第1話 冷血伯エレノア
北の窓硝子が、細く鳴った。
風だ。
ヴァルツェンの冬は、いつも音から来る。扉の隙間を探るような風の音。屋根の雪が軋む音。遠くの山から降りてくる、獣の息のような低い唸り。
王都レイグラードの冬は、こんな音を立てなかった。
白石の宮殿には厚い絨毯が敷かれ、暖炉には香木がくべられ、窓の外では楽師が祝祭の曲を奏でていた。寒さはあった。だが、あれは季節の飾りだった。
ここでは違う。
寒さは、命に関わる。
「女伯様」
扉の向こうから、オルドの声がした。
長く仕えている者の声は、急ぎの用件であっても乱れない。ただ、ほんのわずかに間が短い。火急ではない。だが、後回しにはできない。
「入って」
私がそう言うと、扉が静かに開いた。
オルド・ハインツは、いつものように背筋を伸ばして執務室へ入ってきた。年を重ねた家令の所作には無駄がない。雪を払った外套を脇に抱え、銀盆の上に封書を載せている。
封蝋には、王家の紋章。
白冠を戴く獅子。
その紋章を見た瞬間、指先から温度が引いた。
「王都より早馬でございます」
「……早馬?」
「はい。北街道はまだ閉じておりませんが、雪の状況次第では数日内に遅延が出るとの報せも添えられております」
「そう」
私は羽根ペンを置いた。
机の上には、冬備え台帳が開かれている。第三区穀倉の雪芋残量。北村の薪割り進捗。聖マルタ教会への乾燥豆の追加配分。西砦の巡回馬の飼葉。
どれも、王都の祝祭には関係がない。
けれど、ここではそれらの数字の方が、人の生死に近い。
私は封書を受け取った。
封蝋を割る音が、やけに大きく聞こえた。
中の紙は上質だった。王宮で使われる白羊皮紙。紙面には式典局の整った書式。文言は華やかで、礼を尽くしている。
アルベルト陛下の御代の始まり。
聖女リリアナ妃殿下との御成婚。
王国に満ちる祝福。
旧き忠臣たるヴァルツェン伯への期待。
目が、そこで止まった。
旧き忠臣。
私は声に出さず、その言葉をもう一度読んだ。
旧き。
そうか。
私はもう、古いのか。
「女伯様」
オルドが、ほんのわずかに眉を動かした。
「続けます」
私は紙面に視線を戻した。
献上目録。
冬葡萄酒、二十樽。
白銀狐毛皮、十枚。
献納金、例年祝賀基準の三倍。
指先が、紙の端を強く押さえた。
冬葡萄酒は今年、収量が少ない。秋の長雨で糖度が落ちた樽も多い。王都に二十樽を出せば、商人組合との契約分を削る必要がある。
白銀狐毛皮は、北村の防寒具に回す予定だった。十枚も抜けば、代替の羊毛布をどこからか調達しなければならない。
献納金は、橋梁補修費と競合する。南村へ続く橋は、春まで放置すれば崩れる。今冬のうちに仮補強だけでも入れなければ、雪解け水で流される可能性がある。
計算は、できる。
不可能ではない。
冬葡萄酒は王都向け上位樽を優先し、商人組合には来年分の契約優先権を付けて交渉する。毛皮は半数を献上し、残りは羊毛布と革裏地で代替する案を添える。献納金は満額を避け、北街道閉鎖と防衛費を理由に分納を申し入れる。
可能だ。
私は、いつもそうしてきた。
王太子殿下が救済を望まれれば、私は財源を探した。
教会が施療院の増設を願えば、薬草庫の拡充案に落とし込んだ。
聖女リリアナ様が民に手を差し伸べられれば、その善意が誰かに利用されないよう、人員と予算と責任者を確認した。
誰かが夢を語るたび、私は数字を書いた。
誰かが民のためと言うたび、私はその民が冬に食べる粥の量を数えた。
そして、冷たいと言われた。
民を愛せない女だと。
聖女を妬む女だと。
王太子殿下の自由を縛る女だと。
