第16話 朝の浜辺を二人走れば
僕とマーサは、朝の海辺を走っていた。濃緑のシャツと迷彩ズボンだけの軽装に、ブーツを履いてリズミカルに走ると、眠っていた体に血が巡り、本来の自分が目覚めるような気がする。
マーサは僕がランニングに出かけると言うと、自分も一緒に走ると言ってついてきた。僕は新兵訓練でソニアに教わった呼吸法とペースで海辺を駆ける。そして隣を、大柄な男物のチュニックとパンツを身に纏ったマーサが、僕のペースに合わせて、ゆっくりと並び走る。
マーサが身につけている衣服は、全て宿から借りたものだ。アーミングジャケットとタイツを洗濯に出しているためだが、よくもこんなに大きな衣類を準備していたものだと感心する。それ程に大柄な宿泊客が、度々訪れるのだろうか。それとも、宿屋のもてなしとしては当然の事なのだろうか。この点から見ても、宿のレベルの高さが窺えた。
朝の白い光に包まれた漁港は、時間が早いにもかかわらず、すでに目覚めて活気に溢れていた。大勢の漁師達が、獲れた魚の水揚げを行っている。大きな網かごに溢れんばかりの様々な魚が、陽の光に煌びやかに跳ねる。
連絡船の桟橋から少しばかり離れた小型船の係留場には、漁を終えた幾つもの漁船が帆を休め、穏やかな波に身を任せていた。側の岸壁を走り抜けると、カラカラと軽やかな音が辺りに響いている。どうやら、並ぶ漁船の船尾に備わる風車が回る音のようだ。
マーサに聞くと、それは海の魔物から船を守るための退魔風車という魔除けだそうだ。直径が大人一人の背丈ほどもある風車の、黒く長細い四枚の羽根には、魔石が一定の配列で埋め込まれており、海風に回りながら魔法円を描くという。日照時には、ただの風車にしか見えないが、日没後は朧気に浮かぶ魔法円が美しいらしい。
「ほれ、あそこにも大きな風車が見えるだろう? あれはこの町全体を魔物から守る退魔風車だ。夜間に海の上から見ると、それはもう幻想的な美しさらしい。だが残念ながら、陸からは陰になって魔法円を見ることができん。しかし、一度でいいからその美しい様子を見てみたいものだ」
マーサと二人並んで走りながら、彼女の示す方向を見やると、海に突き出た岬に立つ灯台が見えた。最上部には大きな櫓が組まれ、そこに備わった灰色の巨大な風車がゆっくりと回転しており、穀倉地帯でよく見かける大型風車にも劣らない威容を誇っていた。
「魔除けの魔法円って言うけど、そんなに海の魔物は恐ろしいのかい?」
「海棲魔物のことは、私もよくは知らん。だが、この海のことを『冠水魔界』とも言うくらいだからな、相当恐ろしいものなのだろう」
そういえば、「海は魔物」という言葉もよく耳にする。それ程に恐ろしい海を仕事場にする人々の勇気には、尊敬の念を抱かざるを得ない。漁師や船乗り達は、ある意味、勇者や冒険者に匹敵する職業だと言ってもいいのではないだろうか。
いや、よく考えれば、明日には連絡船に乗って、僕もこの海を渡るのだ。そう考えると急に恐ろしくなってきた。
走り進むうちに岸壁は終わり、僕らは浜辺に駆け下りる。マーサがジョリヌを抱いて上陸した浜とは、ここのことなのだろうか。
更に走ると岬の根元にたどり着いた。ここから見ると、風車の大きさがよく分かる。町の重要施設だからか、そこには柵が設けられ、ここから先には進むことができないようだ。
もっと間近で風車を見たいところだが、残念ながらそれは叶わないらしい。僕たちは諦めて折り返し、もと来た砂浜を再び走り出す。陽の光に煌めく海原に息を飲みながら僕たちは走る。少しばかり冷たい潮風が、頬に気持ち良い。
「ところで、何かあったのか? カリーニャと」
不意にマーサが尋ねてきた。顔を向けると、何だか心配げな表情が僕を見下ろしている。
何かあったどころではなかった。寝起きに風呂に入ろうとしただけだというのに、怒り狂ったエルフに罵られ、頬を叩かれた。そんな騒ぎであるにもかかわらず、マーサはずっと眠り続けていたが。
ソニアの制止の言葉と経緯の説明に、単なる事故であったことは理解したようだが、それ以降、エルフ娘は僕とは口をきこうとはせず、目を合わそうともしない。以前、彼女が言っていた「胸を見られるぐらいは構わない」という趣旨の言葉は何だったのだろうか。そう思いながらも、数少ない旅の仲間が僕に向ける負の意識に、僕は何だか少し落ち込んでいた。
