36、大橋浩平、夏風邪をひくの巻
太陽が情け容赦なく照りつけ、庭から時折、蝉の鳴き声が反響した。本格的な夏の到来だ。
「今年はどこに旅行しよう?」と家族会議をして、今年は鳥取へ行くことに決まった。
一日目は鳥取砂丘であまりの暑さにぐったりし、二日目は日本一危険な国宝の三徳山三佛寺の投入堂に四人で驚き、感動した。
「地震で崩れたりしないのかなぁ〜?」
「「「ほんと、不思議だねぇ〜」」」
旅館に戻り、温泉を堪能して一息し、豪華な夕食に舌鼓を打ちながら、俺たち三人は、成海の言葉にしみじみと相槌を打ったのだった。
八月に入ったある日のことだった。
俺は起きようとしたら、あまりの辛さに起き上がれなかった。
「うわぁ~……38.6度もあるよ、お兄ちゃん……」
俺の体温を測った成海が、マスクをした状態で気の毒そうに呟いた。
めったと風邪をひかない俺は、
(こんなにも熱って辛いものなのか……)
と、朦朧とする意識の中で思った。
「浩平くん、ごめんね。夕方には戻るから。あとは成海に頼んでおいたから、ゆっくり休んでね」
成海の部屋のドアの隙間から、お母さんは申し訳なさそうに顔を覗かせて謝った。俺は成海のベッドから、
「……大丈夫だよ……お仕事、いってらっしゃ〜い……」
と、力なく返すだけで精一杯だった。
「お大事に……」
心配そうな声とともに、そっとドアの閉まる音がした。
ベッドの脇に座る成海は、冷えピタを俺のおでこにさりげなく貼ると、氷枕をすばやく頭の下に差し入れてくれた。なんという優秀な看護師だろうか。
「朝ごはんは?」
「いらない……」
「ここにスポドリとウィダinゼリー置いておくから。食べたくなったら食べてね」
「ありがとう……」
言いながらも、あまりの辛さと眠気に耐えきれず、そのまま俺は深い眠りに落ちていった――
どれくらいの間、寝ていたのだろうか。ふと目を覚ますと、図ったようにドアが開いた。
「あ、お兄ちゃん、起きた?」
「起きた……」
「もうお昼だよ。お粥、作ろうか? 卵、入れる?」
「……いらない……。なんにも食べたくない……」
俺の返答に、成海は困ったように眉尻を下げた。
「朝も食べてないじゃん。ちょっとは食べた方がいいよ」
「お粥って……あれ、食べたい気持ちにならないんだよな……。食欲ない時にお粥……やっぱ、無理。なんで、ドラマや漫画だと風邪をひいた時にお粥が出てくるのか……。本当に世の中の人は高熱の時にお粥を食べているのか……? 俺、あれは違うと思うんだよな……聞いてないし」
スマホをいじっている成海に、俺はツッコんだ。
「話、ごちゃごちゃ長いんだもん。結局、何が食べたいのさ?」
「……なんにも食べたくない……」
「何か食べた方がいいよ。おそうめん、ゆがこうか?」
「ありがとう! 俺が食べたいのはそれだー!」
「元気じゃん。おそうめんでそんなに喜ぶなんて……可哀想に……」
「誰が可哀想な人だ。失礼な」
「晩ごはんは、ざるうどんなら食べられる?」
「食べられる! ありがとう! めちゃくちゃ嬉しい!」
「冷奴いる?」
「いる!」
「……なんやかんやでこの人食べるなぁ〜」
言いながらドアが閉まり、成海が階下へ降りていく音がした。
俺は、氷と氷がぶつかる涼やかな音と、適度な冷たさの氷枕を堪能しながら、天井を見上げてニコニコしてしまった。自分の看病をしてもらえる嬉しさにワクワクが止まらない。
よく考えたら、こんなにきちんとした看病をしてもらえるなんて生まれて初めてのことだった。
憶えているのは、小学校低学年の時に風邪をひいてしまい、お父さんが市販の洋梨ゼリーを手渡してくれた記憶だけ。受け取りながら、
(せめて、みかんゼリーにしてくれよ)
と、思ったもんだ。そして、その日の晩ごはんは白ごはんと味のりだけ。
(せめてお茶漬けにしてくれよ)
と、思ったもんだ。それ以来、絶対に風邪をひくもんかと俺は固く胸に誓ったのだった。
あれから数年、今日まで、俺はきちんと風邪をひかずに生きてきた。
そして、遂に今日は、待ちに待った生まれて初めての本格的な看病である。これがウキウキせずにいられようか。風邪をひいただけこんなにも優しく扱われるなんて……。こんなん、めちゃくちゃダメ人間になりそうだと思った。
調子に乗らないよう、気を引き締めなければならない。病気の時くらい甘えればいいのに、なぜこうも俺は甘え下手なんだろう。というか甘え方が分からない。大体、妹に甘えるって、どうやんの?って思ってしまった。
しばらくして成海が運んでくれたお昼ご飯に俺は泣きそうになった。
お盆の上には、氷水に浸かるおそうめんが光り輝いている。
「成海、ありがとう」
「どういたしまして。召し上がれ〜」
そう言ってドアが閉まると、俺は早速、そうめんをつゆに浸してすすってみた。
