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色のすすけた空間が無限に広がっている。どちらが上で、どちらが右か、そんなことを問うことなど無意味でしかない、なにもない空間だ。
……いいや、ぽつんと浮かぶものが二つある。
一つは人間、男だ。中肉中背の青年である。険しい顔で目の前の存在を見つめている。
もう一人――いやもう一つ、というべきか。
それは、輪郭のぼやけた何かだった。形は人間のようにも見えるが、淡く発光しているそれが人であるはずがない。顔があるとしても表情を窺い知ることが出来ないから、どんな気持ちで今そこにいるのかは不明だ。
エルネスはまるで自分が空間そのものになったみたいに、それらを俯瞰で眺めていた。見ているという感覚はあるが、目が開いているのか、そもそも目はどこにあるのかはっきりしない。けれどそんな状態なのに不思議と不安や恐怖はない。
「――きみの負けだよ、ロワン」
向き合うそれからの宣告に、青年が呻く。
彼がロワンなのかと、自分を苦しめた存在なのにかかわらず、エルネスは他人事のように思った。きっと彼が想像より若く、またこの不思議な空間が感覚を現実から遠ざけているせいだろう。
「ほんとうに自分が神になれると思っていたの?」
「それは……」
淡々とした問いかけに言い返すことの出来ないロワンは、神に挑んだものとは思えぬほど、小さな存在に見えた。
「ぼくらに挑んできたきみは、あんなにも自信に満ちていたのにね」
「……っ」
「かわいそうに。きみは唆されたされたのさ、混沌に」
どこからか、くすくすと忍び笑う女の声が聞こえてきた。
幻聴にも思える小さなそれは次第にはっきりと聞こえるようになり、果てなどないような空間にぴしりと亀裂がはしった。横一線の亀裂から、真っ黒な色が這い出してくる。紙のように薄く質感がないくせに、亀裂の淵に張り付いて、上下に押し広げようとする。
閉ざしていた瞳がひらくようにゆっくりと開いたその向こう、黒々と得体の知れぬ何かが渦巻いている。笑い声もそこから聞こえてくる。
可愛らしいのに、ともすれば耳障りにもなりうる、少女の声。
「ふふ……ロワン、おつかれさま」
笑いながら声は言う。
「娘……」
しわがれた声でロワンが呻く。
さっきまで青年だった彼は背の曲がった、いまにも風に吹き飛ばされそうな老いぼれへと変じている。きっと、これが彼の晩年の姿なのだろう。充実した日々を送ったものとはほど遠い姿をエルネスは哀れに思った。
「あなたがウンウン唸って試行錯誤する姿、とっても愚かしくって、滑稽で、とっても愉しかったわ」
それはきっと、心からの賛辞だったにちがいなかった。またそうであるがゆえに、ロワンの心を折るに充分たる斧であった。
ロワンががっくりと膝をつき、項垂れる。
その肩に触れる物があった。輪郭こそぼやけているが、間違いなく手である。
「ロワン、きみの挑戦は誉められたことじゃないけど、成し遂げたことは賞賛に値するものだ」
のろのろとロワンが顔をあげる。
「世に残すことはできないけどね。だけどぼくらは忘れたりしないよ。きみもぼくらの愛し子だから」
ロワンの目から涙が溢れ、とめどなく流れ落ちていく。
「さ、きみはもういくんだ」
触れた先から伝染したように、ロワンの輪郭がぼやけていく。肩先に触れる手のひらに集うように一つの光球となった彼を、神は両手でそっと包み込んだ。
「……あーあ。終わっちゃったわ、つまんないの」
亀裂の向こうから飛んできた雰囲気をぶちこわす幼稚な発言に、神が肩を竦めた。
「まだいたの」
「まだいたんだ」
「だって、退屈なんだもの。ね、おにいさま、遊びましょ?」
「遊ばないよ」
「遊ばない」
「いやよ、いや。遊びましょう、ね、遊びたいわ」