私は、それでも構わないと思っていた。
思おうとしていた。
王太子殿下がいつか王となられる日、国が崩れなければいい。聖女リリアナ様が本当に民を救うなら、その道具にされないよう守ればいい。私が嫌われることで回るのなら、それでいい。
そう、思っていたはずだった。
なのに。
目の前の紙には、アルベルト陛下と聖女リリアナ妃殿下の御成婚、とある。
王となられたアルベルト陛下。
その隣に立たれる、聖女リリアナ妃殿下。
私は、王の隣にいない。
王の前に立つ者でもない。
王の言葉を制度に変える者でも、聖女の周囲に集まる手を払いのける者でもない。
ただ、北西の寒冷地にいる一伯爵。
旧き忠臣。
過去の者。
「……女伯様、目録の内容は」
「確認したわ」
声は乱れなかった。
それだけは、身体が覚えている。
冷静に。短く。必要なことだけを言う。
感情は、仕事の邪魔になる。
「ユリスを呼んで。冬葡萄酒の在庫表、毛皮の配分表、橋梁補修費の試算、商人組合との契約書をすべて持たせなさい。ガルドには北村の防寒具の不足見込みを。ミーナには聖マルタ教会の支出記録を」
「かしこまりました」
「王都への返書は本日中に草案を作る。満額は出さない。ただし、拒絶にも見せない。献上の意思は示し、実務上の制約を明記する。式典局は文面を読むでしょうが、財務局にも写しを回すよう仕向ける」
「……女伯様」
「何」
オルドは、そこで一度だけ目を伏せた。
「お休みになられてからでも、よろしいのではございませんか」
私は、少しだけ彼を見た。
休む。
その言葉は、どうも私には馴染まない。
王都にいた頃も、ヴァルツェンに来てからも、休むべき時に休んだ記憶があまりない。眠る前には未決裁の案件を思い出し、食事中には支出項目を数えた。
休むとは、仕事が終わった者のためにある言葉だ。
そして仕事は、終わらない。
「今処理しなければ、北街道が閉じる」
「はい」
「返書が遅れれば、王都は沈黙を反抗と読む」
「はい」
「反抗と読まれれば、追加監査が来る。監査官の到着は冬の半ばになる。雪中の接待、記録整理、移動護衛。すべて余計な負担になる」
「承知しております」
「ならば、休む理由はないわ」
オルドは何も言わなかった。
その沈黙が、少し痛かった。
彼は昔からそうだ。私を責めない。止めない。ただ、見ている。私が自分で自分を削るのを、礼儀正しく、痛ましそうに見ている。
そうさせているのは、私だ。
私は封書を畳み、机の右側へ置いた。
その隣には、先ほどまで書いていた私的業務記録がある。
日記ではない。
日記など、書く意味がない。
感情を残しても、飢えは減らない。悲しみを書いても、薪は増えない。だから私は記録する。何が起きたか。何を処理したか。何が未処理か。
私は新しい行を開いた。
王都より婚礼祝賀献上命令、到着。
冬葡萄酒、二十樽。
白銀狐毛皮、十枚。
献納金、例年祝賀基準の三倍。
式典局署名。王家紋章あり。
旧き忠臣たるヴァルツェン伯の誠意ある献上を期待する、との文言。
羽根ペンの先が、そこで止まった。
旧き忠臣。
私は、もう一度書きそうになった。
旧き忠臣。
書いて、何になる。
私は息を吸った。
胸の奥が、妙に冷たい。暖炉の火はある。執務室も、ヴァルツェンの基準で言えば十分に暖かい。だが、指先の感覚が鈍い。
疲れているのだろう。
そう判断した。
疲労は、判断材料の一つだ。無視すれば計算を誤る。ならば、認めればいい。私は疲れている。だから作業手順を細かく分け、確認者を増やす。ユリスに試算を出させ、オルドに文面を確認させ、ロイとの交渉には余地を残す。
