年上彼女とチョコと俺
裕斗目線の話
高校一年生の時、単発バイトに応募した友人に、予定が入ってしまったから代わってくれと頼まれて、一回だけのつもりでデパートの中にあるチョコレート屋でバイトをした。
甘いものは嫌いだから、チョコレート屋と聞いて、げ、と思わないでも無かったけれど、購買の焼きそばパンに釣られて承諾してしまったのだ。
デパートの中にあるチョコレートの専門店なんて、お客さんも店員も女の人ばっかりで、俺は軽い気持ちで代打を引き受けたことを少し後悔した。それでも数時間の辛抱だからと淡々と仕事をこなしていた時、彼女が現れた。
俺より年上であろう彼女は、ピンクのカーディガンと白のフレアスカートを身に纏っていた。スカートからすらりと伸びた足が白くて綺麗で、俺はなんとなく彼女を目で追ってしまった。
彼女は迷い無くショーウィンドウの前までやってくると、そこに並ぶチョコレートを見回して、幸せそうに口元を綻ばせた。大きな瞳が、きらきらと輝き出す。
──思えばあの瞬間にはもう、俺は恋に落ちていたのだろう。
【 年上彼女とチョコと俺 】
その日も彼女は、大きな瞳をきらきらと輝かせながら、チョコレートを選んでいた。箱詰めされたチョコの並ぶディスプレイの前を、うろうろと行ったり来たりしている。いつも買っている十二粒入りのアソートと、今週出たばかりの新商品とで悩んでいるみたいだ。そんなに悩んで、どうせどっちも買うくせに。
そんなことを思いながらじっと様子を見つめていたら、彼女はぱっと顔を上げた。
「"ルル・ナーシュ"と、"ティロ"と"フレーゼ"、ください」
ほら、やっぱりどっちも買うんだ。っていうか、五粒入りのストロベリーチョコまで増えてるし。俺は零れそうになった笑みを堪えつつ、彼女に背を向けて後ろの棚からチョコを取り出す。チョコを持って表に向き直ると、彼女は鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な様子で、かばんから財布を取り出しているところだった。
なんでこの人、こんなに可愛いんだろうか。
彼女が取り出したのは、チョコレート色の小さな折り畳み財布だ。どんだけチョコレートが好きなんだか。
「合計三点で、二千五百円のお買い上げになります」
チョコを紙袋に詰め終え、そう声を掛けると、彼女は財布の中からいそいそと千円札と小銭を取り出した。にこにこしたまま、取り出したお金をトレイに置く。
「二千五百円、丁度頂戴致します。──お待たせ致しました。こちらレシートと、お品物になります」
チョコの入った紙袋を渡す。その一瞬、触れ合った指先にドキッとした。
「ありがとうございます」
彼女は紙袋を見つめたまま、ふわっと笑って、そのまま踵を返した。彼女の肩の上で、ゆるく内巻きにされた柔らかそうな髪が揺れる。
「ありがとうございました」
去っていく背中に頭を下げて、俺はこっそりとため息を吐いた。
いつも一人でやってきて、大量のチョコを買って帰る彼女。チョコレートを見つめるときの可愛い笑顔は、決して俺に向けられることは無い。
彼女は自分が店員にじっと見つめられていることにすら、きっと気付いていない。彼女の目に映っているのは、チョコレートだけなのだ。
俺がこんな思いを抱えていることになんて気付いていないどころか──下手をすれば、店員の顔すら覚えていないかもしれない。
彼女の瞳に映ることが出来たら。
あの愛らしい笑顔を向けられたら、どんなに幸せだろう。
なんだか女々しいけれど、俺はいつもそんなことを考えてしまうのだった。
いつもいつも、大量のチョコを買って帰る彼女。
あの大量のチョコは、一人で食べているのだろうか?
それとも誰か、一緒に食べる相手がいるのだろうか?
