24
**
ヴァルたちが間借りしている水月邸の裏庭、小さな四阿がある。
そこには長椅子が二つ置かれていて、そのうちの一つにヴァルとグレーテルが並んで座っている。降り注ぐ陽光はほどよく温かく風も弱いから、ちょっと微睡むのにちょうどよい天気だ。
「よし、やるぞ」
「はいな」
意気込んだヴァルの手には髪を梳くためのブラシが一本握られていた。
ヴァルはそっと、グレーテルの髪にブラシを通した。腰まである長い髪を梳ってやると気持ちがいいらしく彼女が目を細めるから、たぶんこの調子でいいのだろうとヴァルは作業を続行した。
今日はグレーテルに頼んで、その髪を結わせてもらうのだ。
この日、彼女は髪を耳の下で二つにわけて結っていて、練習台になってくれと頼んだら「はい」とブラシを渡された。まずは梳るところから、だそうだ。
グレーテルから調子のいい鼻歌が聞こえてくる。
(悪くない)
つられてヴァルまで楽しくなってきた。
温泉――ベレルカの街からパラデウムへと戻ってきて、一ヶ月ほど経っていた。
帰りはビッキーたちと一緒だったので、あの退屈な長距離列車をまた経験せずに済んだのは幸運だった。
温泉がどんなものだったか、土産話を披露しようと寄り道もせずまっすぐ邸まで戻ってきてみれば、入れ違いにBBは出かけた後だった。
『東の方へ行ってみる、だそうです』
ヘンゼルが預かった伝言はそれだけだった。
東。漠然とした行き先であると同時に、ヴァルには想像も出来ない未知の領域である。パラデウムの中でさえ、行き先を明確に持っていないと未だ迷いそうになるくらいだ。そうBBに言ったなら、慣れの問題だよと笑われたが。
そろそろいいかな、と梳る手を止めると鼻歌がやんだ。ちょっと不満そうな顔が上目遣いにヴァルを見てくる。
衝動的にその柔らかそうな頬を指で突っつきたくなったが、堪えた。
「……まだだめか?」
「…………もういいですよー」
残念そうに正面へと向き直るグレーテルに苦笑して、その髪を両手でささげ持った。手入れが行き届いていてさらさらで瑞々しい。
「……ええと」
ビッキーから教わったことを回想する。三つ編みという名称のとおり、まずは三つにわけ、それを編んでいくわけだが。ビッキーの慣れた手つきを思い出して、自分にあれができるだろうかと弱気になる。
(まあ、なんとかなるだろ)
そう思って髪を分け始めたのだが、そこでまず躓いた。均等できれいな束にならない。
「む……」
不器用ではないのだが、なにぶん初めてだからしょうがない。そう自分に言い聞かせ、腿の上に置いておいたリボンでそれぞれの毛束の中程をゆるく結ぶ。この前、通りで遭遇した子供が練習するならそれがいいと教えてくれたのだ。その子はビッキーと違い、三つ編みを耳の下で左右に作っていた。だから通りで見かけたとき気になって「それ難しいか」と訊いてみたのだ。説明の途中で顔を青くした母親につれていかれてしまったが。
邸の近くで遭遇する子供たちは警戒心より好奇心が上回ったのか、近頃はヴァルたちを見ても逃げないし、声を掛ければ答えてくれる。親の方はそれをよく思っていないようで、ヴァルたちを見れば子供を隠すし、会話しているようならば問答無用で連れて行ってしまう。
残念に思うが、こればかりはしょうがないとヴァルも分かっている。自分が人間を怖いと思う気持ちを完全に拭い去れないように人間もまた、闇のものが恐ろしいのだから。
心の中で数字を唱えながら、毛束を編んでいく。
実際の所、魔法を使って手を増やせば簡単でうまくやれるだろう。だけどそれでは意味がない。ここは人間の領域だ。だからあまり、自分たちは魔法を使わない方がいい。
