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第110話

 1人になった牢獄。


 静かで湿った気配。


 こんな場所では、どんどん気が滅入ってゆく。


「…………」


 エレナによって外された両肩は治療されている。


 あえて痛みが残るように中途半端な状態で。


(全部、無駄だったのかな)


 ぽつりと。


 心が波立った。


 雨が降り落ちるように。


(ノアを説得するだけでも難しいと思っていたのに、よりにもよってノアの体をエレナが支配していただなんて)


 か細い希望を手繰り寄せているつもりだった。


 だけどそれさえも甘かった。


 希望なんてものは最初からなかった。


 これでは道化じゃないか。


 存在もしない幸せな未来を探してここまで来ただなんて。


「……もうどうにも、ならないじゃない」


 エレナ=イヴリスの心を動かす言葉なんて、私には分からない。


 どんなルートの先でも、彼女が悪意を手放すことはなかったから。


 直接対面した今でも、その印象は変わらない。


 むしろ画面越しにしか知らなかった昔よりも、彼女を変えることの困難さが分かってしまう。


「ごめん……」


 諦観に心が侵食されてゆく。


 口から漏れる謝罪の言葉。


 これは敗北宣言だ。


 もうどうにもできない。


 私には明るい未来を掴むことができなかった。


 それを認めてしまう言葉だ。


「ごめんなさい……リュート」


 ここにいない彼へと謝る。


 心がヒビわれてゆく。


 心が折れてゆく。


 リュートたちが死んでゆくのを待つまでもない。


 すでに私の心は壊れ――




「――生きているか?」




 声が聞こえた。


 地下牢。その格子の向こう側。


 そこに立っていた男性が、私へと声をかけてきたのだ。


「あなたは……!」


 黒髪に仏頂面。


 その姿を、私は知っていた。


「……ロイ?」


 そこにいたのはロイだった。


 彼はどこか憂いのある表情を浮かべている。


 渓谷でのやり取りから、少しは彼から向けられる嫌悪は薄らいでいるだろうと思っていた。


 だが、まさかこんな表情を浮かべているとは。


 まるでその目は同情でもしているようで、


「…………助けに来た」


「え?」


 ぽつりと告げられた言葉。


 思わず聞き返してしまう。


 そればぼそぼそと小声だったからだけじゃない。


 その内容が、あまりに信じがたいものだったから。


「ここから出してやると言っているんだ」


 彼は私に憎悪を向けていた。


 だからこそ、以前の彼が口にした不干渉という譲歩さえ破格だと感じていた。


 まさか、彼が私を助けようとするだなんて思わなかったのだ。


「ど……どうして」


「昨晩、ユリウスたちの会話を聞いた。とっさに隠れたおかげで誰も気づいていなかったようだがな」


「え……?」


 ロイは密偵のような仕事も行っている。


 だからこそ、あの場にいた誰も彼の気配を察知できなかったのだろう。


 私も彼が近くにいるだなんて思いもしていなかった。


 しかし、あの会話を聞いていたということは――


「……ノアの体を操っているのが、あの魔女なんだな?」


「…………」


 ロイはすべてを知ってしまったわけだ。


 ノアの意識が失われてしまっていることを。


 彼女の体を動かしているのはエレナであることを。


「どうりで、お前が魔女らしくないわけだ。中身が別人だったとはな」


 そして、私がエレナでないことを。


 すべて知ってしまったのだ。


「……ごめんなさい」


 思わず口にした謝罪。


 いたたまれない気持ちで胸が痛い。


「お前のせいじゃない。謝るべきは、見る目がなかった俺のほうだ」


 彼は鉄格子を掴む。


 ギリギリと鉄が鳴る。


 握力だけで格子がひしゃげてしまいそうだ。


 あの手に込められた力は、彼が抱いている自責の怒りなのだろう。


「お前に責のないことでお前を苦しめた。本当に済まなかった」


 血を吐くように。


 彼は謝意を口にした。


 噛みしめられた彼の歯がぎりぎりと音を鳴らす。


「だからこれは、俺なりの罪滅ぼしだ」


 時間がないのだろう。


 彼は邪念を払うように首を振ると、懐から鍵を取り出した。


 彼は手早く牢屋を開放した。


「ノアを操っているのがあの魔女だとしたら、もう説得は不可能だ」


 ロイは私へと歩み寄ると、両腕を縛っていた枷を外してゆく。


 彼に支えられるようにして、私はようやく地面に足をつけることができた。


 人心地つけたことで大きく息を吐く。


 とはいえゆっくりとはしていられない。


「ここを逃げて、普通の人間として生きていけ。それがお前のためだ」


 ロイはそう語りかけてくる。


 もはや戦争を止めることは不可能なのだと。


 だからせめて私自身が生きることのできる選択をするようにと。


 そう伝えてくる。


「ロイは……」


 どうするのか。


 そう続けることはできなかった。


 すべてを知ったとして。


 仕えるべき相手が、憎い敵だったとして。


 だけどその肉体は愛しい人のもので。


 どう生きるべきか。


 そんなことを問いかけるのは残酷なことだと分かるから。


「業腹だが、あの魔女に仕え続ける。正体に気付いていることを隠して、な」


 ロイは表情をゆがめる。


 エレナへの嫌悪を浮かべている。


 同時に、それでも捨てられないノアへの想いとの板挟み。


 それが彼を苦しめていた。


「あいにくと俺には、ノアを取り戻す手段なんて分からない」


 魂についてある程度の知識があるユリウスでさえ分からないのだ。


 門外漢であるロイには手の打ちようもないだろう。


「だがあの体がノアのものであるのなら守るしかない。いつか、ノアを取り返せる瞬間が来た時のために」


 だからこれは先延ばし。


 心のどこかで不可能かもしれないと思いながら。


 それでもいつか、いつかと。


 そう信じながら、ゆっくりと絶望に浸ってゆく未来を生きるという悲痛な決意だ。


「俺はこれから、あの魔女と共に魔王を殺しに行く」


 宣言通り、エレナはこれから魔族領へと襲撃をかけるつもりらしい。


 そこにロイが同行するというのも必然だろう。


「…………もし」


 私は言葉を絞り出す。


 壊れかけた心をつなぎとめるために。


 不可能に近い未来だとしても、尋ねずにはいられなかった。


「もしノアを取り戻す手段を見つけられたのなら……私の味方になってくれますか?」


 まだ、その手段に心当たりはない。


 だけどその難題を越えられたのなら。


 信じても良いのか。


 未来に希望があるのだと。


 そんな意図を込めた問い。


 それにロイは、




「――命に代えてでも」




 静かに、そしてはっきりと答えた。


「もし本当にそんな手段があるというのならな」

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