それでよい。
感情ではない。
処理すべき状態だ。
そう思った瞬間、視界の端が白く揺れた。
「女伯様?」
オルドの声が遠い。
私は机に手をついた。倒れるわけにはいかない。まだ献上命令の処理が終わっていない。第三区穀倉の報告も、孤児院の薪も、北村の毛皮も、橋梁補修費も。
まだ。
まだ仕事がある。
私がしなければ。
誰も、嫌われる判断をしない。
誰も、止めない。
誰も、数字を見ない。
誰も――。
白い紙の上に、黒い文字が滲んだ。
アルベルト陛下。
聖女リリアナ妃殿下。
御成婚。
祝福。
祝福。
王都は、きっと美しいのだろう。
白石の宮殿に花が飾られ、聖ルミナ大聖堂の鐘が鳴り、王立劇場では愛の勝利が語られる。民は笑い、詩人は歌い、聖女は白百合のように微笑む。
その物語の中に、私はいない。
いてはならない。
冷血伯は、祝福の場にふさわしくない。
悪役は、幕が下りた後に出てきてはいけない。
「……問題、ない」
私はそう言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
オルドが駆け寄る気配がした。
椅子が床を擦る音。
羽根ペンが転がる音。
書きかけの記録に、インクが一滴落ちた。
黒い染みが、ゆっくり広がっていく。
私はそれを見ながら、なぜか、ヴァルツェンに来た日のことを思い出した。
城館の南倉の屋根は壊れていた。
中央穀倉には鼠害があった。
第二区の雪芋貯蔵庫は換気不良。
騎士団の冬季巡回表は三年前から更新されていなかった。
人員不足。
予算不足。
記録不足。
だが、ここには仕事があった。
ならば、問題ない。
そう思った。
あの時は、本当にそう思ったのだ。
王都を追われても、婚約を破棄されても、冷血伯と呼ばれても、まだ仕事があるなら立っていられる。
ここには守るものがある。
冬を越させなければならない領民がいる。
私を恐れながらも、命令を待つ家臣がいる。
だから問題ない。
問題ないはずだった。
では、なぜ。
なぜ私は、こんなにも空っぽなのだろう。
「女伯様!」
オルドの声が、今度こそ乱れた。
珍しいこともあるものだ、と思った。
それを最後に、身体の感覚が消えた。
暗闇ではなかった。
私は、扉の前にいた。
いいえ、違う。
扉の内側にいた。
そこは寝室だった。ヴァルツェン城館の私室に似ている。けれど、王都の屋敷の窓も、グランディール侯爵家の壁紙も、王宮で使っていた机も、少しずつ混ざっている。
カーテンは閉ざされていた。
暖炉の火は消えかけていた。
寝台のそばには、未処理の書類が積まれている。
机の上には、王家から届いた婚礼祝賀献上命令書。
私はそれを見て、ようやく理解した。
ここは、私の中だ。
そして私は、もう外へ出たくないのだ。
扉の向こうで、誰かが何かを言っている気がした。
遠い。
知らない声。
私は答えなかった。
寝台に腰を下ろし、膝の上で手を重ねる。
姿勢だけは、まだ崩れない。
それが少しおかしくて、少し、惨めだった。
外ではきっと、また仕事が始まる。
献上命令。
備蓄。
税。
薪。
領民。
王都。
祝福。
すべてが私を呼んでいる。
けれど私は、もう立てなかった。
冷血伯エレノア。
王都がそう呼んだ女。
ヴァルツェンが冬を越すために必要とした領主。
王の隣に立てなかった、旧き忠臣。
そのどれでもない私を、誰かが呼ぶことはない。
だから私は、目を閉じた。
せめて今だけは。
誰の命令も、誰の期待も、誰の祝福も届かない場所で。
私は、静かに息を止めるように、眠った。