──たとえば、彼氏とか。
一度気にし始めると気になってたまらなくて、俺はあるとき、とうとう彼女に訊ねてしまった。「これ、いつも全部一人で食べているんですか?」と。
初めて彼女と言葉を交わしたその日、彼女の姿が見えなくなった瞬間、俺はチーフに頭を叩かれた。
「いたっ!」
後頭部を抑えつつ、振り返ってチーフを見上げる。
「ちょ、いきなりなにするんですか、チーフ!」
「山崎、あんたお客様にあんな失礼なこと言って!」
チーフは腰に手を当てて、呆れたような表情で俺を見下ろしていた。身長が170センチ以上あるチーフは、ヒールを履かなくとも、俺より少し背が高い。
「失礼なこと、ですか?」
見下ろされる威圧感に萎縮しつつそう返したら、チーフはわざとらしく嘆息した。
「年頃の女の子にこれだけの量のチョコ一人で食べるんですか、とか、そんなデリカシーの無いこと聞いたら駄目に決まってるでしょ!」
「え?」
デリカシーが、ない?
俺の彼女への問いかけは、デリカシーの無い発言だったんだろうか。
「あの子もう買いに来てくれなくなったらどうすんのよ、大事な常連様だっていうのに」
不満げなチーフの言葉に、俺はさあ、と血の気が引くのを感じた。
俺の不用意な発言のせいで、彼女がもう来なくなる?
それはつまり、チョコを見て幸せそうに笑うあの表情が、見られなくなるということだ。
彼女と俺の共通点なんて、この店にしかない。彼女がこの店に来なくなるということは、俺はもう二度と彼女に会えないということだ。
──そんなの、絶対に嫌だ!
「そ、そんな不吉なこと言わないで下さいよ。ちゃんとまた来てくれますよ!」
「そうだといいけどねえ……」
俺の願いも虚しく、チーフのその不吉な予言は当たってしまい、それ以来彼女はぴたりと店に来なくなった。
──彼女がチョコレートを買いに来なくなって、半年が経った。
これまでならどんなに間隔が開いても、一ヶ月も来ないことは無かったから、もしかしたら彼女はもう店に来る気は無いのかもしれない。
最初の頃はチーフやパートのおばさんたちに、あの子来なくなって残念だったね、なんてからかわれたものの、俺が真剣に落ち込んでいると気付いたのか、やがて誰も何も言わなくなった。
一度だけ、代打で入るはずだったこのお店でずっとバイトをしているのは、彼女に会えるからというただそれだけの理由だ。彼女が来ないのなら、わざわざチョコレート屋でバイトする意味なんかない。
そろそろバイトを辞めようか。
何度もそう思ったけれど、もしかしたらまた彼女がやってくるかもしれないという期待を捨てきれず、俺はずるずるとバイトを続けていた。
あの幸せそうな笑顔をもう半年も見ていないというのに、俺は彼女のことを忘れられずにいた。
だって、初めてだったから。
誰かの笑顔を見て、胸がきゅう、と切なく疼いたのも、あの笑顔を俺に向けて欲しい、と思ったのも。──誰かを好きだと、感じたことすらも。
そう簡単に諦められる訳がない。
だから結局俺はバイトを辞めることもできず、彼女を作ることも出来ず。
世間のカップルが幸せそうに過ごしているバレンタインの夜でさえ、寂しくバイトに勤しんでいた。
そんなバレンタインの夜もあっという間に終わりに近づき、さっきまで賑わっていた売り場には、気付けば俺とチーフしかいなくなっていた。
どうせ世の中のリア充たちはデートに忙しいんだろう。……ちぇ。
彼女ももしかしたら、どこかの男と二人仲良く、バレンタインチョコなんか食べているのかもしれない。
……うわあ。
やばい。本気で泣きそう。
ふ、と人が近づいてくる気配がした。時間が時間だから、きっと今日最後のお客さんになるだろう。
「いらっしゃいませ」
俺は反射的にそう口にしてから、何気なくお客さんの方へと目を遣って、小さく息を呑んだ。
──か、彼女だ!
胸の当たりまで伸びた髪には、緩やかなパーマが掛けられている。少し雰囲気が変わって見えるけれど、俺には彼女だとすぐに分かった。どこか硬い表情で売り場へとやってきた彼女は、ワゴンに積み重ねられた半額チョコの山を見るなり、瞳をぱっと輝かせた。
ああ、あの顔だ。
相変わらず、チョコを見たらああやって目を輝かせるんだなあ。
可愛い。
閉店が近いからなのか、彼女はじっくりとチョコを選ぶことはせずに、次々とカゴに放り込んでいく。それでもチョコを見つめる瞳はきらきらと輝いて見える。
やっぱり、可愛い。
彼女のあの輝く瞳を見ていると、胸がきゅっと切なくなる。
ぼんやりと彼女を見つめていた俺は、つんつんと腕を突かれて我に返った。はっと隣を見上げると、チーフがにっこりと笑って俺を見上げていた。
「良かったじゃん、また来てくれて」
「え、あ、……はい」
チーフも彼女に気付いていたのか。
唖然としていたら、大量のチョコをカゴに入れた彼女が、俺の方へと近寄って来た。
うわあ、どうしよう。こっちに来る!