「「いいや、きみは眠っているんだ」」
亀裂に張り付いていた黒が先端から剥がれていく。こじ開けられた瞳は睡魔に襲われたように、ふたたび閉じていく。
「ぃやだ、やだ、おにいさま――」
喚く声に、神は背を向けた。
エルネスの視線は空間の支配者のようなそれに釘付けだった。
神々のやりとりという、とんでもないものを見てしまった。
いいや、見せられたのだ。
何故自分が。そう戸惑うエルネスの前にいつの間にかサイラスがいた。それどころか、居場所までもが変わっていた。そこはさっきまでいた司書の間だった。格闘していた貸し出し帳や紙、インク壺もそのままの状態でそこにある。
「終わったよ」
「……そ、そうか」
「きみのおかげだよ、ありがとう」
礼を言われても、素直に受け入れがたい。
何もかも予定調和だったろうにと言いたいのをエルネスはのみ込んだ。ぶつけたところできっと、受け流されて終わる。
「……俺が見ててもよかったのか」
「ああ、あれ? 解決してくれたし、どうしてロワンがぼくらと取り引きできたのか気になってたよね? 混沌はね、普段は眠っているんだ。だけど目を覚ましたときが厄介でね、人間を興味本位に唆すんだよ」
「……混沌って、おとぎ話じゃないんだな」
「そうだよ。眠っている間は、害はないんだけどね。ぼくらにも、いつ目が覚めるのか予想が立てられないんだ」
「神なのに?」
「神だからだよ。混沌は、あれでもぼくらの妹だからね」
エルネスは失念していた。混沌は悪い喩えにばかり使われるから忘れていた。自分達に善いものだけが神ではなかった。
混沌もまた、神話に出てくる神だった。
「あ、ねえねえ。最初で言い忘れたんだけど、ご褒美なにがいい?」
神らしからぬ、砕けた調子でサイラスはそんなことを訊いてくる。
「ご褒美?」
「ぼくらを助けてくれたお礼さ。きみの望みを、願いを、叶えてあげる」
そう言ったサイラスはにこにこと笑っているが、瞳は不思議な輝きをしていて、エルネスは得体の知れぬ不安を覚えた。
(……ひょっとして、試されているのか?)
外側はサイラス、だが中身は神。
一言に神といっても、混沌のような油断ならないものもまた神で、サイラスの中身はそんな混沌の兄だ。
自分達に善いものだけが神ではない。
それでも、神であることに怯み、臆した答えを返してもきっと駄目なのだろう。そんな予感があった。
エルネスは静かに息を吐いた。
自分で言うのもどうかと思うが、エルネスはぼんやりした見た目と違って野心家であった。たとえ魔法学校に入学した経緯が、たまたま才脳を見出されたという、ありがちなものだとしても。
一度目標に掲げたものはこれまで何とかして手に入れてきた。
今だって、欲するものがある。
この先も現れ続けるだろう。
それを、いくら外側だけとはいえサイラスに伝えるのはもやっとするものはあるが。
「そうだな、叶えてもらうなら……タダでとは言わない。俺は……俺と、俺の血をひくものの幸福と繁栄を望み、願うよ」
*
エルネスは図書室にいた。
思わず辺りを見回し、人の姿を探した。そしていつもの静謐な空間であることを再認識し、両手で開いたいた本を閉じた。
表紙には「フィーディア旅行記」と記されている。
耳を澄ませば誰かがページをめくる音、呼吸する音が聞こえる。
エルネスはほっと胸をなで下ろした。もう本を読んでいる場合ではない。旅行記を棚に戻して部屋を出た。
クレアドールに会いたい。
その一心で教室を目指すと、ちょうど彼女が廊下に出てきたところだった。
「クレア!」
エルネスは足を速めた。呼び声に気付いた彼女が、ただならぬ様子に勘づいて足を止める。だがエルネスは止まらなかった。
クレアドールに抱きつき、わけも分からず戸惑う彼女を腕の中に閉じ込める。
「好きだよ、クレア」
「い、いきなりどうしたの」