みだりに魔法を使っては人間の悪感情を生むだけだと思って、ヴァルはこれまで力をおさえてきた。適度に力を披露することは必要だとBBはヴァルに言ったし、それは一理あると思う。
けれどベレルカの街でのことがヴァルの意識を改めさせていた。
思い返すたび、頭を抱えて身もだえる。あれは、過剰な力はいたずらに人を惑わすだけだということを思い知らされた旅だった。決してあれが全力だったわけでないが、押さえていた力を解放した事は間違いなく。あんなことをしでかした自分が許せなかった。
引き金になることはやるなとビッキーから釘を刺され。自分でもそんなことはしないと思っていた。
だが、どうだ。
ベレルカの街はめちゃくちゃになった。
ヴァルの力に当てられて倒壊した家もある。こっちに戻ってから聞いた話では「売り」にするはずだった温泉が涸れてしまったらしい。それがヴァルの暴走と関係あるかは分からないが、きっとそうなのだろうとヴァルは思っている。帰り際「また来てくださいね」と村の中で唯一、駅まで見送りに来てくれたオリガに会わす顔がない。
きっとゆるしてはくれないだろう。
「……」
小さく息を吐いて、毛束のリボンを下げる。もう編めないというところまできて、用意していたリボンを結わえ付けた。
「……できた」
ふう、と大仕事でも成し遂げたような息を吐いて手を離せば、グレーテルがささげ持った鏡で器用にヴァルの仕事を確認を開始した。
「このリボン、かわいいですね」
「……それだけ?」
「はい!」
迷いや気遣いが皆無の評価。
思わず項垂れるも、そう言われても仕方ないことをヴァルも自覚している。編み上がったものはなだらかでなくぼこぼこしているし、ひょろっと長い髪が束であぶれている。
もう一回、と頼む前にグレーテルが三つ編みを自分で解いて、立ち上がった。
「もう時間ですー、お仕事しないと」
「あ、ああ……」
後悔の残るヴァルをおいて、グレーテルはさっさと邸へ戻っていった。
後に残されたリボンを所在なくつまみ上げ、ヴァルは唸った。もう一度ビッキーに習った方がいいかもしれない。
そう思うものの、ヴァルは考えてしまう。
自分でもよく分からないが、ビッキーの元へ行くのに躊躇いを感じるのだ。その証に、パラデウムに戻ってきてから一度も会いにいっていない。向こうの都合あるだろうが、押しかけることは可能なはずである。
きっとそれは忠告をやぶった後ろめたさからきていた。
「……俺人間じゃないんだけどな」
ぐるぐるあることないこと悩むのは、闇のものには珍しい。そう言う自覚がヴァルにはある。元人間のバリーはさておき、BBと話していると、彼にはヴァルみたいなそういうことはないからだ。
「あいつ今ごろどこいるんだろうな……」
ヴァルは長椅子の上に足を投げ出して、そのまま横たわった。そうやっても身体がはみ出さない造りの長椅子だ。
ひらひらと顔の前でリボンをそよがせてみる。
壁のない四阿からは青空を仰ぐことが出来た。寝転がったまま空をじっと眺めていると、視界が真白き光で灼かれる幻視に襲われ、思い出したようにヴァルの気分が高揚してきた。
耳を塞がずにはいられない騒音とともに浴びせられた魔法。
これまでにないほど胸が高鳴り、身体中が、身体を構成する一片一片がそれぞれ意思を持ったように震えだしたあの時を、ヴァルが忘れることはないだろう。
あれがビッキーの本気かは分からない。だが持てる力の最善を尽くしたのだろうという気はする。
上回る力をぶつけてやろうかと思った。してやりたかった。
結局は相殺することなく甘んじて受け止めたわけだが、そうしたのは幾分思考が冷静になっていたからだった。きっと場所がアルブムだったらやっていた。
けれどヴァルがいるのはベレルカ、人間社会の一端だ。ヴァルの行動は他の闇のものをも危険にさらす行為である。
