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早乙女さんは逃げない

「それを、なんで、そんな」


 ミオさんの手から落ちたレンゲが、下の麻婆豆腐にぶつかってぺしゃっ、と音を立てた。


「すみません、前の会社の人間と話しているうちに知ってしまいました」


「このことを、つちやさんと村崎さんは」


「まだ知らないはずです」


「そ、そっか」


 やはり。ふたりを気にしてのことだったか。


 ほんの少しだけ安心したような顔をして、ミオさんはまたすぐに俯いた。


「土屋はむしろ、自分のところの社長が周りに迷惑をかけたことに憤っています。村崎も同じでしょう」


「そう、なんだ」


「ええ、ミオさんの会社を恨んでいる様子は特にありません」


「そっか、そうなんだ。そっか」


「はい、なんなら、俺からそれとなく伝えて反応を見ても……」


「それはやめて!!」


 がたっ、と木の椅子を鳴らしてミオさんが立ち上がった。


 初めて会ったあの日に似た、怯えた目がこちらを見ている。


「ミオさん……」


「全部が終わったら、片付けたら、ちゃんとけじめを付けてから自分で言うから。ちゃんと謝るから。今は絶対に伝えないで」


「分かりました。ミオさんがそう言うのなら俺からは何も言いません」


 はっきりと伝える。ここを曖昧にするのは絶対によくない。それが先延ばしに過ぎないとしても、きっと必要なことだから。


 頷いたミオさんは椅子に座り直し、まっすぐ俺を見つめながら、続ける。


「調整作業も、実はもう七割がた終わってるの。それに先方の担当部署の部長さんとはこんな状況でも映画を貸し借りできるくらい親密な関係を、それこそ何年もかけて築いてきてる。


 絶対に、うまくいく」


「例の部長さんってその会社の……」


 だから観れもしないホラー映画を必死に観ていたのか。とても太い、でも絶対に切れてはいけない糸が切れる可能性を一パーセントでも減らすために。


「今週中」


「今週中に終わる、と?」


「次の週明け、月曜までには片がつく。これは嘘でも願望でもなくて、マーケターの早乙女ミオとしての見解。だから……」


「分かっています。それが済んだら土屋たちに電話しましょう。その時は俺も側にいます」


「うん、私も松友さんにはそうして欲しい。松友さんだけは、いつも通りでいて。お願い」


「……分かりました」


 これはただの俺の直感で、でもきっと間違いのない未来の予想。


 このままじゃ結果は変わらない。全部が丸く収まって電話すれば、土屋たちはきっと許すだろう。でもミオさんはきっとそれを受け入れられない。心を貝のように閉ざして、またこの部屋でひとり生きていくようになる。


 そんな予感がする。






「そもそも、なんでミオさんはあんなことに……」


 疲れたから、と早めに寝室へ向かったミオさんを見送り、俺は食器を洗いながら思案を巡らす。


 安っぽい言い方だけど、ミオさんは美人だ。頭も切れるし服や髪型のセンスもいい。お箸の使い方ひとつを見ても、きちんとした教育を受けたことが伺える立派な女性だと思う。


「そんな人が、どうして仕事って形でしか人間を信頼できなくなったか、か」


 たぶん、今回の件の顛末を変える鍵はそこにある。


 だがそんな昔のこと、ほんの一ヶ月前に知り合った俺には知りようがない。


「……ふぅ。終わり、と」


 食器を洗い終え、棚に並べてシンクの水気を拭く。細かい違いだが、毎日きちんと処理することで後々のサビや水垢の量が変わってくる。


「ミオさんはもう寝付いたかな。もう遅いし、何か考えるにしても明日か……」


 寝室の前まで行き、ドアに耳を澄ます。寝息が聞こえれば帰ろうと思ってのことだったが、聞こえてきたのはミオさんの声。


「たすけて……」


 おそらくは、寝言。誰に向けての言葉なのか、職場の同僚か、家族か、あるいは俺だったりするのか。


 その答えはすぐに出た。


「あーちゃん……」


「また、あーちゃんか」


 風邪を引いた時、ミオさんはしきりに『あーちゃん』を探していた。後日、朝モードのミオさんに確かめたところによれば、小さい頃に大事にしていたキツネのぬいぐるみらしい。


 小学校四年の秋に何かでなくしてしまった、と。


 この前見てしまった日記にも名前が出ていたと記憶している。


「……待てよ?」


 小学校四年の秋。


 それこそ二十年近く前の話だ。そんな小さい頃になくしたおもちゃのことを、年から季節までとっさに言えるものか?


