十二話
――起きなくちゃ。
どうやらすぐに意識は取り戻せた。
しかし、視界がぼやけてよく見えない。
くらくらする。
「――大丈夫ですか」
「――わかりますか」
救急隊の声に「大丈夫です」と返事を返さなければ――。
思うように動けない私の額に何かが触れた気がする。
救急隊の人?
いや……これは……筆?
『肉体に戻ったらここでの記憶は蓋をさせて頂きます』
店主の言葉を思い出した。
ダメ。
まだ何も。
お礼も。
言ってない。
ちゃんと言わなきゃ。
やめて。
ちゃんと言葉にするから。
待って。
『あなたは言葉と向き合える人です。向き合おうとする人です。ですが、――』
『どうぞ、ご自愛ください。』
店主の声だけが優しく響く――。
目を開けていられない。閉じてしまう――。
目が覚めたとき〝白〟の中にいた。
どことなく見覚えのある白い景色。
――病院?
「気が付かれましたか? 病院ですよ。今、先生を呼んで来ますから。もう少し横になっていてくださいね――」
看護婦さんのはっきりした言葉が状況を理解させた。
駅で――倒れたんだ――私――。
間もなく、看護婦さんが先生を連れて戻った。
「ご気分はいかがですか? 痛みや不快な所はありませんか?」
「いえ……どこも……大丈夫です」
美容院のシャンプーの受け答えみたいに、反射的に答えてしまった。
少し胸の辺りに苦しさを感じる。でも、多分何ともない。頭がもやもやする。でも、何ともない。
「ご自分のお名前、わかりますか?」
「はい……大丈夫です」
「以前にも今日と同じように意識を失くしたり、突然倒れてしまうなんてことはありましたか?」
「いえ、ないと……思います」
「持病や何かお飲みになっている薬はありますか?」
「いえ、持病も常用してる薬もないです」
「そうですか……二度、意識を失くされているようなので、念のため少し検査しましょう」
二度? 先生の言葉が気になったが、頭が働かず、そうなのか、と納得した。
「準備ができ次第またお声掛けしますね。こちらに着替えてお待ちください」
先生のあとに看護婦さんが付け足すと、カーテンを閉め、またどこかへ行ってしまった。
看護婦さんから渡された薄青色。検査服に着替えよう。
胸が苦しい。
すっきりしない。
聞こえたんだ。
あのとき。
――『ご自愛ください。』――
自分を大切に……
誰に言われたかはわからない。ただ、その言葉が胸を締め付ける。
夢、だったのだろうか。わからない。
これとは別に何か、夢を見ていた気がする。――でも、何も思い出せない。
あるのは、ちょっとしたキーワード。後味の残る感情。
いつも通り、夢のように記憶は遠くなる。
そんないつもの日常だ。
あっ……私の荷物。
財布に保険証、入ってたっけ……。
スマホは……あ、面接……どうしよ……。
面接に向かう途中だったことを思い出すと途端にいろいろなしなければいけないことが巡り出す。
スマホを見るのがとても怖い。見たくない。
連絡……どうしよ。
思い出したくない記憶ばかりがどんどん鮮明になっていく。感情は憂鬱さとこれからのことに移り変わっていった。
――と、着替えの途中でストッキングを履いていないことに気づく。
あれ? 今まで履き忘れたことなんてないのに。
ストキングは上着のポケットから丸まった状態で発見された。ストッキングに絡まり一緒に取り出された見覚えのない飴の小袋。
私、いつ飴なんて入れたんだろう。全く記憶になかった。
ストッキングは――履き忘れて持ったまま出かけたんだけ?
