早乙女さんにオカエリナサイ
本日2回目の更新。早乙女ミオ視点です
「ひさびさに、ちょっと疲れたかな……」
私をのせたエレベーターの扉が開き、見慣れたマンションの廊下が現れると自然とため息が漏れた。
やっと、終わった。
数量を調整して、スケジュールを調整して、人員を調整して。私が培ってきたスキルもコネクションも最大限使って、どうにか事態を収拾することができた。
再発防止策まで組み込んだから、もう同じ失敗はない。両社ともこの取引で満足の行くリターンを得られるだろう。
それだけのことをやり遂げて、帰る足取りは鉛のように重い。
「帰ったら松友さんに報告して、土屋さんと村崎さんに謝ってそれで……。それだけ、か」
それで終わり。
本当に、終わり。
「怒るかな。怒ってくれるかな」
土屋さんに、村崎さん。
松友さんを通して二人と知り合ってからまだ間もないけれど、とても優しい人たちだということは分かっているつもりだ。
だから私が謝れば、きっと許すと言ってくれる。
それが、怖い。
口でそう言っていても、きっと心の中にはいくらかの怒りと恨みがある。そんなマイナスがだんだんと積み重なって、いつか私に降りかかる日がやってくる。
私に四年も付き合ってくれたみかちゃんだって、ああして離れていったのだから。
だったらなるべく早く、確実に、自分から距離をおく。それが私の責任であり正解だろう。私はそれだけのことをしたし、弁解するつもりもない。
ずれたものが元に戻る、それだけのこと。
「あ……」
そんなことを考えながら歩くうちに自分の六○三号室前にいた。ひとつ向こうには、家主を私の部屋にとられた六○五号室が静まり返っている。
“ピンポーン”
インターホンを鳴らすと、中から鍵を開けた音がする。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと覗き込むようにドアを開く。この行動に意味があるわけじゃない。ただ長年ひとりで過ごした記憶は、中に誰もいないのでは、という不安をどうしようもなくかき立ててくる。
「……松友さん?」
いない。
鍵が開いたのだからいないはずはないのに、玄関には人の気配がない。
代わりにまっ白いキツネのぬいぐるみが、出迎えるようにフローリングの廊下にチョコンと座らされていた。
「なんでふぶきがここ、に……」
違う。
ふぶきじゃ、ふーちゃんじゃない。
「でも、そんなはずが、そんな」
靴を脱ぎ捨て、ぬいぐるみを手に取った。
形がある。
重さがある。
幻じゃ、ない。
「『さおとめ みお』……」
同じ型の製品か、というごく当たり前の考えすら、背中に書かれた自分の名前を前にして霧散した。まちがいなく五歳の私が見よう見まねで書いた字だ。
そんなわけがない。でも、それ以外ありえない。
「あーちゃん、なの……?」
感触を確かめるように握りしめて、お腹の中に硬い感触があることに気づく。
あーちゃんは喋るぬいぐるみだ。忘れるはずもないそのことを、今改めて思い出す。
「そ、そうだ。ボタンがたしか、この辺に……」
ボタンの位置を指で探りながら、ふと、昔なにかで読んだことを思い出した。
出会いがあれば必ず別れがある。そして別れた人物のことを、人はだんだんと忘れていく。
顔。
性格。
くせ。
におい。
これらの記憶は時とともに失われてゆき、やがて完全に色褪せてしまう。
ただその中にも先に消えるもの、後に消えるものの順序があって。
ある研究者によると、人はまず『声』を忘れるらしい。
そこまで思い出したところで、私はようやく見つけたボタンをぐ、と押し込んだ。
「『オカエリナサイ!』」
「あ……」
擦り切れていた記憶が、色を取り戻した。
声。
この声。
あーちゃんの、声だ。
「ああ、ぁ」
溢れてくる。
五歳で出会って、十歳で別れるまでの五年間の記憶がとめどなく。
この子を失ってから、ひとりで泣いた夜の記憶が際限なく。
溢れて溢れて、止まらない。
「ああぁぁぁぁぁぁ……!!」
もう二度と離したくない。その想いのまま、私はあーちゃんを抱き締めた。
明日で、長かったこの騒動もひと区切り。
こんなシリアス展開は望まれていないんじゃないか、ゆかいな日常を期待してくれていた方を失望させているんじゃないか。そんな不安を抱えながらの一週間でした。
それでも、楽しい日常を続けるためにこそ二人にこの壁を越えてほしい。そう考えて『あーちゃん』の物語を書いています。
もう少しだけお付き合いいただけると幸いです。