「今日が本当に最後かもしれないんだから、ちゃんと謝って、名前くらい聞いときなさいよ」
チーフは俺の肩に軽いパンチを一発入れると、俺から離れていった。
彼女は俺の存在になど気づく様子も無く、どんどんと近付いてくる。
落ち着け、俺。落ち着け。
目の前の店員の口から心臓が飛び出しそうになっていることになど気付く由も無く、彼女はカウンターにカゴをドン、と置いた。
山と詰まれたチョコを見下ろす、幸せそうな表情。
多分、年上だと思うけど……なんでこんなに可愛いんだろう、この人。
思わずつられるように笑顔を浮かべてしまった、その瞬間。彼女ははっと顔を上げ、俺を見た。
目が合った、ということにどきっとしたその刹那、彼女の輝く笑みにヒビが入った。俺の顔を見て、彼女の表情が強張る。しまった、というような顔。すっと逸らされた瞳に、胸がズキリと痛んだ。
彼女が来なくなってからの半年間に、何度も考えた。
俺が一人で食べるのか、なんて聞いたりしなければ、彼女は今もチョコを買いに来てくれていたんだろうか、って。彼女がチョコを買いに来なくなったのは、俺の所為なのだろうか、って。
彼女がもし来てくれたら、失礼なことを言ったことを謝ろう。そう思っていた気持ちが、挫けそうになる。
彼女は明らかにそわそわした様子で、かばんから財布を取り出した。黒い瞳が落ち着き無く動いている。早く会計が終わればいい、と、そんな風に思っているかのような態度だ。
いや、思っているかのようではなく、実際にそう思っているのだろう。
半年前までだって、基本的に彼女はレジにいる俺と目を合わせようとはしなかった。でもそれは、はっきり言って俺に関心が無かったというだけだ。彼女の意識がチョコにしか向いていなかったという、それだけの理由。
だけど、今の彼女は明らかに俺を避けている。
どうしよう。
思っていた以上に、凹む。
もう何も言わずに、さっさとレジを終わらせてしまおうかと思った。けれど、ふっと逸らした視線が、こちらを見つめていたチーフのものと重なる。
少し離れた場所で紙袋の整理をしていたチーフは、口の動きだけで「頑張れ」と伝えてきた。
そうだ。
もしかしたら本当に、今日が最後のチャンスかもしれないのだ。
正直、彼女の名前なんて、とてもじゃないけど聞けそうに無い。
でもせめて、謝るくらいは。それくらいなら、できるはずだ。
俺は意を決して、唇を開いた。
「もう来てくれないかと思いました」
彼女がぎょっとしたように顔を上げる気配がした。俺はもう一度目を合わせる勇気が持てなくて、手元のチョコレートに目線を落として、続けた。
「半年前、あなたに話しかけた後、チーフに怒られたんです。お前にはデリカシーが無いって」
ぴ、ぴ、とチョコをスキャンする音が響く。
「不愉快な気持ちにさせるつもりはなかったんです。もし、いやな思いをさせてしまったのなら、ごめんなさい」
俺のあの質問が、彼女に嫌な思いをさせるかもしれないなんて、露ほども考えていなかった。
俺はただ、いつも大量に購入しているチョコを一緒に食べる相手がいるのかと、それを聞きたかっただけだ。彼女があの輝くような瞳を向ける相手が、チョコレート以外に存在しているのか、それを知りたかっただけなのだ。
「別に、気にしてないよ。──最近は、他のお店のチョコにはまってただけだから」
彼女は苦笑するように、そう口にした。久しぶりに彼女の声を聞くことが出来て、胸が温かくなったのもつかの間、俺ははっとして動きを止めた。
──”他の店のチョコに、はまっていた”?