「ああ、いずれ君にも知られると思うから、隠さずに言うよ。実は――」
砂浜を足踏みしながら何かをついばむカモメが、僕たちの接近に空へ舞い上がる。規則的な波音の中を、これまた規則的な砂音を立てながら、息を合わせるように駆け抜ける僕たち。右横を見ると、上下に大きく揺れるマーサの胸があったが、こうやって汗を流していると、意外と気にならない。
「ははは、カリーニャらしいな。まあ、気にするな。あいつもすぐに機嫌を直して、いつも通りに接してくることだろう」
「でもさ、酷いと思わないか。自分は僕の風呂を覗こうとするくせに、いざ自分が覗かれたらこの仕打ち。事故であるにもかかわらず。怒りたいのはこっちだよ」
砂浜が終わると、そのまま岸壁へ駆け上がり、目抜き通りを抜けて、中央公園と書かれた看板が掲げられた広場の草むらに、僕は倒れ込んだ。
「まあ、あの年ごろの娘はあんなものだ。ともに旅をする以上、諦めることだな」
大きく荒い息をする僕に、全く疲れていない様子のマーサが笑顔で言う。
「君だって、カリーニャとはあまり年が離れていないんだろう?」
「いや、聞けば五つほど、私のほうが年上だそうだ。女の五年は大きいぞ」
「じゃあ、君も五年前はあんな感じだったのかい」
少し休憩をした後、二人並んで腕立て伏せをしながら、僕はマーサに聞く。朝の公園を散歩する老人が、僕たちを物珍しそうに見ながら通り過ぎていった。
「さあ、自分のことになると、よく分からんな。まあ、あそこまで露骨に異性の体に興味を示してはいなかったが、素敵な男との出会いを思い描いて、ときめくことがあったのは事実だ。いわゆる“恋に恋する”ってやつだな。女友達とも、今から思うと恥ずかしい内容の会話をして、喜んでいたものだ。だが集落を出て、この大きく醜い体では普通の恋が出来ないと悟ったときから、私は男には一切興味を抱かなくなった。ただ自分の戦技を磨くことだけに邁進してきたつもりだ」
「また君はそういうことを言う。君は決して醜くなんて無い。自分の魅力に、なぜ気付かないかな」
そのまま二人で腕立て伏せを二百回ほどした頃、公園の外から大勢のざわめきが聞こえてきた。内容は良く聞き取れないが、どうやらあまり好ましくないことが起きたようだ。
僕とマーサは顔を見合わせ、頷き合うと立ち上がり、汗だくの姿のままで公園を出ると、声のする方へ向かう。少し離れた煉瓦造りの大きな建物の前に、人だかりがあるのが見えた。
小走りに駆け寄ると、野次馬の集団が遠巻きに見守る向こうに、二台の荷車が並んで駐まっていた。一台の荷台上には、何やら大きな布が掛かっており、二つの盛り上がりがあった。その大きさや形状から、それは横たわった人間に思える。全身が布に覆われていることから、どうやら遺体のようだ。
その隣に駐まっている荷車には数名の男達が群がっていた。そして荷台から、赤い髪の人物が担架に移され、最寄りの大きな建物に向かって運ばれていく。
僕は思わず駆け出していた。いきなり飛び出してきた野次馬を押しとどめようと、男の一人が腕を広げるが、僕はその横をすり抜けて、担架の元へ駆け寄った。
間違いない。その人物は彼だった。僕が冒険者ギルドのポーターに就いていたときに何度か派遣されたことがある、有力冒険者パーティーのリーダー。剣士でもあり火炎魔道士でもある、仲間からの信頼が厚い冒険者。駆け寄った僕は、思わず彼の手を取ろうとしたが、そこに両腕は無かった。
【主な登場人物】
・カリーニャ:17歳のエルフの少女。四体の精霊を友人に持つ。酒場と宿屋を営む育ての父親のもとで楽しく暮らしていたが、自分を見初めた領主の息子から逃げるために、伝説の地「エルフの隠れ里」に向けて、ノエルとともに旅に出る。旅の当初はノエルさえ信用できなかったが、今では心を開き、ノエルに対してふざけてばかりいる。
・マーサ・ツンベルグス:巨人の戦闘部族イフィーの女剣士。22歳という若さでありながら、帝国軍では二等騎士(中佐相当)の階級である。小柄なノエルから見て、腕一本分程度の身長差があるほどの巨体。鍛えられた全身、長い足、小さな頭と完璧なスタイルであるにもかかわらず、その大柄な容姿を醜いものと信じ込んでいる。博識ではあるが、一般常識の解釈に難がある。