 俺にも閃光戦隊チバシガサガーの人形をなくした思い出がある。海水浴だから夏なのは分かるが、何年生だったかと聞かれたらすぐには出てこない。


 ミオさんはそれを克明に記憶している。なのに、なくした理由は覚えていないと言う。


「そうか」


 確信はない。だが道筋は見えた。


「聞くしかない、か」






 翌朝。


「行ってきます」


「はい、いってらっしゃい」


 どこか緊張した面持ちのミオさんを見送った俺は、すぐにリビングの本棚へ手を伸ばした。


「すみません、ミオさん。先月の約束を破ります」


 こんなことをすればプライバシー侵害で訴えられたって文句は言えない。


 でも、ここで動かないと俺はきっと後悔する。


「カバーをかえた日記と、あとは……これだ」


 本棚とは別の棚から取り出したのは、卒業アルバム。ビニールコートの緑ケースに収まった群青色のハードカバーは、年数のためかほんの少し色あせて見える。


「あれは……あった。この西暦だと、うん。ミオさんは小学校四年の十月か。秋で間違いないな」


『あーちゃん、どこ。みかちゃん、なんで』


 痛々しさの滲む子供の字。その日付は十月二十四日となっている。


「あとは卒業アルバムで、と」


 ミオさんの小学校の卒業アルバムは俺のと同じく、その学年の一年生から六年生までの写真を順番に載せたものだった。それを一枚一枚、注意深く検分していく。


 七枚目の写真に来たところで、俺の目が止まった。


「……ミオさん、髪型以外はあんまり変わってないな」


 ひと目でそうと分かるおさげの女の子が、友達とお弁当の卵焼きを食べさせあっている写真を見つけることができた。一年生時の遠足らしい。


 そんなミオさんと卵焼きを交換しているのは、ちょっと気の弱そうなメガネの女の子だった。この時代の子供にしてはやや珍しく、アイロンで弄ったらしい髪型をしている。


「もしかしてこの子が」


 クラス写真へ戻り、顔写真があいうえお順に並ぶページを順にめくっていく。


 ミオさんのいた三組の次、六年四組に『渡瀬 未華子』の名前を見つけることができた。間違いない。


「これが『みかちゃん』か」


 同窓会の幹事を務めている人物が『みかちゃん』だとこれではっきりした。


「あとは、また行事写真を時系列順に見ていく、と」


 幸い、各年度で一枚はミオさんが写り込んでいる写真が見つかった。


 二年生。運動会の徒競走でみかちゃん五位、ミオさんビリでなぐさめあっている。


 三年生。農業体験で泥まみれの顔を笑いあっている。


 四年生。夏の臨海学校で拾った貝殻をお互いの頭につけて遊んでいる。


 五年生。


「……うん」


 ミオさんが、独りになった。


 見つけたのは遠足の写真。他のグループといっしょに見えなくもないくらいの、ぎりぎりの距離でシートを広げてひとりお弁当を食べている姿が背景に写っていた。


 六年生。小学校六年間でおそらく最大のイベント、修学旅行。


 ここでもミオさんは独りだった。


 いや、独りにさせられている。グループ行動なのに、明らかに独りだけ距離をとって歩いているのが写真からでも分かる。みかちゃんも同じグループにいるというのに。


 読み進めるうち、卒業アルバムの最後のページにたどり着く。


「……ここは、やめるか」


 寄せ書きに使われる白紙のページ。そこに何が書いてあるのか、何か書いてあるのか。


 それを見るのは、必要なことの領分すら越えている。そう判断して、俺はアルバムと日記を元の棚に戻した。


「次は……」


 問題はここからだ。


 郵便物のボックスから一枚の往復はがきを取り出す。そこに記載された番号にかけると、数回のコールの後に大人の女性の声がした。


『はい、もしもし』


 ぐ、と一度息を飲み、俺は声を絞り出す。


「もしもし、こちらは渡瀬未華子様のお電話で間違いありませんか」


『渡瀬は旧姓ですが、そうです』


「失礼ですが、早乙女ミオさんを覚えていらっしゃいますか」


 電話の向こうで、少しの動揺があったのを感じた。


『……ええ、小学校時代の幼馴染です』


「私、その早乙女ミオに雇われている者で松友と申します。ちょっと雇用主のことでお聞きしたいことがありまして」


『あの子、会社でも起こしたの。意外ね』


「まあ、色々と事情がありまして。それで、早乙女ミオの過去の交友関係、特に『あーちゃん』と呼ばれていた友人についてお聞きしたいんですが」


 ぬいぐるみについて聞きたい、というのは少々不審かと思い、あえて人間の友人と勘違いしている風を装ってみる。


 明らかに、電話の向こうの声に驚きと戸惑いが混ざる。そんな渡瀬未華子から出たのは、俺にとっても少し予想外の言葉だった。


『一度、会ってもらえませんか』

敵か味方か

次回、解決へ

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