「ほ、他のって、どこのチョコですか。うちよりもおいしいんですか?」
俺は思わず詰問するような口調でもって、そう問い掛けていた。
彼女はこの半年の間もずっと、俺の知らないところで、きらきらと輝く瞳でチョコを選んでいたのだろうか。ここの店のチョコではないチョコを、幸せそうな笑顔で選んでいたのだろうか。──その羨ましい店の店員は、彼女のそんな可愛らしい笑顔を見つめていたのだろうか。
なんだかそれを考えた瞬間、心の内側がざわざわするような、嫌な気持ちに襲われた。
俺と目が合った瞬間、彼女は戸惑ったような様子を見せたものの、すぐに煩わしそうに口を開いた。
「そんなこと、答える筋合いないと思うんだけど」
鬱陶しそうな声音に、俺のテンションが地面にめり込む勢いで急降下する。
……そりゃあ、そうだ。当たり前だよ。
俺はいちいち、こういう余計なことを言うから駄目なのか。
「す、すみません」
俺は慌てて彼女から目を逸らすと、チョコのスキャンを再開しだした。
どうしよう。
謝るはずだったのに──いや、一応謝ったけれど、このままでいいのだろうか。
あっという間に最後のチョコのスキャンが終わる。俺は金額を告げると、財布からお金を取り出している彼女を黙って見下ろした。
お金を取り出す彼女は無表情で、いつものような輝く笑顔はそこに無い。
今日はバレンタインデー。バレンタイン用のチョコが半額になる、特別な日だ。
こんな日だからこそ、彼女はこの店にやってきてくれたのだろう。
このままじゃ──もしかしたら、彼女はまた来てくれなくなるかもしれない。
今日が本当に最後かもしれないのだ。勇気が出ないだなんて、へたれたことを言っている場合じゃない。
彼女から代金を受け取った俺は、チョコの入った紙袋の取っ手を握り締め、ごくり、とつばを飲み込んだ。
言うんだ。
今、言ってしまえ。
なかなかチョコが渡されないことを不思議に思ったのか、彼女が顔を上げた。黒目がちな瞳が、不思議そうに俺を見上げている。
それだけで、鼓動が大きく跳ね上がる。
「あのー?」
彼女は怪訝そうにそう言った。
もう、今しかない。
俺は意を決して、口を開いた。
「──お、俺、あ、あなたのことが、好きです」
ぽかん、としたような表情を浮べた彼女は、次の瞬間、目玉が零れ落ちるのではないかと思う程に、瞳を大きく見開いた。
*
あと十分もすれば、上がりの時間だ。バイトを上がったら、あやちゃんとデートの約束がある。──そう、デートの約束だ。
デート。
うう、なんていい響きだろうか。
「ちょっと、山崎。さっきから何にやにやしてんのよ」
チーフの怪訝そうな声で、俺ははっと我に返った。いけないいけない、今はバイト中だった。
「いや、別に。……すみません」
慌てて表情を引き締める俺に、チーフがにじり寄ってくる。
「今日はまだ火曜でしょ? ルルちゃんが来ない日だっていうのに、なんでそんなに嬉しそうなわけ?」
ルルちゃん、というのは、この店におけるあやちゃんのあだ名だ。彼女が頻繁に買うチョコの詰め合わせの名前が"ルル・ナーシュ" だから、ルルちゃん。そのまんまだ。
チーフの言う通り、あやちゃんは火曜日にはチョコを買いに来ない。あやちゃんがチョコを買いに来るのは、たいてい週末の金曜日だ。
「とうとう諦めて、大学で彼女でも作っちゃったの?」
パートの片岡さんが、からかい混じりに口を挟んできた。
「なるほどね。講義が無い日のはずなのに、三時上がりなんておかしいと思ったのよね。デートなわけか」
俺と交代でシフトインする、大学院生の沢口さんまでもが、興味津々と言った様子で俺を見る。
「とうとうルルちゃんのこと、諦めたのかあ」
何故だか少しがっかりしたような口調だ。
デートというのは当たっているけれど、どうしてその相手があやちゃんじゃない前提なのだろうか。
「長かったなあ。高校二年からだから、もう五年目だっけ?」
