プロローグ前編①__『ペンタス』
忙しくしている読者さんも、暇潰しを探している読者さんも、この一冊を選んでくださった全ての読者さんへ少しばかりの幸せな休みを貴方に~✉︎
王都に春を告げる鐘が鳴り響く頃には、街を包んでいた冬の冷たい空気もすっかり和らいでいた。
朝の陽射しを浴びた石畳はやわらかな光を返し、店先では商人たちが忙しそうに商品を並べている。焼きたてのパンの香りが風に乗って流れ花屋の前を通れば、色とりどりの花が揺れるたびにほのかな甘い香りが鼻先を擽る。大通りを行き交う人々の足取りは軽く、子ども達は広場を駆け回りながら楽しそうな笑い声を響かせていた。
平和な朝だった。この国が幾度もの戦を越えてようやく手にした穏やかな日々は、こうして何気ない景色の中に息づいている。
だからこそ人々は”英雄”を忘れない。
「本当に辞めちまったらしいな」
「あのアルヴィン・クローフォードがだぞ」
「王様も止めきれなかったって話だ」
市場の片隅では、荷車を押す男たちが昨夜の酒場の話を続けていた。その名は誰もが当然のように口にするのに、その姿を正確に思い浮かべられる者は意外と少ない。英雄とはそういうものだった。語られるたびに形を変え、現実よりも少しだけ大きく、少しだけ遠い存在へと変わっていく。
アルヴィン・クローフォード。
王国最年少で騎士団長となり、幾度もの戦場を駆け抜けてきた男。その剣は国を守る象徴とされ、その判断は多くの命を救ってきた。
だが今、その男は戦場ではなく、王都の喧騒から少し離れた並木道を一人歩いている。風に揺れる黒い外套の裾は静かに流れ、仕立ての良い燕尾服には乱れ一つない、長い黒髪は低い位置で纏められ前髪が右目をわずかに隠している、そしてその隙間から覗く灰青の瞳は春の光を映してもなお静かで、ただ通り過ぎていく世界を淡々と見つめていた。
彼が歩くたび、人々は自然と道を空ける、振り返る者もいれば、ただ静かに頭を下げる者もいる。敬意とも、畏れとも違う、そこにあるのは積み重ねられた信頼の形だった。それでもアルヴィンは、それら全てを受け流すように歩き続ける。
止まらない、止まってしまえば思考が追いついてしまうからだった。
ふと、指先が無意識に襟元へ触れる、きっちりと閉じられた布の内側には人と蛇人族の血を引く証である細かな鱗が隠されている、それは誇りでもあり同時に過去でもあり、誰かに見せるためのものではなく、ただそこに在り続けるだけの記憶の形に過ぎない。
見られたことはほとんどない。見せたくないからではない、目にした瞬間必ず思い出してしまうからだった。鉄の冷たさ、床の硬さ、名前ではなく値札で呼ばれた日々と人として扱われなかった時間、それらは遠い過去になっても完全に消えることはなかった。ただ静かに沈み、今も尚彼の中に残り続けている。
そんな思考の底へ沈みかけた時、不意に視線の先で小さな影が足を止めた。
そこにいたのは両腕いっぱいに白い花を抱えた少女であり、息を弾ませながらもその瞳には迷いがなく、ただ真っ直ぐにこちらを見上げている、警戒でも計算でもなく、ただ世界をそのまま信じているようなまっさらな光だった。
「お兄さん、お花いりませんか?」
喧騒の中でも、その声だけがやけに澄んで届く。
アルヴィンは歩みを止めたまま、少女の腕の中の白い花へ視線を落とす。春の光を受けた花弁は薄く透けるように揺れ、まだ朝の空気をそのまま閉じ込めているようだった、その一輪一輪が確かに生きているように見える。
それを見た瞬間、胸の奥に小さな痛みのようなものが走る、理由は分からない、ただ、遠い記憶の輪郭だけが静かに揺れていた。アルヴィンはゆっくりと息を吐き、少女へ視線を戻す。
そのまま、ほんのわずかに膝を折った。――
読者の皆さんこんにちは、漣々です。本日こちらのネット小説『セラスの花束』をお手元に取って下さりありがとうございました。
長編物の妄想を文字にしたのはこちらの作品が初めてでして、作者本人とても緊張しております...。
コメントや感想には全て目を通す予定で、趣味で始めたこの一冊が皆さんの”好き”や”気になる”に触れていましたらこちらも嬉しい限りです。
これからもゆったりと更新をし続けていきますので、その際は再びお目に留めて頂けますと幸いです♥︎(ㅅ´ ˘ `)




