第49話 どうしてあの頃に戻れないの?
二階に上がって、企画展示のスペースを回る。
楽しくない。木で作られた置物とか、ガラス細工とか、別に普通。光がはしゃぐのがわからない。色付きのねじれガラスがあるからって、何? って感じ。
腕を組んでるとたまに視線を感じる。男の目だ、うざい。女の笑い声も、うざい。きもい、ムカつく、うっとおしい、あっちいけ、お前らを見に来たんじゃない。床を叩く足音も、背景で流れてる主張しませんよって主張してる音楽も、聞いてるだけで頭が痛くなってくる。
「稜月ちゃんはどんなのが好き?」
光に聞かれる。知らない、わかんない、好きなものなんてない。
「別に」
「そっか。わたしはねえ、さっきの丸いやつ、あれかわいかったよねえ」
「そんなのあったっけ」
「あったよぉ。もしかして、あんまり興味なかった?」
「ううん、光が楽しいならなんでもいいよ。来たかったんでしょ?」
「うん、稜月ちゃんとね」
「ひ、光らしくないこと、言わないで。いこっ」
繋いだ手に力が入って、なめくじのように指先がうねった。
さらに階を上がると、併設されている図書館がある。洒落ぶった広いスペースに、膨大な蔵書数、学習用の机も大量に設置されている。村にあるのとは大違いだ。
光は足を止めて、図書館を眺めていた。
「わはぁ、凄いねぇ。これからはこっちで勉強しよっかなあ」
「もう勉強なんていらないでしょ、ていうか何時間かけるつもり?」
「あはは、そうだった。そっかぁ、もうあそこには行かなくていいんだね」
強烈な夏の日差しと、耳鳴りのような蝉の鳴き声。勉強道具の詰まったトートバッグを肩にかけてアスファルトを歩いてくる、汗塗れの光。私を見つけると一瞬だけ苦しそうに顔を歪めて、すぐに弱々しい笑顔になる光。なんで今日もいるのー、なんて言いながら、だんだん明るい声になっていく光。わざと遅れていくだけでゲロをぶちまけちゃう、私の光。
あそこを卒業して、私なんかいらなくなって、学校になんて通うようになったら、光はもう。
「あの頃はいっぱい迷惑かけちゃったよね。恥ずかしいこともたくさんあったし」
やめて、あの頃はなんて、あの頃なんて、思い出みたいに、なんでそんなふうに言うの。
「そう、私、光のために必死だった。寂しくないようにしなきゃって思ってた。あそこだったからよかったの、こんな場所じゃ、光を支えてあげられなかった」
「稜月ちゃん……うん、ずっと感謝してる。どれほど口で言っても、伝えられないくらいに」
胸が苦しい。息が早くなってる。繋いでない方の手がグーになる。
「今の光からは伝わってこないよ、全然、全然、ちっとも」
沈黙。十秒以上も、なにもない時間が続く。顔は下を向いていて、光がどんな表情をしているのかわからなかった。
ふと、光のつぶやきが聞こえてきた。
「もう、甘えてるだけのわたしには、戻りたくないから」
すぅっと息を吸う音が聞こえた。
「けどね、こういうふうに思えるようになったのは、絶対稜月ちゃんのおかげなの。それは、忘れないよ」
「私のせいだなんて……」
手を離して、歩き出す。置き去りにした光が追いかけてくるまで、少しだけ間があった。
噛み合わせた奥歯が鳴き続けていて、その場のなによりもうるさかった。
美術館を抜け出したら、次はなんか店がたくさん入ってる商業施設でお買い物。光は私なんて無視して一人ではしゃいでる。
おっきな声を出して、ずっと笑顔で、わざとらしく明るい。
血で塗られた地獄の道を歩いてる。鬼と亡者が光を狙ってる。閻魔大王は槌を構えて私を潰そうとしている。足の感覚がない、腕の感覚がない、目の感覚がない、手のひらだけがある。ずっとある。でもたまになくなる。「お花摘みに行ってくる……なんちゃって」とか言って目の前から光が消える。トイレって言えよ、ばか。
光が戻って来る。手を握る。歩き出す。どこかに入る。洋服店、たぶん。
「見てこれ、超かわいー!」
かわいくない。
「稜月ちゃんに似合いそう、ちょっと着てみない?」
着ない、似合わない。なぜか試着室にいる。下着だけになって、売り物の服を着る。
「そ、それ、プレゼントする!」
光が鼻息を荒くしてる。鏡を見る。白っぽい、フリルのたくさんついた服。お人形遊びでもしてるつもりなの。
また下着だけになって、床に放りだしていた元の服を着た。試着室を出ると、光が自分と服を重ねている。
「ね、ねえねえ、似合う、かな?」
「似合うんじゃないの」
似合わない。知らない。いちいち聞いてくるな。顔を赤くするな。安物のTシャツをなんか着てるのが一番似合うのに。そんな服いらない、必要ない。
「じゃあ、これにするっ。あ、そっちのも一緒にレジ通しちゃうね」
床に放っておいた服を拾って、光はレジへと走っていった。視界が揺れる。頭がごわごわする。双眼鏡を覗いているみたいに、周りが暗い。
ただ一点だけを見ている。なにも見ていない。光が帰ってくる。また歩き出す。気づけば次の店。
「わたしもね、リュックかなーって思ってるの。稜月ちゃんとちょっぴりおそろい」
「そう、いいんじゃない」
「じゃこれにする。あ、おそろいのアクセとか付けよっか」
光は、小ぶりのリュックを間抜け面で掲げていた。なんでそんなに嬉しそうなんだよ、リュックなんかに。アクセってなに、アホみたいにじゃらじゃらさせるつもりなの。その辺歩いてる奴らみたいじゃん。
光はリュックを大事そうに抱えて、また私の元を離れていく。みぞおちあたりが痛んで、お腹の中で爛れたなにかがぐるぐる動き回っていた。




