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【第8話】久々の風呂と、彼女の告白

ヒューゴ先生は羽織っていた黒いコートを脱ぎ、室内の壁に掛けられた木製のハンガーへと静かに掛けた。


そして、長旅と単独捜査の疲れがにじむ首元を軽く手で揉みほぐしながら、おもむろに僕を振り返った。


「テオ。お前この数日ベッドで寝込んでいて、まともに体も拭けていないだろう。本格的に捜査へ復帰する前に、たまには一緒に風呂にいかないか?」


ヒューゴ先生のその言葉に、僕は少しだけ返答に迷った。


「いや、実はヒューゴ先生が部屋を空けていた間、ソフィアさんが毎日僕の体を拭いてくれていたんです」


なんてことをわざわざ正直に言うのも、なんとなく気恥ずかしい気がした。


それにソフィアに好意を寄せているクライグの耳に入って、余計な誤解をされるのも面倒だ。


僕は少しだけ愛想笑いを浮かべ、平静を装って頷いた。


「そうですね。ずっと部屋にこもりきりでしたから、久々にお湯に浸かってサッパリしたいです。ご一緒させてください」


僕はヒューゴ先生の後を追い、一階の廊下の奥にある宿の大浴場へと向かった。


ガンツが経営するこの宿屋は、辺境の街としてはかなり大きく、現在滞在している騎士団の面々が一度に何人も利用できるような、広々とした立派な大浴場を備えていた。


まだ日が落ちる前の早い時間帯だったためか、脱衣所には人影がなく、浴場の中にも先客の気配はなかった。


「一番風呂か。悪くないな」


僕たちは木製の重い引き戸をガラガラと開けて浴場内へ一歩足を踏み入れ、かけ湯を済ませると、そこはもうもうと白い湯気が立ち込めていた。


視界が真っ白に霞む熱気の中、石造りの大きな湯船には、並々ときれいなお湯が張られているのが見える。


「あ、こっちの一人用の湯船に入ってみよっと」


僕はそのまま湯船の真ん中へ肩まで深く浸かった。


やはり体を拭くだけではスッキリしない。


こうしてたっぷりのお湯に全身を沈めるのは格別だった。


「あー、いいお湯ですね。やっぱり湯船に浸かると全身が潤う感じがしますね」


僕が湯船の中で手足を伸ばし、久々の温もりを堪能していると、洗い場で手桶にお湯を汲んでいたヒューゴ先生が、大きなため息を吐いた。


「はぁ、…そっちは温度調整用の溜め湯だ。50度近くあるんだぞ」


「え、そうなんですか?全然熱くないし、ちょうどいいですよー」


「…お前はジジイか……まぁ、お前らしいっちゃ、らしいがな……」


どうやら僕は熱さにも鈍感らしい。


僕たちがそんな風にお湯を堪能していると、再び浴場の入り口から、ガラガラと引き戸を引く鈍い音が響いた。


脱衣所から入ってきたのは、騎士団の捜査チームの一員であり、僕と同年代の若手騎士であるロイだった。


「やぁ、ロイじゃないか。お疲れ様。こんな早い時間からお風呂なんて、珍しいね」


僕が湯船の中から片手を挙げて声をかけると、ロイは少しだけ肩を揺らした。


「ああ……どうも……」


ロイは僕と視線を合わせようとせず、低い声でよそよそしく短い返事だけを返した。


そして、僕がいる湯船の正面を避けるようにして、一番離れた場所にある洗い場の隅へと向かっていった。


彼はそのまま壁に背中を向け、身を縮こまらせて淡々と体を洗い始めた。


普段、同期のクライグと一緒にいる時はもっと快活な青年なのに、今日の彼の挙動はどこか奇妙で、不自然なほど警戒心が強いように感じられた。


(へえ、ロイって意外と照れ屋なところがあるんだな)


