頬をつたう海の味
海とはなんだ、と問われた。たくさん、水がある場所だと答えた。
「水がたくさんあるということは、あの池よりも多いということか?」
姫はそう言って、自分の庭にある池を指差す。あんなもんじゃない、と私が笑うと、姫は不満そうに眉根を寄せた。
「何倍じゃ、あの池、いくつぶんじゃ」
あの池が、いくつあっても足りないほど。船を、何日こいでも、何日こいでも、景色が変わらないほどに、一面の、水。
「前に進んでいないのではないのか?」
そこで、そうか、と思う。海を知らない姫は、波も知らない。
波は、海にある、流れだ。放っておくと、船は流れていく。
「ふむ、それが波か。きれいなのか?」
きれい、そして、こわい。船をのみこむこともあれば、船を運んでくれもする。
「味方でも敵でもない。いや、味方でも敵でもある。まさに、自然じゃの」
姫様はそういって、この間の台風で折れてしまった桜の木の枝に、手を伸ばす。
「だからこそ、美しいのじゃろう」
その通りです。この言葉は飲み込む。要らない返事はしないのだ。それが、私たちの距離感だ。
「魚も海からとれるときいたぞ。どれくらいじゃ」
海の大きさをいうくらいに、それは難しいことだった。場所によって、種類が違う。季節によっても違う。数も違う、大きさも違う。
「なんじゃ、海については分からないことばかりか。そなたは本当に、海を見たことがあるのか?」
姫は知らないのかもしれない。この世界には、言葉で説明できないことが、きっと、言葉で説明できることよりもたくさん、ある。
言おうか言うまいか迷ったが、それとなく伝えると、姫は愉快そうに笑った。無邪気な笑みは、しかし、少し不満そうだった。
「それくらい知っておるわ」
ばかにするなということか。素直に謝ると、まあよい、と姫は微笑んだ。
「それを知っておるから、人は様々な言葉を使い、様々な表現をするのじゃろ」
姫が何を言おうとしているのかわからず、静かに黙っていると、海についての質問はまだある、と姫は言った。
「この空よりも青いのか」
青の種類が違うと答えた。海の青は、どこか、暗い闇を、果てしないものをはらんでいる。
「海は、深いそうじゃな」
それはもう、果てがないほどに深い。らしい。私もよくは知らなかった。潜るのはあまり得意ではない。得意な友人が、そういっていたのだ。おそらく、果てはない、と。
「海が、見たいと思ったのじゃよ」
姫は、いつもにこにこと笑っているのに、たまにこうやって切なそうに笑う。それが、辛い。好きな人には、いつでも、心から楽しんで笑ってほしいのに。
「でも、見れない。私はここから、出ることができない」
だから私が旅に出ている、とは言わない。それもまた、わかりきっている、要らない返事だ。
「旅に出る方法は、書物と、そなたの話を聞く、それだけじゃ」
また、黙る。姫は、珍しくいいよどんでいた。だからの、つまりの、と。
「書物での、読んだのじゃよ。新しい言葉を覚えたのじゃ」
どんな? と訊くと、姫は頬を紅色に染めて、空に向かっていうのだ。
「海のように広い心を持つそなたが好きじゃ」
今度は私が頬を染める番だった。珍しい、まっすぐな、愛の言葉。
「海よりも深く、愛している」
白い手が、私の首にするりと巻き付く。口づけをすると、姫は泣いていた。どうしたのかと驚くと、緊張のあまり泣いてしまったとのことで、いとおしくてしかたがない。
その涙に口付けて、そういえば海もこんな味がすると、私はいった。
嘘だと目を丸くする彼女に、今度は海の水をおみやげにしようと、心に決めた。
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テーマ「海」




