お前の魔力は武器になるかもしれんぞ」


胸がどきんと鳴った。俺の魔力を“武器”と呼ぶ大人なんて、初めてだった。


焚き火がはぜ、火の粉が夜空に吸い込まれていく。

グレンは薪を一本くべ、話題をふっと切り替えた。


「坊主……名前は?」


「セレン」


「セレン。あの夜、ここで魔物を退けたって聞いた。お前もそこにいたか?」


のどがひとつ鳴る。俺はうなずいた。


「……いた。俺は叫んだだけだよ。みんなの邪魔にならないように、でも届いてほしくて。そうしたら―」


「魔力が声にのって、皆の腕や足から余計な力みが抜けた、か?」


俺は思わずグレンの顔を見た。

なぜ“そこ”にまっすぐ触れてくる?


「……うん。なんで分かるの?」


「戦場には、説明のつかない“合う”瞬間がある。剣も槍も、歌も祈りもな。お前はきっと、その“瞬間”を呼ぶ」


そう言って、彼は少し目を細めて俺を見た。


「……そうか。お前が光属性の子供か?」


「えっ……いや、その……」


セレンは言葉を濁した。違う、と胸の奥で叫んでいたが、はっきり口にする勇気はなかった。


言って、グレンはアルトに視線を移す。


「坊主、名は?」


「アルトだ!」


「剣は、恐怖の先に踏み込んだ回数で少しずつ強くなる。お前はその一歩をすでに踏んだ顔をしている」


アルトは照れたように鼻を鳴らした。


「剣は爺ちゃんに教わった。俺は、まだ全然勝てないけどな」


「負けを知っているのはいいことだ。恐怖も、敗北も、知らぬ者ほど脆い。……村の子らの中で、お前は先にそれを覚えた。なぜだ?」


「なぜって……」


アルトは言葉を詰まらせる。

だが、やがて強い目でグレンを見返した。


「村のみんなを守りたかった。ただ、それだけだ」


グレンは一瞬だけ沈黙し、口元に笑みを浮かべる。


「なるほど。守りたい者のために剣を振るうか……。良い答えだ。だが覚えておけ、守るための剣は時に一番重い」


アルトは少し眉をひそめながらも、黙ってうなずいた。


ノーラを見ると、グレンは一拍おいて、丁寧に言った。

焚き火の赤に照らされた少女は、まだ幼さの残る顔立ちながらも背筋をすっと伸ばし、炎の揺らぎの中に気品を漂わせていた。


「嬢ちゃん……あんた、この村の者かい?」


ノーラは少しムッとしたように唇を結び、だがきっぱりと答える。


「エレオノーラ=フォン=ライヒヴァルト。ライヒヴァルト家の娘よ。今は―まぁ、色々あって、この村に世話になってるけど」


「ライヒヴァルト家か」


グレンは小さく目を見開き、すぐに納得したように頷いた。


「ああ、静養中の娘さんがいると聞いたが……あんたのことだったか」


ノーラは焚き火の火を見つめ、肩をすくめる。


「静養なんて大げさよ。ただ……少し、落ち着けって言われただけ」


「嬢ちゃん……いや、ライヒヴァルト家のお嬢様、でいいのか?」


「……“ノーラ”でいいわ。村のみんなもそう呼ぶから」


グレンは小さく笑みを浮かべる。


「なるほど。気取らないところが、かえってらしいな」


彼はわずかに目を細め、声を落として探るように続けた。


「……で、魔物との戦いだ。雷がトドメを刺したと聞いたがあれはお嬢……いや、ノーラ、あんたの仕業で間違いないな?」


ノーラは一瞬息を呑み、視線を逸らす。頬にうっすら赤みが差す。


「……村の皆がいたからよ。わたしひとりじゃ、どうにもできなかった」


グレンの眼差しが鋭く光る。


「雷……暴れる力ほど、芯が通れば静かに鋭くなる。戦いの中で、その芯は見えたか?」


ノーラは短く息を呑み、ほんのわずか顎を上げた。


「……見えたよ。少しだけ、だけど」


「ならば次は、“いつでも同じように撃てる”まで体に叩き込むといい。……焦らず、怠らず、だ」


そこへマルタ婆が、湯気の立つ薬草茶を持って割って入った。


「ほら、若いの。話ばかりしておらんで、あったかいのを飲みな。夜は傷が疼く」


「ありがたい。婆さまは、薬草にお詳しいと聞きました」


「薬草はねぇ、毒にも薬にもなる。煎じ方と量と、そして“タイミング”次第さ。あんたの剣もそうだろう? 振るう間合いを間違えれば、味方も斬る」


「……痛いほど、身に覚えがあります」


軽口を交わしながら、グレンはまるで風のように情報を拾っていく。

先日の戦いの核心にかすりもしない雑談のようでいて、すべてが核心に触れていた。


母リーナにも、グレンは分け隔てなく話しかけた。


「セレンの母上ですね。息子さん、喉を酷使したでしょう。蜂蜜と温かい乳、それに少しだけ生姜を。長旅の兵も、それで翌日に声を取り戻すことが多い」


「まぁ……あなた、本当に傭兵さん?」

母は驚きと感心の入り混じった声を上げた。


「道中で学んだ台所の知恵です。戦は、飯と休みで半分が決まる」


グレンは笑みを浮かべる。戦場の経験を語っているはずなのに、不思議と恐怖ではなく、安心を与えるような声音だった。

母は笑い、俺の肩をやさしく叩いた。


(この人……ただ強いだけじゃない。場を和ませて、心に火を点けて、でも要るところはちゃんと見ている……)


気づけば、周囲に輪が広がっていた。

疲れた顔をしていたはずの村人たちが、いつのまにか笑い声を立て、グレンの話に耳を傾けている。

遠い街の市の様子、旅の道中で出会った奇妙な風習、そして兵たちの些細な失敗談。彼の口から語られると、どんな出来事もどこか血の通った物語のように響いた。


村長ハルドが「頼もしいものだな」と頷き、オルド神父は「学びになる」と笑みを浮かべる。

女衆は「ほんとに傭兵さんなのかしら」とひそひそ声を交わし、子どもたちは目を輝かせて彼を見つめた。

戦の影に怯えていた村に、少しずつ笑顔が戻っていく。


俺の胸の中にも、温かい灯がともるような感覚があった。

恐ろしい夜襲の記憶はまだ残っている。けれど、この人なら……そう思わせる何かがあった。


この新たな村の仲間を歓迎するように、村は穏やかな落ち着きを取り戻していくようだった。




⸻⸻⸻

その頃、

隣村では夜ごとの警戒が強められていた。

数日前の襲撃の一報を受け、男たちは交代で見張りに立ち、女たちは柵を補強し、子どもたちは夕暮れと同時に家へ押し込まれた。

誰もが狼型の魔物を恐れていた。闇に潜む影が、今度は我が村に牙を剥くのではないかと。


警戒を続けていた猟師ヨルンは森の外れで異様な光景に足を止めた。

鼻を突く鉄臭い匂い。

沈黙した森の奥に、異物のように横たわる体。


それは無残に倒れ、打ち捨てられた狼型の魔物の骸だった。

裂けた胸。乾いた血。開いた顎に残る牙。

倒れたまま硬直した黒い獣だったもの。


村人には仕留められぬはずの魔物。

その体には剣の斬撃の痕があった。


風が吹き、死臭が漂う。

ヨルンの背に冷たいものが這い上がった。


「……誰が、これを」


森は答えず、梟の声だけが闇に落ちた。

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