僕は彼の姿を見つめながら、そんな風に一人で納得していた。


きっと、同世代の男同士であっても、一緒に湯船に浸かったりするのがひどく恥ずかしい、意外と繊細な人間なのだろう。


やがて、自分の体を洗い終えたヒューゴ先生が手ぬぐいを片手に持ち、静かな足取りで僕が浸かっている湯船の前へとやってきた。


「おい、テオ。背中を流してやるから、そこへ座れ」


「えっ、いいですよ。自分の背中くらい自分で洗えますから」


「いいのか?今日を逃すと一生私に背中を流してもらえないぞ」


そう言われてしまうと、この機会を逃すのは確かに惜しい。


僕は恐縮しながらも湯船から上がり、洗い場に置かれた小さな木の椅子に腰を下ろして、大人しく彼に背中を預けることにした。


他人の世話を焼くことなどほとんどないヒューゴ先生が、僕の背中を流してくれるなんて、珍しいこともあるものだ。


温かいお湯を含んだ手ぬぐいが、僕の背中を滑っていく。


静まり返った大浴場の中に、ゴシゴシという規則正しい布の擦れる音だけが響く。


しかしその最中、不意に、僕の背中を撫でていたヒューゴ先生の手の動きがふと止まった。


「……先生?どうかしましたか?」


いつもは他人にドライなヒューゴ先生が、ぽつりと、とても静かで気遣うような言葉を投げかけてきた。


「…テオ、ケガを増やしてすまなかったな」


「え?」


予想もしなかった謝罪の言葉に、僕は思わず目を丸くした。


裏路地で小悪党のザックに不用意に近づき、短剣で刺されてしまったのは、完全に僕の油断と不注意が原因だ。


ヒューゴ先生が責任を感じるような理由はどこにもない。


「大丈夫ですよ、ヒューゴ先生!これからは気をつけますんで。あ、でも悪いと思っているなら、何か美味しいものをごちそうしてください!」


「ははっ、そうか……でもあまり、無茶はするなよ」


ヒューゴ先生はそれだけを静かに告げると、再び何事もなかったかのように手桶の温かいお湯を僕の背中へと一気に浴びせ、手ぬぐいで泡を綺麗に洗い流してくれた。


いつもは無愛想で、僕のことを頼りない助手だと突き放すような態度ばかりをとる彼だが、こんな風に気にかけてくれているのだと思うと、少しだけ胸の奥が温かくなった。


「はい、ありがとうございます。ヒューゴ先生」



ーー



温かい湯にたっぷりと浸かったおかげで、心地よい疲労感があった。


大浴場を出た後、ヒューゴ先生とは一階の廊下で別れた。


彼は「私は少し資料をまとめる。お前はもう部屋に戻って休んでいろ」と言って、自分の部屋へと帰っていった。


僕は軋む床の音を静かに響かせながら、二階にある自分の部屋へと向かう。


凄惨な連続殺人事件が続いていることや、多くの騎士が警備に出払っていることもあり、夜の宿屋はいつもよりひっそりと静まり返っていた。


長く続く木造の廊下には等間隔でランプが灯されており、オレンジ色の淡い光が壁に落ちている。


廊下を歩いていると、自分の部屋の前に佇む人影に気づいた。


「あ、テオさん。お風呂上がりですか?」


薄暗い扉の脇に、金髪を後ろで緩く束ねたソフィアが静かに待っていたのだ。


彼女の両手には、木製の小さなトレイが大事そうに抱えられており、そこには陶器のマグカップが二つ乗っている。


カップからは、コーヒーの香ばしい匂いと温かな湯気が白く立ち上っていた。


「ソフィアさん。どうしたんですか、こんな時間に」


「少し、あなたに言わなければいけないことがあるの。お部屋でお話ししてもいいですか?」


いつもの明るく快活な看板娘のトーンとは違う、少し落ち着いた、どこか真剣な声色だった。


(こ…これはひょっとして、告白だろうか……?)


この街に来てから、彼女には随分と良くしてもらっている。


もしかすると、彼女も僕に対して、少なからず特別な感情を抱いてくれているのかもしれない。


僕は内心の淡い期待を悟られないように平静を装いながら、鍵を開けて彼女を部屋の中へと招き入れた。


部屋のランプに明かりを灯すと、室内に柔らかな光が広がった。


丸テーブルを挟んで、僕たちは向かい合って座る。


ソフィアはトレイをテーブルの中央に置き、両手で自分のマグカップを包み込むように持った。


「どうぞ。お風呂上がりに冷えないように、淹れてきたんです」


「ありがとうございます。いい香りですね」


僕はカップを受け取らず、まずは彼女の話を待つことにした。


少しだけ気まずいような、静かな沈黙が流れる。


窓の外から、夜の冷たい風が建物を撫でる音がかすかに聞こえた。


ソフィアはマグカップの縁を見つめたまま、しばらく言いよどんでいたが、やがてゆっくりと顔を上げ、静かに口を開いた。


「実は私、来月この街を出るの」


「え?」


予想外の言葉に、僕は間抜けな短い声を漏らしてしまった。


「…実は…婚約者がいて、彼の街に引っ越すことになったの……」


ソフィアは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げ、どこか遠くを見るような目で言った。


「だから、最後にあなたとお話をしておきたかったの」


あぁ、なるほど。そういうことだったのか。


僕は、胸の奥で勝手に膨らませていた期待が、すっと静かにしぼんでいくのを感じた。


そりゃそうだろう。


こんなに可愛らしくて、料理も上手くて、誰にでも優しい娘だ。


街の若手騎士たちからもあんなに人気があるのだから、将来を約束した立派な相手がいるのなんて当然の話だ。


僕は一人で勝手に勘違いして舞い上がっていた自分が、少しだけ情けなく、ひどく恥ずかしくなった。


「そうなんですね!おめでとうございます、ソフィアさん」


僕は、少しだけ胸の奥がチクリと痛むのを隠しながら、できるだけ自然な、いつも通りの声でお祝いの言葉を口にした。


「それは……少し寂しくなりますね。でも、ソフィアさんならきっと、どこへ行っても良い奥さんになれますよ」


「ふふ、ありがとうございます。テオさんにそう言ってもらえると、なんだか安心しました」


しばらく無言になってしまった2人に、少し重い空気が漂った。


「あ、ごめんなさい。テオさん病み上がりなのに。ゆっくり休んでくださいね」


そう言って彼女は、少し気まずそうに立ち上がり、静かに部屋を後にした。


一人の部屋に静寂が訪れる。


僕はマグカップを手に取り、一口コーヒーをすすった。


彼女が入れてくれたコーヒーは、なぜだか無性にしょっぱかった気がした。

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