エルネスは常々何かにつけてクレアに好きだと告げているから、彼女はまたいつもの軽口だと思ったようだ。
その通り、いつものエルネスなら笑って、何でもないことにしてしまっただろう。
だけどそれもおしまいにすると決めていた。
「あのね、クレア。卒業したら結婚して欲しい」
エルネス・エトワイルは妻クレアドール・セルシュとの間に五人の子供をもうけた。
*
そっと、メイヤーは本を閉じた。
表紙は何人もの手垢にまみれぼろぼろで、角はすっかり丸くなっている。かつては手書きで「日記」と記されていたが、もう読み取ることはできない。
それはエトワイル家に――エルネス・エトワイルの子孫に引き継がれているものの一つだ。
誰も知らない世界の危機と、エルネスがそこにどう関わったが記されている。
エルネスの願いを、神は「いいよ、叶えよう」と請け負ったそうだ。
「……幸福と、繁栄」
いつからか、メイヤーは祖先の願いを思い返すとき、それを口に出して確かめるようになった。
――己の血をひくものの幸福と繁栄。
はたして自分の娘は幸福なのだろうか。折に触れ、メイヤーは考える。エトワイルの名は娘を追い詰めた。そう考えて、いや、と頭を振る。
(追い詰めたのはわたしだ)
自分は娘を、そのかよわい心を、守れなかった。助けてあげられなかった。
メイヤーの顔が自嘲に歪む。
はたして、助けようとしたことが真にあっただろうか。
学長という責務をまっとうすることにいっぱいで娘を顧みてこなかったことは、自分自身がよく知っている。出奔した娘は産んだ子供に手紙をつけ、人を使ってメイヤーの元に送って寄越した。
自らの手で渡しに来ない。
それで、どれほどメイヤーを憎んでいるか、いかほど己の産んだ子を呪っているのかがよく知れる。
メイヤーには娘が今は幸福なのかわからない。それを判断するのは娘自身だと思っている。それでも後ろめたい気持ちがあるからいつまでも考えてしまうし、娘に会いに行くことも出来ないでいる。
「……」
手垢にまみれた表紙を撫でる。
幸福はさておき、繁栄に関してはエルネスの願いは叶っているのではないかとメイヤーには思えた。彼が築いた小さな学校は、今日、世界に影響を及ぼすまでになった。
そしてエルネスの血をひくものは今日もここに生きている。
「――夜分に失礼するよ」
メイヤーは声の主を振り返った。ここは彼女の私室で、他者が許可なく入り込むことが出来ないというのに、それは何もない所から忽然と湧いて出た。
かつてエルネスの前に現れ出でたように、サイラスの姿で。
「……ご用命ですか?」
「いいや。近々起こりそうなことを知らせておこうと思ってね」
闖入者は謝ったりしない。それにももう慣れた。
――エルネスの願いは無償で叶えられたわけではない。
幸福と繁栄を得る代償、それは神の手先となって動くこと。
面倒なことに、神は己の創った世界に直接干渉できない。だから、エルネスの子孫は時に応じ、その手伝いを課せられている。
それがゆえメイヤーは、本来人間が知るべきではないことまで知っている。当然だが、それを他者に話すことは出来ない。
だが自分一人では神の手伝いをするのは困難だ。
そこで試行錯誤のうえに作ったのが選抜と人形のA’だった。
構想当初は、まさかそこに孫が加わるとは思っていなかった。
自分が思う以上に、孫は優秀であった。本人に面と向かってそれを言ったことはないけれど。
他者の幸福はメイヤーには計れない。
けれど神が叶えているのなら、エルネスの血をひくものは必ず幸福であるのだろう。決してそれが他者の目からはそうと映らなくとも。
そうであるのならばきっと。
(……わたしも幸福なのだろう)
一人きりの部屋、メイヤーは重いため息をついた。
閲覧、ありがとうございます。
次話から時間が現代に戻ります。