「今時の男の子にしては、随分と一途だったねぇ。山崎くんはよく頑張ったよ」
片岡さんに、背中をばしばしと叩かれる。
俺は、「あやちゃんが好き」だなんてはっきりと口に出して言ったことはないのに、何故だかこの店の人はみんな、俺の気持ちを知っている。高二のとき告白現場を見ていたチーフはともかく、パートさんやバイトの先輩たちまで一人残らず俺の気持ちを知っているのだ。
沢口さんいわく、俺はすごく分かりやすいらしい。
「そっかー。で、彼女ってどんな子なの?」
こちらに歩いてきた沢口さんは、お客さんがいないのをいいことに、ぐっと顔を覗き込むようにして問い掛けてきた。
「いや、あの」
いつも思うけど、沢口さんは話の内容に興味があるときは、途端に相手との距離が近くなる。俺に限らずだから、癖なんだろうけど。
俺の彼女はあやちゃんだ! って自慢したいような気持ちと、からかわれたくないような気持ちがいっぺんに沸き起こって、俺は言葉に詰まる。
「え、本当にこの後デートなの? 本当にルルちゃんのこと、諦めちゃったんだ?」
何故だかチーフまでもが、少しがっかりした様子で問い掛けてきた。
「いや、デートはデートなんですけど……」
相手はそのルルちゃんだって、はっきり言ってしまおうか。
そう思った瞬間、近寄ってくる人影に気付いた。
やばい、雑談してる場合じゃない。お客さんだ。
「いらっしゃいませ」
咄嗟に姿勢を正した俺の目に映ったのは、どこかふてくされたような表情を浮かべた、あやちゃんの姿だった。
会社の都合で今日は終業が早いって言ってたから、もしかして、迎えに来てくれたのだろうか。
ぱっと顔を輝かせる俺とは対照的に、あやちゃんはどこか不機嫌そうだ。
──あれ。なんでだ。今日は記念すべき初デートの日だというのに、なんであんな、機嫌悪そうなんだ。
目が合った、と思ったのもつかの間、ふいと目を逸らされて、あやちゃんはチョコレートの並ぶディスプレイに目を向ける。
むっとしたような表情を浮かべていたあやちゃんは、チョコレートを見るなり、ぱっと目を輝かせた。
……ああ、やっぱり、可愛い。
この愛らしさは、四つも年上の女性とは到底思えない。
「"ルル・ナーシュ"、ひとつ下さい」
あやちゃんは俺の前をぷいと素通りすると、隣に立っていた片岡さんに向かって笑顔で言った。
「はい、ありがとうございます」
片岡さんはにっこりと笑って、後ろの棚から指定されたチョコレートの箱を取り出す。
今、思いっきり素通りして行ったよな。
……なんで俺に声を掛けてくれないんだろう。
にこにこと笑みを浮かべて会計を待っているあやちゃんを、恨みがましい目でじいっと見つめる。
と、視線を感じて反対隣を見ると、チーフと沢口さんが、なんとも言えない表情で俺を見上げていた。
どういう表情なんだろうか、これは。
「──お待たせ致しました。ありがとうございます」
そうこうしているうちに会計が終わり、あやちゃんは俺の方を見ないまま、ぷいと店を離れていく。
「ルルちゃんが火曜日に来てくれるなんて、珍しいね」
沢口さんの発言に被せるようにして、チーフは怪訝そうな声を上げた。
「あんた、何か嫌われるようなことしたの?」
「え?」
俺が、あやちゃんに嫌われるようなことをした!?
──もちろん、心当たりなんてない。
寧ろつい一週間前、ようやく両思いになって、あやちゃんに「私も好き」だと言ってもらったばかりだ。念願の両思いになって、たった一週間で嫌われるだなんてたまったもんじゃない。
「ふ、不吉なこと言わないで下さいよ、チーフ」
「でも今あの子、明らかにあんたのこと避けてったわよね」
あっさりとしたチーフの言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。
やっぱり気のせいじゃなかったのか。
でも、なんで?
