1話
大陸最大を誇るヴァルハイト帝国の東端、南北に四千メートル級の峻険なシュヴァルツ山脈が連なるその先には、見渡す限りのエレミヤ平原が広がっている。
帝都からの鉄道は未だ敷設の途上にあり、現在の終着駅でカールックック駅から500kmの泥道を突き進んだ最果てに、第百一独立大隊が駐屯する国境警備の砦があった。
外套を濡らす夜霧を払うように、特務大尉レオは愛用の煙草『黒土』にマッチで火をつけた。
紫煙が、緑の上衣と白いズボンで構成された帝国軍服の胸元へ白く這い寄る。肩に配された四角い階級章には、赤色と青2本線に そして叩き上げの証である「緑色の羽の紋章」が三本、静かに闇に浮かんでいた。特務大尉――農奴という最下層の身分から、十歳で少年兵のゲリラ部隊に志願し、二十五人中わずか4人しか生き残らなかった地獄の第一期を生き抜いた証が、その肩の緑色だった。
「中隊長、またそんなに吸われて。ベアリ軍医大尉に見つかったら、また小一時間は説教ですよ」
呆れたような、しかし深い信頼の滲む声がした。第三中隊の副官、クラリス中尉である。中級貴族の令嬢でありながら、二十四歳という若さで前線に身を置き、何より農奴出身のレオを「戦場の師」として心から尊敬している変わり種だ。彼女の装備する貴族好みの五連発リボルバー『J26』が、腰の革ベルトの横で鈍く光っている。
「ベアトリクスは今、第五中隊の主計や食事班の帳簿にかじりついてるさ。あの学者肌がここへ上がってくるには、あと一本は余裕がある」
「そういう問題ではありませんが……まあ、今のうちに報告を。軍議の時間が近づいています。大隊長がお呼びです」
「ああ、行こう」
レオは吸殻を真鍮の携帯灰皿に押し込み、歩兵銃が並ぶ『マウザーA98』の並ぶ平時兵舎を後にした。
大隊本部の作戦室には、既に各中隊の面々が顔を揃えていた。
部屋の中央、大きな作戦机を挟んで、上座に座るのは大隊長のヴェロニカ中佐。下級貴族出身の三十四歳。貴族特有の嫌味が一切ない厳格な軍人で、その冷徹なまでの美貌は軍内に知れ渡っている。その隣には、商人出身で温厚な眼鏡の男、大隊副官のユーグ少佐が控えていた。
「皆、揃ったな」
エレナ中佐の硬質な声が室内に響く。
「現在の国境線は平穏だ。東の皇本立憲王国銀、南の植民地共和国エルディア、そしてガルバ朝。いずれも外交的な牽制に終始しており、大規模な軍事行動の兆候はない。しかし、我が帝国の鉄道建設が東の軍港都市オストハフェンに向けて進んでいる以上、奴らが焦りを見せるのは時間の問題だ。各中隊、警戒を怠るな」
「フン……平穏、ですか」
鼻で笑ったのは、第二中隊長のレオポルト大尉だった。上級貴族の名家出身である二十五歳の若者は、自らの赤と青の鮮やかな階級章を誇示するように胸を張る。その視線は、明らかにレオへ向けられていた。
「外交の綱引きなど、我ら本物の貴族が優雅に処理すべき案件。そもそも、泥をすすって生き延びただけの特務士官がのうのうと中隊長を張っていること自体、この国境警備隊の格を落としているとは思われませんか、大隊長?」
作戦室の空気が凍りつく。レトポルトの副官であるロッテ中尉(中級貴族出身)は、正規の階級意識が強いものの、あまりのレオポルトの物言いにバツが悪そうな顔をして視線を落とした。
一方で、第一中隊長で職人出身のマルタ大尉(二十六歳の生真面目な女性)がレオポルトをキッと睨みつける。その背後では、レオの少年兵時代の一期後輩であるヒルダ特務中尉が、いつでもマウザーの銃床で殴りかかれるよう拳を握りしめていた。
「レオポルト大尉」
ヴェロニカ中佐の冷徹な一言が、レオポルトの言葉を断ち切った。
「貴公の第二中隊が、第三中隊以上の戦果を一度でも挙げたことがあったか? 戦場において測るべきは血統ではなく、流した血の量だ。以後、軍議の席での不必要な私言は軍法会議の対象とする」
「……失礼いたしました」
レオポルトは忌々しげに席に深く座り直した。レオはといえば、そんな貴族の嫌がらせなど十歳の頃から耳にタコができるほど聞いてきたため、表情一つ変えずに実用主義の十連発自動拳銃『マウザーA98』のホルスターに手を置いていた。
「では、次の議題だ。ユーグ少佐、補給の件を」
「はい」温厚なユーグ少佐が眼鏡を押し上げる。「第五中隊のヘレーネ軍医大尉とレフ主計中尉からの報告によれば、現在、炭鉱都市ヴァルツおよび鉄鉱都市アイゼンからの物資輸送が、山脈の泥濘によって少々遅れております。ですが、平原の穀倉地帯から届く小麦と、エーゼル湖の汽水魚の備蓄は十分です。そこで本日の夕食ですが――」
「本日のメニューは、エレミヤ平原産小麦の黒パン、エーゼル湖のマスと根菜の香草蒸し、それからズルファーの硫黄鉱山帰りの輸送隊が持ち込んでくれた塩蔵肉のシチューだ!」
第五中隊の副官、レフ主計中尉が調理場の大きな鍋を前に、商人出身らしい威勢のいい声で皿を配っていた。
第四中隊長のカール大尉が、職人気質の無骨な手で受け取る。
「おいおいレオ、今日のシチューはいつもより随分と濃厚じゃないか。何か良いことでもあったか?」
「ははは、ヴェロニカ中佐が働きかかけてくださったですよ。」
隣に座った第一中隊副官のヒルダ特務中尉が、親しげに肘でつつく。自由農民出身の彼女とは、過酷な少年兵時代を共に潜り抜けた、数少ない「生き残り」だ。
「ああ、お前たちの分もある。クラリス、お前も飲むか?」
「はい! 中隊長が淹れてくださる珈琲は、どんな高級店のものより落ち着きます」
クラリスが嬉しそうに微笑む。その様子を、食堂の隅で一人、十一・三ミリのノブリンM12自動拳銃をいじりながら見ていた第四中隊副官のエリアス中尉(商人出身の知的な青年)が、呆れたように、しかし温かく微笑みながら見守っていた。