ありえそうな理由をとりあえずあてがった。
「お待たせしました。開けても大丈夫ですか?」
思考を止め急いで準備を再開させる。
「あっ、ちょっと、待ってください……だ、大丈夫です!」
「検査の準備ができたのでこちらへどうぞ」
看護婦さんが車椅子を用意してくれていた。
「あの、私、歩けます」
「遠慮しないで。滅多に乗れませんよ?」
少し決め顔の看護婦さんが続ける。
「私、ペーパードライバーですけどこっちはゴールドなので、乗り心地は保証しますよ」
車椅子での自損も人身もやめてほしい、と突っ込みを押し殺した。
オーバーに身振りを交える看護婦さん。明るく溌剌とした声が心地いい。全身で表してくれたその冗談や言葉に緊張が少しほぐれた。
「ふふっ、じゃあお願いします」
久しぶりに笑った気がした。
「どちらまでお送りしましょうか?」
「ええぇ……私が決めるんですかぁ」
「じゃあ、採血とレントゲン、どちらを先にします?」
「痛くない方で……」
「じゃあ先に採血しちゃいましょう!!!」
看護婦さんは不敵な笑みと注射のポーズをみせた。
ひどい人だ。
「嫌なものほど、後回しじゃなくて先に、ってね」
耳元で小さく。
「まだ機材の準備ができてないのは内緒ですよ?」
嘘つき。
検査は思いの外早く済んだ。病院は圧迫感を感じるから苦手、いつも時間が長く感じるんだ。弱り目に待ちの苦痛もある。でも今日は違う。陽気な看護婦さんのお蔭かもしれない。
病室に戻って少し待っていると先生がやってきた。
「検査の結果が出ました。――どれも異常はないんですが、ヘモグロビンの数値がだいぶ低いですね。貧血でしょう。無理なダイエットなどされていませんか? 食事はちゃんと摂られてますか?」
「ダイエットはしてないんですけど、最近ちょっと胃が痛くて、それに食欲もあまり……」
「胃ですか、カメラやりますか?」
「いや、大丈夫です」
下手に何か言おうものなら全身を検査をされてしまいそうだ。
「食べたくなくても、ちゃんと食べなきゃダメですよ。今はゼリーや食べやすい補助食なんかもいろいろありますからね。では、点滴しましょうね」
また、針の時間だ……。
検査のときとは打って変わって点滴は長く感じる。
まだ、半分……か。
やることもなく、ぽた、ぽた、と滴下する粒を見ていた。そのせいか、点滴の効果なのか、急に尿意をもよおしてきた。
主張する生理現象に体が上手く反応してくれない。左手の自由を奪われただけで全身が抑制されている気分。
体に針が刺さっていると思うとよけいに動けない。
針がズレれば何か大変なことになる、そう考えたら怖くて、ずっと動けないでいた。少しの間、硬直していただけなのに自分の体ではないみたいに力が入らない。感覚が曖昧になった痺れもあるようだ。
恐る恐る、確かめるように、固まった体をそおっと動かしベッドから離れる。
弱っているせいかとても心許無い気分。貧血のせいか体がふらつく。銀色の点滴の補助具が少し頼もしく感じた。
ガラガラと点滴を引きながら検査着で病院の廊下を歩いていると本当に何かの病気になった気にさえなってしまう。
廊下へ出て、トイレのマークを探す。トイレまでの距離がずっと遠い。
これは散歩どころの距離ではない。
もはや旅だ。
旅の途中、仲の良さそうな老夫婦とすれ違った。
旦那さんがパジャマ姿の奥さんを車椅子で押していて、私がそっと廊下を譲ると「ありがとうございます」と旦那さんと押される奥さんが返してくれた。
笑顔を向けられるとこちらまでほころんでしまう。少し、温かい。
今日はなんだか言葉が心地いい。
そうこうしているうちに旅の目的地であるトイレに到着した。
しかし、今まで頼もしかったはずの銀色の相棒が今度はとても煩わしい。
ケンカだ。
煩わしいからと言って離れることはできない。
ごめんね。いいよ。と、どこかで折り合いをつけるしかないのだ。
無口な相棒はなかなかの強情者。
私が大人にならなければならない。
それでも何度かケンカをして、最後は私からごめんねを言った。
相棒は癖のついた車輪をキュルと鳴らしたあと、また無言で従ってくれた。
少々手間取りながらも旅は終わりを迎えた。
帰路に就こうとしたとき、先ほどの夫婦の旦那さんが今度は一人で歩いていた。
どこか寂しそうな顔が気になって、無意識に目で追っていたら目が合ってしまう。
軽く会釈をすると私の方へ寄ってきて「ご病気ですか?」と声をかけてくれた。
「い、いえ、貧血で倒れたみたいで――」
突然の会話に言葉の用意が間に合わなかった、挙動不審気味に何とか言葉を振り絞る。
「お、奥さんのお見舞いですか?」
珈琲の香りのする人だ。
「はい、検査入院をしてまして。どこも、何ともないといいんですが――」
そう言う旦那さんの表情は心当たりを気にするように少し陰った。
返す言葉に困ってしまう。こういうとき、なんて言葉にすればいいのだろうか。元気付けたい、でも医者でもない、親族でもない、他人が安易に口にできる言葉なんてない。こんなとき何を――。
「ご自愛ください」
自然と口をついた、私が使い慣れない言葉。
自分でも驚いた。
旦那さんは一度目を丸くしてから笑顔で「お気遣いありがとうございます」と返してくれた。
「あなたも、お大事にしてください」
そう言って旦那さんと別れた。
別れた後、そうだ。〝お大事に〟そう言えばよかった。と、適切な回答が思い浮かんだ。
聞き慣れた言葉、こういう場面での常套句。「奥さん、何事もないといいですね。お大事に」そう、言えばよかったのだ。その場に沿った言葉だ。
でも、私はあのとき旦那さんの表情が気になって、旦那さんを特定して言葉を向けた。
自分の発言に私が一番驚いている。
点滴が終わる頃には外はすっかり夕日に暮れていた。
三割負担とはいえ、なかなかの痛手を負いながら家路に就く。
一人暮らしにはもちろん迎えに来てくれる人などいない。
無職にはタクシーなど、リムジンに等しい天上の乗り物は目には入らない。
点滴のお蔭か、ふらつきは取れていた。なんだか元気になった気さえする。
さぁ、帰ろう。




