141 力と智慧と、そして心
登場人物紹介
エンメ 年代史家。姫神の歴史を常に書き綴っている。〈智慧〉と呼ばれる。
ズァ 〈百獣の蛮神〉の異名を持つ偉丈夫。〈力〉とも呼ばれる。
〈聖刻歴一万九〇二一年、刃の月(十一月頃)七日……〉
カリカリと小気味よい音を立てながら、淀みなく走らせていた羽根ペンをはたと止め、老人は固まった。
ここは東の緑砂大陸ほぼ中央に位置する砂漠の大国エスメラルダ。
その首都エンシェント・リーフの外れにひっそりとそびえる古き塔。
偉大なる年代史家エンメの住む塔であり、この老人こそまさしくエンメであった。
長き時を生き、世界のあらゆる事象をその千里眼で持って書に書き綴る。
決して本人は歴史に介入せず、決してどこにも属さない。
一部の者以外その存在すら謎に包まれた人物であった。
その謎多きエンメがペンを止めてから優に数十分が過ぎようとしていた。
窓ひとつない狭い部屋。
置かれた家具は木製の小さな文机と椅子が一脚、机上に置かれたこれまた小さなランプが一つのみである。
朝なのか、夜なのか。
時を告げるものとてないこの部屋は、そろそろ寒気を帯び始めたこの季節にふさわしく、ひんやりとしていた。
「エンメ様、お茶をお持ちしました」
小さなノックとともに湯気の立つティーカップをメイドが運んできた。
「どうかなさいまして?」
ピクリとも動かない老人の姿を認めて、少々歳のいったメイドは静かに声をかけた。
「なに? どうかしたの?」
続けて部屋にもう一人のメイドが入ってくる。
こちらは若く、みなぎる性の色香を隠そうともしない。
その若いメイドが動かないエンメの肩にそっと手を添える。
「エンメ様?」
「……うむ」
ようやくエンメは二人のメイドに対して向き直る。
「よかった生きてた」
「死んどらんわ。知っておろうが」
「まあね」
「何をお考えになっていたのですか」
年配のメイドがお茶を勧めながら問いただす。
「姫神のことじゃ。システムの準備は整った。いよいよ本格的に始まる」
「四〇〇年ぶり?」
「そのぐらいじゃな」
「今回はどうなると思うの?」
「うむ……」
若いメイドはエンメの膝の上に腰を下ろすと、胸元にしなだれかかりながら質問する。
「コホン」
年配のメイドがわざとらしく咳払いをするがどこ吹く風だ。
エンメも気にした風もなく話を続ける。
「黒姫が優勢かの」
「へぇ、意外!」
エンメは羽ペンを持った腕を伸ばし、新たな紙に書き始めた。
それは普段の彼の記録とは異なり、単にメモを取るといった内容だった。
「〈姫神システム〉とは、なんじゃ?」
「世界を創り変える機会です」
「そうじゃ。新たな国を作る程度から、人類の存亡に影響を及ぼすことまで、その可能性は無限だ」
「ですが失敗もあります」
「四〇〇年前はそうであった」
「〈反姫神システム〉」
「そうじゃ。世界を創り変えようとすれば、必ず変えさせまいとする力も働く」
轟
その時突然部屋の中に暴風が吹き荒れた。
そして部屋の中央の空間に黒い点が現れると、急速に膨らみ大きな穴が開いた。
「オレを呼んだか」
その穴の縁に太い腕が現れる。
息を飲む間もなく、その穴から一人の偉丈夫が這い出してきた。
そして一瞬にしてその穴は閉じ、風で散乱した何枚もの白紙の用紙がひらひらと床に舞い落ちた。
「ズァか」
「久しいな、エンメ」
紫色のローブを着た老人と、筋骨隆々とした偉丈夫が向かい合った。
「次元の狭間から脱出できたようだが、少々時間がかかったな」
「オレとて無敵ではあるが絶対ではない。よもや過去の姫神の生き残りが、オレにリベンジを仕掛けてくるとはな」
「元黒姫、オーヤのことか。そう、あの者が付いていることも黒姫優勢の理由じゃな」
エンメはカップに残ったお茶を啜ると、再び先程のメモ書きにペンを走らせた。
「ズァよ。私は何者にも属さぬ。監視者として常に中立じゃ」
「オレが常に敵対者であるようにな」
エンメは書き終えたメモ書きを偉丈夫に差し出した。
「故に必要な情報だけはお前にやる」
「……なるほど。これが今回のお品書き、か」
そこに殴り書かれていたのは七人の姫神の名前であった。
『新沼シオリ 白姫〈純白聖女〉〈再生〉
瀬々良木マユミ 桃姫〈淫魔艶女〉〈愛憎〉×
秋枝ナナ 銀姫〈鋼鉄神女〉〈守護〉×××
長浜サチ 藍姫〈九頭竜婦〉〈支配〉×××
柿野間アユミ 紅姫〈紅竜美人〉〈破壊〉××××
渡来ミナミ 金姫〈金色弓尾〉〈強欲〉×××××
深谷レイ 黒姫〈深淵屍姫〉〈傀儡〉×××××』
「×印の意味は」
「現状お前にとって厄介な者ほど多く付いとる」
「ふふん」
改めてメモを眺めるズァは一人に狙いを定めた。
「渡来ミナミ、金姫か。貴様が評価する黒姫と同程度だな。なぜだ」
「その者だけは他と違う」
「なにが」
「前向きなのじゃ」
少し呆れた風にエンメが言う。
「からかっているのか?」
「言葉の通りじゃ。金姫には迷いがない。戸惑いも、悲壮感も。初めから姫神であることを受け入れ、楽しんでおる」
「厄介だな。どこにいる」
そう言ってズァは扉へと向かう。
「今は東じゃな。〈五氏族連合〉に匿われておるよ」
「〈浮遊石地帯〉か」
「さらばだ〈力のズァ〉よ。〈心〉に会うたらよろしく言うておくれ」
背を向けるズァにエンメが声をかける。
「さらばだ〈智慧のエンメ〉よ。だがオレが〈心〉に会うことはない」
扉が開き、扉が閉まる。
偉丈夫の気配は消えていた。
そこでようやく二人のメイドは我を取り戻した。
ズァのいた時間、二人はまるで動けなかった。
「エンメ様……」
「おお、可哀そうに。怖かったかね」
二人のメイドを抱き寄せるとエンメはズァの出て行った扉を凝視した。
ズァは去っていった。
〈千里眼〉ともいわれるエンメにとって、世の事象はすべてお見通しである。
だがひとつだけ、長い期間見えないものがあった。
「エンメ様」
「なんだ」
「〈心〉って、どなたですの?」
ふっ、と嗤う
「ただひとつだけ、私をもってしても見えないもの、じゃよ」
そうつぶやいた老人は、いたく悲しそうであった。