彼女はてっきり俺を迎えに来てくれたのかと思ったんだけど、甘かったんだろうか。
「……ねえねえ、今のってもしかして、やきもちじゃない?」
暫く黙り込んで、去っていったあやちゃんの背中を見つめていた片岡さんが、ぽつりとそう口にした。
「え?」
俺たちは三人揃って疑問符を浮かべて、片岡さんに注目する。片岡さんはどこかわくわくした様子で言った。
「さっきね、ルルちゃんがこっちに近づいてくるとき、笑顔だったの。笑顔でちょっと小走りだったのに、山崎くんに気付いた瞬間、笑顔がふっと消えたのよ」
「それのどこがやきもちなんですか?」
不思議そうな声を上げた沢口さんに、片岡さんは呆れたように嘆息した。おもむろにこちらに歩いてくると、沢口さんにぐっと顔を近づける。
「何ですか」
驚いたように身を引こうとする沢口さんに、片岡さんはなんだか意味深に笑いかけた。
「さっき、澪ちゃんこうやって、山崎くんに顔近づけてたでしょ?」
「はあ、そうでしたっけ?」
沢口さんにはそんな自覚は無かったのだろう、覚えが無いといった様子で小首を傾げている。
まあ、確かにあんな風に顔を近づけられた覚えはある。
でもそれとやきもちって、一体何の関係があるんだろう? なおのこと疑問に思う俺とは対照的に、チーフはぱっと顔を輝かせた。
「ルルちゃんそれ見てたってこと!?」
「そうなのよ。ルルちゃん二人のこと見て、明らかに表情を変えてたの」
片岡さんの言葉に、沢口さんまでもが合点がいったというように、いきいきと顔を綻ばせた。
「うっそ、それって、やばい! やばいですよ!」
何がやばいのか、俺にはさっぱり分からない。だけど三人はもう十分通じ合ったようで、顔を寄せ合ってにやにやと俺を見上げている。
「一体、何なんですか」
こっちはあやちゃんに嫌われたんじゃないかだなんて言われて、気が気じゃないというのに、なんでこの三人はこんなに楽しそうなんだ。
「ああ、山崎。もう三時だし、上がっていいよ」
チーフはにやにやしたまま、俺の肩を叩いた。
三人がやたらとにやにやしている理由は気になったけれど、あやちゃんに嫌われたかもしれない俺はそれどころじゃない。挨拶もそこそこに、更衣室へと駆け出した。
あやちゃんは一体、何であんなに不機嫌そうにしていたのだろう。本当に嫌われてしまったのだとしたらどうしよう。なんだか不安になりながら、更衣室でスマホをチェックする。あやちゃんから一件のメッセージが入っていた。「自動販売機のところにいるね」とだけ、書いてある。
自動販売機のところって、一体どこだ?
そうは思いながらも、俺は素早く着替えて、従業員入り口からデパートを出た。
出口を出たところで、俺は小さく息を呑んだ。道路を隔てた向こう側に、自動販売機がある。その隣に、少し拗ねたような表情を浮かべたあやちゃんが立っていた。
自動販売機、って、ここのことか! 俺は慌てて道路を渡って、あやちゃんに駆け寄った。
「お待たせしてすみませ──……」
咄嗟にすみません、と言いそうになって、俺は慌てて口を噤む。違う違う。これからはもう敬語を使わないで欲しいと、あやちゃんに言われたのだった。
「ご──、ごめん、お待たせ!」
まだ口調に慣れなくて、ぎこちなくそう告げる。俯いて手元の辺りを見ていたあやちゃんが、ぱっと顔を上げた。近づいてくる俺を認めた瞬間、あやちゃんはふわりと嬉しそうに顔を綻ばせる。
「祐斗!」
──う、わあ。
なにこれ。可愛すぎるだろ。
「従業員入口まで来てくれたんだね。ありがとう」
「ううん、全然」
あやちゃんは頭を振る。なんだこの、普通のカップルみたいな会話。
──いや、違うな、それで正しいんだ。何もおかしくない。なんて言ったって、俺たちは恋人同士なのだ。
あ、やばい。頬が緩む。
なんだ、良かった。あやちゃん全然不機嫌じゃないや。
「あ、俺持つよ」
あやちゃんが提げていた紙袋に手を伸ばすと、彼女は慌てたようにいいよ、と腕を引く。俺は彼女の言葉を無視して、白い指先から紙袋をするりと取り上げた。
あやちゃんは俺を見上げて、はにかむように笑う。
だからさ、なんでそんなに可愛いの? 俺は内心で悶えながらも、あやちゃんのその様子にほっとして、思わず口を開いていた。
