時間切れの先の時間切れ
そいつは、時間切れの先にいるんだね、と言った。その考え方は面白いと思った。終わりの先にいる。そして、彼はその時間を、日常的に過ごしたいのだそうで、私はそれに付き合っている。
「平和だよね、東京。同じ地球のどこかで何があろうとも、僕から見渡せる数メートルが平和だと、そんなのがまるで嘘みたいだ。そう思わないかい?」
新宿東口の人混みを眺めながら、彼はため息をついた。ぎゅうぎゅう詰めになっている人たちは、それでも、どこか楽しそうではある。私は静かに返事をする。
「大きな話になるけどね、地球を平和にっていうだろ。その相手、対象は、おそらく平和な国の人たちで、だから実感がわかなくて、見渡せる範囲にそれを写し出す、あの、ほら、映像が流れるやつ」
「テレビ?」
「そうそれ、それを開発したんだろうって、私は思うわけ」
私の考えに対し、彼は変な人だなあと笑った。
「面白いアイディアだ、嫌いじゃない」
「そりゃどうも」
「あ、見て、告白をしているみたいだよ」
彼は無邪気に走り出す。アホか。そう思いつつ、まあ、ついていく。
「ねえ、その鎌邪魔じゃないの?」
「どうせ人には触れずに行けるから、邪魔じゃない。仕事道具だ」
「それで僕、斬られるの?」
「これはとっておきなんだよ。お前には使わない」
「ふーん……少し残念かも。さ、到着到着」
下世話。男女のカップルのほぼ真横に立つ。人に見えないからこそできる芸当だ。男性も女性もうつむいたまま、なにも言わない。しばらくして、えっと、と男性側が言う。男性側の告白は、その後三分ほど、焦らして焦らして、ようやく出た「好きなんだ」の言葉で締め括られた。女性の返事は早く、私も、の一言。わあ、とその瞬間、そいつは手を叩いて喜んだ。ばれるわけはないと知っていても、うるさくてひやひやする。
「幸せだねえ」
しみじみと、彼は言う。先程のカップルが、手があと数センチで届くその距離で、歩いていくのを見送りながら。
「幸せっていいねえ。いやさあ、私が幸せだ、僕今幸せ! って思うこと、少なくない?」
人の告白を横目で見たと思ったら、直後にまた、哲学的なはなし。
「幸せは、あとになってから気がついたり、人のものだと敏感にわかったりするもんだな」
「だよねえ、もったいないことだよねえ。だからこそ、さっきのはよかった」
「……いいのか」
皆まで言わなかった。だとしても、馬鹿な質問をしたと思う。これで、やっぱりとごねられたら。自分の仕事を増やす私、お人好し。それでも彼は、いいや、と首をふった。
「親しい人には会わないことにした。迷ったけどね、寂しいもん。そのかわり、最後にこの、よく見ていた景色を眺めるんだ。何でもない平和な日常の風景。いい景色。どんな絶景にも敵わないよ」
「……悪かった」
私がしゅんとすると、はは、と天使のように彼は笑った。
「いい人だね。もっと極悪な人だと思ってたよ、君たち……その、迎えに来てくれる、真っ黒で、鎌を持った人たちっていうのは」
出会って早々、全身黒色で染めた私を見た彼は死神だと驚いたが、私はその名前で呼ばれるのが嫌だと言ったら、なんだかまわりくどい言い方をしてくれた。
「無くしてからその存在に気がつくってよく言うだろ」
哲学的なはなしが、またもスタートする。雑踏のなか、それでも彼の声はよく聞こえる。
「そうだね」
小さい私の声も、おそらく彼にしっかりと届いているはずだ。
「よく言う、ってことはよく知っている、はずなのに、やっぱり無くしてから、僕は、その存在に気がつくんだよ。気がついたんだ。いろんな人の存在も、平和な幸せも……まあ、まさか、生きていることが幸せなんだって、そんなことを無くしてから知るとは思っていなかったけど。予想外の時間だよ、今のこの時間」
彼は、さて、と一人で微笑んだ。私は天を見上げた。薄暗い空に、飛行機雲がうっすらと浮かんでいる。
「行くか」
「うん。時間切れの先の、時間切れが来たんだ。もう、十分だ」
誰が見たって、彼の表情はそんなこと言っていなかった。
「嘘つきは嫌いだ」
「ばれたか――そりゃ、もうちょっといたいさ、でも、そうすると、ずるずる、ひっぱっちゃうからね」
「私が迎えに来る奴、みんながみんなお前だったらいいなって思うよ。この世に未練がって、無理難題を言う奴が本当に多いんだ」
なんでそういったことが口を出たのかはわからなかった。
彼は微笑んだまま、なにも言わない。
私も黙って、そっと彼の手をとった。
その瞬間、彼は消えた。
私の仕事は、終わり。
新宿の真ん中で、私はふう、と目を閉じた。
時間切れの先で、彼が少しでも楽しめたのならいいと思った。吐いたため息は、彼のいない世界へ、先の彼のように、音もなく消えていった。
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テーマ「時間切れ」