自分以外のものを気遣うなど、それこそ闇のものには希有なものなのだが……。
がしがし頭をかいて、教授が唸った。
(う……)
ふけが舞うのを見たが、バリーは目を瞑った。一区切りつきさえすれば彼が見違えたように清潔な身なりとなることを知っているからだ。それに注意したところで彼が素直に聞き入れるとは思えない。
バリーがいるのは教授の仕事部屋だ。部屋の中は相変わらずで、他者には価値の分からない本や資料に埋もれるようにして教授は日々仕事に没頭している。
教授は時々ヴァルたちを個々で呼びつける。しかし揃って呼ばれることはない。これは他の闇のものもそうだ。呼びつけたものとの問答が、教授の仕事における「調査」となる。生きた声は貴重で正確だ。古い書物の真偽の分からぬ話ほどあてにならぬものはない。
ベレルカから戻ってくると予想通り、部屋に呼ばれた。戻ってきた日、教授は疲労により死んだように眠りについた直後でまた諸用も重なったため、実際呼ばれたのは戻ってきて一週間後のことだった。
それから数日後、教授はもう一度バリーを呼び、何を訊くかと思えばヴァルが暴走した件を聞きたがった。
バリーは覚えている限りのことを、前回同様誇張することなく話してきかせた。一通り聞き終わると気が済んだのか、戻っていいぞと追い返された。
――そして今日。
何を訊かれるかと思えばまた同じことだった。
いったいどこの何に引っかかっているのかわからないが、文句も言わずバリーは同じ話をした。けれど今回は前回と違って、終わってもすぐ帰されなかった。
ひとしきり唸った教授は、中指の爪先で机を叩きはじめた。
「……俺はこういうやりとりで個人的見解を述べたことがない」
こつこつこつ、と音はせわしげに続く。
「……はあ、」
そう言われてみると、その通りだとバリーは気がついた。教授はバリーたちから話を聞くだけで、内容によっては興奮のあまりわけの分からないことを口走るがそれは他者に聞かせるものでないため、こちらも何を言っているのか理解できたためしがない。
ぴたりと机を叩く音が止み、何とはなしにバリーは居ずまいをただした。
「……一度、学長の孫には言ってみたことがあるんだがな。ヴァルには――あいつには何か存在する意味みたいなもんがあるんじゃないかと、俺はそんな気がしているんだよ」
顔を見る限り、冗談を言っているふうでもない。
「意味、ですか」
大それたことを言う、とバリーは思った。同時に、なかなか鋭いとも思う。
バリーもまた、教授には言っていないことがある。ビッキーたちにも、だ。
ヴァルはそこいらの闇のものと一括りにしていい存在ではない。彼は魔王だ、きっと人間を傅かすことが出来る――確かにそれはバリーの欲目も入っているが、あながち間違いでないはずだとバリーは思っている。信じている。……ヴァルにそう言うと呆れた目をされるが。
ベレルカであったことは、バリーにそれを確信づける材料になった。
しかし「存在する意味」となると話が違ってくる。
バリーはヴァルが特別な存在だとは思っているが、しかし。
(存在する意味……ですか)
たまたま他者より強い力を秘めているのでない、その意味とやらをバリーはこれまで考えたことがなかった。というより思い至りもしなかった。
一つはっきりしているのは、たとえそれがどんなものにせよきっと、バリーはヴァルに付き従うだろう。
彼はバリーの唯一たりうるあるじだから。
「……こういう仕事柄、というより性分だな。俺は特別神なんぞ信じちゃいないが、それでも俺たちの生活に神ってのは何かしら根付いていやがる。お前らからベレルカでの話を聞いていると俺は思ったのさ、」