「さっき、なんで俺のとこ来てくれなかったの? 素通りして行っちゃったから、びっくりしたよ」
そう口にした瞬間、あやちゃんの表情が固まった。え、なんで。……やばい、もしかして俺また余計なことを言ったのか。
「……別に。祐斗は女の子と話してたから、邪魔しちゃ悪いかと思って」
あやちゃんは俺からすっと目を逸らすと、素っ気無い口調で言った。
女の子と話してた、って、女の子って誰のことだろう? 一瞬そう思ってから、沢口さんとチーフのことかと気付く。
「あれは、別に」
彼女が出来たのかとか何とか言って、からかわれていただけだ。
「俺にとって、あやちゃんが邪魔になることなんてあるわけないでしょ? 無視されて、結構ショックだったんだよ」
思わずそう口にしたら、あやちゃんは俺を見上げて、口をへの字に曲げた。
「だってすっごい仲良さそうにしてたから。至近距離で見つめ合ってさ。祐斗ったら、鼻の下伸ばしちゃって」
何のことか分からず、俺はぽかんとしてしまった。怒ったような表情も可愛いなあ、なんて馬鹿なことを考える。
「至近距離で見詰め合う? 誰と、誰が?」
浮かんだ疑問をそのまま口にしたら、あやちゃんは眉根をきゅっと寄せて、唇を尖らせるようにして言った。
「だから、あのロングへアの可愛い店員さんと! こうやって顔近づけて、なんか二人、見つめ合ってたじゃん!」
あやちゃんは背伸びして、顔をぐっと近づけてくる。あやちゃんの顔が、すぐ近くにある。それだけのことで、俺は頬に熱が集まるのを感じた。
可愛いかどうかは知らないが、チーフはショートカットだから、ロングヘアの店員というのは沢口さんのことだろう。
「別に俺、沢口さんと見つめ合ってなんてないけど……」
そう口にしてから、そういえばいつものようにぐっと顔を近づけられたっけ、と思い出す。
”──もしかして、やきもちじゃない?”
その瞬間、片岡さんの言葉を思い出した俺は、気が付いたらあやちゃんの手首をぎゅっと掴んでいた。
「な、なに?」
背伸びをやめて、俺から離れようとしていたあやちゃんが、戸惑ったように問い掛けてくる。
「あやちゃん、もしかしてそれって、……やきもち、なの?」
まさか、そんなわけがない。そうは思いながらも、期待に逸る心を抑えきれない。
もしも、もしもあやちゃんが俺にやきもちをやいてくれたというのなら。
「……ち、違うよっ。そういうのじゃなくて、ただの疑問!」
あやちゃんは慌てたようにそう言って、俺からふいと目を逸らした。だけど、さっきまで不機嫌そうな表情を浮かべていたあやちゃんの顔は、今やほのかに赤くなっている。
だからもう、やばいって。
なんでそんなに可愛いの。
「俺、沢口さんとは何にもないよ? 沢口さんは、誰にだってあんな距離で喋りかける人だから、気にしてなかっただけ。俺が好きなのは、あやちゃんだけだし」
そう言った瞬間、あやちゃんの頬が面白いほど赤く染まっていく。
あれ……。おかしいな。四年前はともかく、最近では俺がいくら好きだって言っても、いちいち赤くなったりなんてしてなかったのに。
「ゆ、祐斗はそうかもしれないけど、向こうはどうかわかんないよ……?」
それって、沢口さんが俺のことを好きかも知れないってことだろうか。そんなこと、あるわけがない。
「ないよ。絶対ない。あの人彼氏いるし、第一、俺があやちゃんのこと好きなの、ずっと前から知ってるし」
一瞬驚いたような表情を浮かべたあやちゃんは、けれどすぐに表情を歪ませた。なんだか、心細そうな顔。大丈夫だよ、って頭を撫で撫でしてあげたくなるような、頼りない表情。
「そうだとしても。……あんな近くで、見詰め合うことないじゃん」
ぽつりと零すように呟いて、俺から目を逸らして俯く。俺に告げるというよりは、独り言のように呟かれた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
だから、本当に。可愛すぎるってば。
俺の中の微かだった期待が、ぐんぐんと大きくなっていく。あやちゃんはどこか気まずそうな表情で、地面を見下ろしている。まだどこか夢のようだった両思いになったという現実が、実感を伴い始める。
あやちゃんが俺にやきもちを妬いてくれてる……?