「………!」
あまりのおいしさに感動した。美味しんぼの山岡士郎が探している究極のメニューって、高熱の時のそうめんなんじゃないかと思った。
お昼を食べて薬を飲んでから、いつの間にか眠ってしまっていた。ふと目を覚まし、壁にかかっているちいかわの時計を見ると午後四時を指している。
そばに置かれた体温計で測ると、薬が効いているからか、37度台まで下がっていた。だいぶ楽になってきた。
すると、そっとドアが開き、成海が覗きにやってきた。
「大丈夫?」
「薬でだいぶ下がった」
「そっか。楽になって良かったね」
部屋に入ってきた成海は、なぜか右手に湯気の立つタオルを持っていた。当たり前のように、俺の着替えも小脇に抱えている。
俺は不思議に思って、そっと聞いてみた。
「なに……?」
「体、拭いてあげる!」
「やらなくていいよ、自分で拭くよ」
「ぷ〜っ」
漫画みたいに成海は頬を膨らませた。俺は思わず笑ってしまった。
そこまでしてくれなくてもいいよと思ってしまう。お母さんがいなかった俺はできることは自分でするからとなってしまい、どうしても甘えることができないらしい。
「やるってば〜っ」
「いいから」
「やらしてってば〜っ」
「いいから〜っ」
「じゃあ、やらない〜」
「ええ~っ? あんなにしたがってたのに〜っ?」
あっさり引き下がったので驚愕してツッコむと、成海は思いっきり吹き出した。
「素直に拭いてって言えばいいのに〜っ」
そのままケラケラ笑っている。俺もつられて笑ってしまった。
自分でも分かる。俺は生まれて初めての看病にご機嫌になっている。弱っている自分や甘えている自分を受け入れてもらえたことに嬉しくなっているみたいだ。
「じゃあ、拭いてもいいっ?」
「ありがとう。もう俺の身体、好きにしてください」
「やったぁ! それじゃあ、お言葉に甘えて、脱がさせて頂きま〜す♫ ウシシ〜♫」
「……なんだかやらしく聞こえるなぁ〜……」
「隙のないお兄ちゃんが、こんなに弱って隙だらけなのはレアだなぁ〜♫」
「……なんだか嬉しそうだなぁ〜……」
ツッコミながらも、俺は高熱の辛さもあり、されるがままに上半身を裸にされた。
少し熱めのタオルで拭かれると、汗でベタベタだった肌がスッキリと爽快になっていく。
至れり尽くせりでなんだか気恥ずかしい。ダメ人間にされそうで心配になってきた。
背中を拭き終わり、前にまわってきた時だった。
成海は一生懸命にせっせと拭いてくれている。動かずにじっとしていたが、成海の作業を何気なく見下ろした瞬間、Tシャツの胸の隙間から、絶妙な角度で谷間が見えてしまった。
ブラが見え、更に胸も見えてしまう――という際どい瞬間、俺は慌てて顔を背けた。
「成海」
「ん? なに?」
「そのTシャツ、外で着ない方がいい」
怪訝な顔をしていたが、察した成海は慌てて胸元を押さえた。
「見えた……?」
「それなりに」
みるみる顔を赤くした成海に、俺は慌てて付け足した。
「大丈夫、お兄ちゃん、なんとも思わないから」
「……それはどういう意味……?」
安心させてあげようと思ったのに、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。言葉選びってマジでムズいと痛感した。
「……言った通りのままで……他意はないです……」
「どうせ成海は胸が小さいよ!o(*`ω´*)o」
ぷんすかぷんぷんと怒る成海に、(やっぱ、そうなるよな〜)と俺は心の中で呟いた。
「そこまで言ってないだろ。なんとも思ってないと伝えて安心させてあげようと思って……お兄ちゃんなりに慮ったわけです」
「分かるけど……やっぱ言い方~っ(ToT)」
「なんて言えば良かったんだよ。性欲、湧いてほしかったのか?」
「そういうことじゃないけど……やっぱ言い方~っ(TOT)」
おいおいと涙する成海に、仕方なく俺は言った。
「分かった分かった。本当のことを言う。なんとも思わないわけないだろ」
言った瞬間、成海が息を飲んだのが分かった。俺の目をじっと見据えて、驚きを隠せないでいる。構うことなく、俺は続けた。
「だから、他の男には見せるな」
「…………」
「だから、外では着るな」
し~ん……と妙な静けさが部屋に響き、次いで、
「うん、分かった……」
と、真っ赤な顔をした成海がこくん……と素直に頷いた。
言った後、思った。
保護欲なのか独占欲なのか、分からなかった。
家族愛なのか恋愛感情なのか、もう分からなかった。
ただ、気付いたことがある。
成海と兄妹の関係でいることに、俺は、ほんの僅かな息苦しさを感じ始めていた――
読んでくださって、ありがとうございました。
遅くなって、すいませんでした。
次回に続きます。