教授はそこで一度言葉を句切り、二度、爪で机を叩いた。そうすることで迷いを捨てるように。
「学長の孫の力をこの目で見たわけじゃないくせにどうかと思うが、俺は、トリア教の謳い文句を思い出したよ」
「光と闇は同じくらいあるべきだ、でしたっけ……?」
「ああ。トリアは大封鎖の前は主流とはほど遠かった。それが今や、勢いは古参のルクスを上回っている。大封鎖後、俺たち人間は安寧を手に入れた。魔族は闇に属するから、俺たちは自分達の周囲から徹底的に闇を取り除こうとあらゆる場所を光で覆ったし、俺たちの魔法は、俺たちには分からんがお前たちには眩しいんだろう?」
「ええ、はい」
「……魔族が闇、人間が光として」
教授は神に三角形を描き、その真上、頂点に接する形で右下がりの斜線をひいた。線の両端に文字を書き付ける。左に魔族、右に人間、と。
「大封鎖後、秤は人間側に傾いた」
バリーは頷いた。アルブムに追いやられた魔族は、最初は少しずつ、気付いてみれば驚くほどの数が減っていた。
「しかしだな。封鎖が解かれたこの状況はなんだ、まるで少しでも釣り合いを取ろうとしてるみたいにも思える。学長の考えは知らんが、まさかそんなことないとは思うが……仮にもし、これに神が関与しているとして。光と闇の均衡を考えると、魔族の数が圧倒的に少ない……なら、いち魔族にそれを賄える力を与えると、どうだ」
傾いた秤に教授が錘を足していく。
「まさかそれがヴァル様と……?」
「わからん。一点だけに重きを置くのもどうかと思うしな。が、そういう見方をすることもできると言う話だ」
教授は自分が書き付けた紙をぐしゃぐしゃ丸めて後ろも見ずに投げ捨てた。もちろん、そこに屑籠があるわけでなく、不要になったからその辺に捨てただけである。始終この調子なら部屋が散らかり放題なのも頷ける。
「あの、ところでビッキーさんは?」
「ん、言わなかったか?」
「聞いてませんよ」
「お、そうか。話になった気でいたが。……まあ、なんだ。同じくらいというのなら、抑止力の存在は不可欠だと思わないか?」
ベレルカで出来事を思い出し、バリーは顔を歪めた。
目を灼くような真白き光が辺りを染め上げ、気を抜けば正気を持って行かれそうなやかましさの中でバリーは見た。毅然としたビッキーと、それを歓迎するように不敵に笑うヴァルを。
ヴァルが笑っているということは、彼女はそれなりに歯ごたえのある人間なのだ。
これには彼女の実力を見直すと共に、焦りを感じた。
バリーはそんなに強くない。闇に落ちる前、人で会った時も武闘派とは縁遠かった。
「ま、聞いた話だけで組み立てた推論だ、戯れ言と変わらん」
そうはいわれても、バリーも簡単に忘れることはできそうにない。これまで見てきたものがある。闇のものは人間のように神をあがめ奉ったりはしないが、バリーは元が人間のため、その辺りの意識は捨てたつもりでもどこか残っている。
「……ならどうして私に話して聞かせたんです」
「どうにもこうにも誰かに聞いて貰いたかったんだから仕方ない。信仰心なんか持ち合わせていないと思っていたが、俺も人の子らしい」
つまり、己の思いつきが恐ろしくなったあまり、身の内に秘めておけなくなったのだ。
そんな教授をバリーは莫迦にはできなかった。元人間であるからこそ、よく分かる。そして自分が真から闇のものにはなれないことを突きつけられたようで、ぎり、と奥歯が軋む。
(……帰りたい)
三つ編みの練習をすると意気込んでいたあるじを思い出して、なおさら帰りたくなった。今日に限ってこの部屋は陰気で辛気くさい。
光源に魔法を使わない薄暗い部屋は闇のものにとって好ましい場所のはずなのに、どうにも居心地が悪かった。