ひそかに思い続けた一年間。ことあるごとに好きだ好きだと迫り続けた三年半。もう諦めよう、と接触を控えた半年間。それでもやっぱり好きで、もう一度気持ちを伝えた五年目の夏。何度断られても、振られることに慣れた訳じゃない。大好きな女の子の口から、「そういう対象として見れない」って言われるたび、やっぱり心は傷つく。
俺は一年ごとに年を重ねていく。だけどそれは、あやちゃんだって同じことだ。年の差は、永遠に埋まらない。
あやちゃんが、俺のことを弟のようにしか思えないのなら、その気持ちはもう変わることは無いのかもしれない。もし今度振られたら、今度こそバイトも辞めて、きっぱり諦めよう。あやちゃんだって四年も付きまとわれて、もういい加減、うんざりしているはずだ。
そう思って、最後だと決めて告白した一週間前の夜、あやちゃんは「私も好き」だと言ってくれた。
すぐには信じられなかった。
いつもとは違う表現だけど、弟のようには想っているという、断り文句なのだと思い込んだ。あの時、情けなくも泣きそうになっていた俺に、ぎゅっとしがみついて来たあやちゃんのぬくもりは、多分一生忘れない。
「──なんで、笑ってるの?」
怪訝そうな声に、はっと我に返る。さっきまで俯いていたあやちゃんは、何故だか困惑気味の瞳で俺を見上げていた。
「私、怒ってるんだけど……?」
「ごめんなさい。つい。……あやちゃんが俺のこと好きだって言ってくれたの、本当なんだなと思ったら、嬉しくて」
俺の言葉に、あやちゃんは心外だという風に眉根を寄せた。
「まだ信じてなかったの?」
「だって、俺もう四年も振られ続けてたんだよ。弟みたいにしか見えないってずっと言われてたし、まさかあやちゃんが俺のこと好きになってくれるなんて思わなかったから、なんか、実感が湧かなくて」
あやちゃんは一瞬驚いたように目を見開いてから、気まずげに伏せた。さっきまで上がっていた眉尻が、しゅんと下がっている。あやちゃんはなんだか申し訳なさそうな表情を浮べた。
「ごめんね」
「っ、何が?」
身についた悲しい習性か、あやちゃんに謝られるとびくっとしてしまう。いつもその後に続くのは「やっぱり祐斗くんのことは、そういう風には見れない」だったからだろう。
反射的に身構えてしまった俺に、あやちゃんはぽつりと言った。
「だから、その……。私が気付いてなかったから」
言い終えたあやちゃんは、ちら、と窺い見るように俺を見上げる。出会った頃には殆ど変わらなかった目線の高さは、今では随分と違う。ほんのり頬を赤くしたあやちゃんが、上目遣いで俺を見上げている。その威力は、相当なものだった。
「気付いてなかったって?」
可愛いなあなんて思いながら聞き返したら、あやちゃんはますます頬を赤くして、呟くように言った。
「祐斗のこと、好きだって……こと」
顔を真っ赤にしたあやちゃんが上目遣いに俺を見上げて、鈴の音みたいな声で俺を好きだという。それだけでもう天にも昇るような気持ちになって、俺は矢も盾もたまらず、あやちゃんを抱き締めた。
「え、ちょっ」
驚いたような声を上げたあやちゃんが、逃れようと身動ぎをする。でも俺は彼女の動きを封じ込めるように、背中に回した手にぎゅっと力を込めた。
「もうあやちゃん可愛すぎる! 大好き!」
「ちょっと祐斗っ、恥ずかしいからっ!誰か出て来たらどうするのっ」
慌てたように、あやちゃんがパシパシと俺の腕を叩いてくる。そんな反応すら可愛くて、俺はあやちゃんの頭に顎を乗せて、じんわりと幸せを噛み締めた。チラリと横目に後ろを振り返る。誰か出て来たらって、そんなタイミングよく従業員入口から出てくる人なんているわけがーー。
「えっ......?」
そこには、片岡さんがびっくりしたような顔で立っていた。そうだった。片岡さんはいつも三時上がりなんだった。自分が今日は早上がりにしてもらったことを、すっかり失念していた。
「も〜〜!」
俺にしか聞こえないくらいの小声でそう呟いたあやちゃんは、顔を真っ赤にしたまま、慌てたように俺のホールドから逃げ出す。
「えーっと、お疲れ様です......」
とりあえず頭を下げた俺と、そのすぐ斜め後ろにくっつくように立って恥ずかしそうに会釈したあやちゃんを、目をまん丸にした片岡さんが交互に見ている。それから片岡さんはにっこりと笑ったかと思うと、
「あらあらあらあら!」
と言って、何故か店内に引き返して行った。
その次の出勤日、俺がみんなから質問攻めにあったのは言うまでもない......。
ご無沙汰しております。すみません。生きております。