早乙女さんは帰りたくない
「うそ……」
ミオさんの右手から、お箸がぽろりと落ちて軽い音を立てた。
「俺がそんなつまらない嘘をつくと思いますか」
俺の肯定にミオさんの目から光が消え、メイクを落とした目尻が小さく光る。
「なんで、なんでそんなこと言うの?」
「ミオさん……」
到底受け入れられないという表情で天を、否、天井の蛍光灯を仰ぐと、ミオさんは泣きそうな顔で尋ねた。
「わたしのこと、お家で待っててくれるって言ったのに……」
「それは」
その問いに、俺は。
まあ、普通に答えた。
「いや、お盆なんですから帰省くらいしますって。なんで世界の終わりみたいな顔してるんですか」
「うぅ、お盆なんて百万年に一度でいいのに……」
「百万年」
「ご先祖さまも百万年ぶんまとめて来たほうがにぎやかでいいと思う。忍者とか平安貴族にも会えるかもだし」
「ネアンデルタール人とか混じりますけど仲良くできますかね?※」
ミオさんが地球がヤバイとでも言いたげな顔で絶望したのは、なんのことはない。
俺が里帰りの相談をしたからだ。
時は八月の頭。土屋や村崎との海旅行も無事に終わった、平和な夕食時の会話である。
「でもお盆だからって一週間も、一週間も……」
「相談が遅くなったのはすみません。ミオさんに合わせてのお盆休みだから言うまでもないことかと……」
「わかってたよ、わたしもわかってたの。でも、まだ先のことだしと思って……!」
「夏休みの宿題が終わらない子の思考じゃないですか。今年はちゃんと計画的にやってますか?」
「もう宿題ないもん。……え、ないよね?」
この会話、前にもした気がする。
話が脱線したが要するに、だ。去年はろくにできなかった帰省をするつもりの俺と、その間をひとりで過ごすミオさんのせめぎ合いが話の本題である。
「ミオさんは帰省の予定は無いんですか? なんといってもすぐそこですし」
ミオさんの地元は神奈川県だ。
先月に訪れたミオさんの幼馴染、渡瀬未華子の実家に近いとすれば電車で二時間もかからない。
なんなら週末ごとに帰省できるくらいの距離感だが。
「すぐそこだからね、帰らないんだよ」
「理解しました」
正直言うと、俺も県内で下宿していた学生時代よりも、上京した今の方が帰省する気にあふれている。
人間というやつは本当に非合理な生き物だ。
「いつでも帰れると帰らないよねー」
「逆に、ですよね。典型的な『失ってはじめて気づく』系の考え方なんですけど」
「それに、それにね?」
「はい?」
「親戚一同から『いい人いないの?』って言われる……」
「おのれ血縁者の同調圧力」
「なんで、なんでおじさんもおばさんも従姉妹もみんな順番におんなじこと訊くの……なんで……」
「さて俺が帰省から戻ったら何しましょうか海は行きましたし山ですかね高尾山か筑波山でも登りますか」
この手の話題は俺も他人事じゃない。俺もいつ「孫の顔が見たい」と言われることか。
それに俺の場合、孫とは言わずとも嫁くらいは見せてやらないと、それこそ一生後悔するのが分かりきっている。
それを思うと帰省のたびにちょっと気が重い。
「そうだね山いいよね。空気がおいしいのいいよねー」
「真面目な話、一泊二日でゆるい感じのキャンプってのもアリかと。どんな山がいいとかあります? 山はいっぱいありますからね、多少厳しい条件でもどっかしら引っかかりますよ」
俺がミオさんの落としたお箸を洗いに行っている間に、ミオさんは『んー』とどこともなく見上げながら考えて。
「普通の週末くらいじゃ行けない特別感があって、暑くなくて、蚊もマムシもゲジゲジもいなくて、人が多すぎも少なすぎもしなくて、あとお仕事で会った人に話したら盛り上がれる山がいい」
思ったより厳しいのが来た。
いうほど登山に詳しいわけでもない俺の知識では、その条件に当てはまる山はひとつしかない。
「……エベレスト、ですかね」
「人、少なくないの?」
「ヒラリーステップには順番待ちの行列ができることもあるらしいですよ」
「へー」
エベレストの有名な難所で、左右が二千メートル以上の断崖絶壁だからひとりずつしか通れないとネットで見た。
たしか酷暑の中を伸びるタピオカミルクティーの行列を見て、
『世界一命がけの行列ってなんだろう』
と気になって調べた時だったか。他にはバチカンのクリスマスとかコミッ◯マーケットとか出てきた記憶がある。
「ネパールまで行くならパスポートの期限を確認しないとですね」
「でも、ちょっと遠いかなー」
「じゃあもう少し身近な山にしましょう」
ともあれ、これで夏休み後半の計画がざっくり決まった。
クーラーの効いた部屋でスマホいじってたら終わるバケーションにはならずにすみそうだ。
「でも松友さんが帰ってくるまではひとり……おうちでひとり……。ご飯もひとりで映画もひとりでウノもひとり……」
ウノはひとりじゃできないと思いますよミオさん。
「ひとりでもできることはいっぱいありますよ。たまには一人旅とかもどうです?」
「行けば楽しいと思う」
「ですよね」
「でも、いざ休みが来たらたぶん行かない……」
「ですよね……」
「クーラーの効いた部屋でスマホいじってたら終わっちゃう……」
「ですよねー……」
この感じ。
たぶん、去年までは本当にそうやって終わっていたのだろう。社会人生活六年中、六年すべてそうだったまである。
「もう、松友さんといっしょに福岡いきたい……。ラーメン食べて野球観てめ◯べい買って帰ってきたい……」
「あ、じゃあ行きます?」
「えっ」
その翌週の金曜日、夏休み初日。
「一週間の予定ですけど、洗濯できますから服は少なめでいいですよ。念のため、下着だけ日数分を持っていきましょう」
「えっ、あっ、下着は自分で詰めるね」
その翌朝、東京駅。
「もう指定席はとれませんでしたが、どうせなら隣で座りたいですよね。始発駅の東京で自由席を狙いましょう。あ、ミオさんは穴子寿司と深川めし、どっちがいいですか?」
「えっ、えっ、どっちも好き……」
「じゃあ両方買ってはんぶんこしましょうか。店員さん、お箸は三膳ください」
のぞみ号を二本スルーして自由席列の前の方に並び、二列側で隣同士を確保。駅弁を食べたり車内Wi-Fiを拾ってスマホで映画を見たりしながら揺られること五時間。
「この完成した博多駅のサイズ感にどうも慣れないんですよねー。平べったかった頃のイメージが強くて。ああ、そっちは筑紫口ですよミオさん」
「えっ、えっ、えっ」
「バスセンターは博多口です。名物の大屋根も見れますしこっちがオススメです」
「あばばばばば」
白いタイル床と充実した駅ビルが特徴の、ここがのぞみ号の下り方面終着駅。
俺たちふたりは、西日本第二の都市にして九州の玄関口、福岡市は博多駅に降り立った。
「なんで……?」
(※注 ネアンデルタール人が現生人類の直接の祖先かについては諸説あります)
2章開始です。
まずは松友さんの地元・福岡へ。『修羅の国といえば手土産はグレネード編』です。





