前奏曲〜Prelude〜
【読者の皆様へ】
本作は全編フィクションであり、実在の人物、団体、施設、事件等とは一切関係ありません。また、作中に登場する企業名、サービス名、SNS等の名称は全て演出上の架空のものです。実在する特定の団体やサービスを批判・助長する意図は一切ございません。あらかじめご了承の上、お楽しみください。
「あ〜…もうっ!また零して…」
羽鳥蝶子は撒かれた味噌汁の中に立ったまま、朝食を食べ続ける鈴木響を、火傷が無いか聞きながらタオルで拭いてやる。どうやれば鍋ごと味噌汁を撒けるのか…上等な仕立てのスーツが台無しだ。つい先日はホットミルクを零していた。子供かこいつは?と思いつつ、慣れたもの。嫌な慣れだ。その様子を、ドーベルマンのビビが"伏せ"の状態で上目遣いに見ている。ため息が聞こえてきそうな顔だ。呆れているのかもしれない。エプロン姿の一色完太が着替えを持ってきた…が、それは某有名メーカーのジャージだった。
「他の…無いのかしら?」
「響ちゃんいっぱい汚すから、クリーニングが間に合わなくて…」
「おっ?ついにジャージ。」
苺を口に入れながら響が言う。
「『おっ?』じゃないわよ!走りに行くわけじゃないのよ?仕方ない!よしっ響、行くわよ!…ほら早く〜っ!」
無理矢理服を着替えさせ、チェロと響を車に押し込んだ。運転席には蝶子と響が所属する音楽事務所のスタッフがいる。車の中の時計に目をやると、何とか間に合いそうな時間だ。
「「お願いします。」」
蝶子と響が言うと、2人を乗せた車は、本日の会場である音楽ホール『リアホール』へと走り出した。
車から降りると、2人はすぐに舞台へと向かった。
ホール専属『リアオーケストラ』。名門と言われているオーケストラの一つだ。そのメンバーが集まりつつあるそこに、ヒールの音を響かせて蝶子が入ると、一斉に視線が注がれ、周りから感嘆のため息が漏れる。蝶子は人目を引く。華があるのだ。それに遅れて響が入ると、今度は空気が一気に張り詰める。まるで、ここは軍隊か何かで、最高司令官が入ってきたような空気感になる。皆が響のオーラに圧倒されている。
そんな空気感の中、蝶子は今朝の光景を思い出す…この人、朝から味噌汁撒いてましたよー。だからジャージなのよー。
ここには、自分以外に最高司令官の裏の顔=ポンコツを知っている者はいない。そのちょっとした特別感がなんだか嬉しかった。
今日は、来年公開予定の映画に使われる曲目の1回目の練習日だ。蝶子はゲスト、響はゲスト兼アレンジャーとして参加している。このオーケストラは2年前にも響と共演していた。穏やかな雰囲気を纏った初老の常任指揮者・宮元とも顔見知りだ。いざ練習が始まる。しかし、冒頭部分で響は言いようのない違和感を覚えた。さすがは名門だ、美しい…いや、美しいがどこかおかしいのだ。何とも言えない違和感が響を襲った。
昼休憩時、食事を済ませた響は、客席からオケメンバーを眺めていた。違和感の正体はなんだ…顔…そうだ!2年前とメンバーが違う。メンバーの入れ替わりは特段珍しい事ではない。それに、2年前の共演時全員の顔を覚えているわけでもない。しかし首席クラスだったメンバーが、何人も見覚えの無い顔になっている。外に食事に行った者もいるから正確には言えないが、宮元なら何か知っているだろう。響は指揮者控室の扉をノックした。
「先生、鈴木響です。今、お時間よろしいですか?」
中からくぐもった「どうぞ」と言う声が聞こえる。宮元は、リアオーケストラ設立当初から何度も常任指揮に任命されている。オケメンバー選出にも関わっているはずだから、何か知っているだろう。改めて軽く挨拶を交わした後、響は尋ねた。
「何人かメンバーの入れ替わりが?」
「去年だったかな?フルートの子が局所性ジストニアになってね。その頃は退団するメンバーが続いたなぁ。まあ、すぐに他の子達が入団してくれて助かったよ。これで主要メンバーも若い子になったからね、まだまだ音が若い。これからだよ。」
と相好を崩した。
「局所性ジストニア…それは辛かったでしょうね。何か心身にストレスがかかるような事があったんですかね?演奏以外でも…。」
「そうだね…覚えてるよ。2年前の君との共演の後にその子がね…土、う〜ん、『土橋』君だ。君と嬉しそうに話をしていたね。小柄で小鳥みたいに可愛い子で、君と一緒に撮った写真をいつも大事そうにフルートのケースに入れていた。僕も演奏を楽しんでいるとばかり思っていたから、理由を聞いた時は驚いたな。」
この後、2人は当たり障りの無い会話をし、午後の練習に入った。
響は帰宅後、書斎の畳の上に体を投げ出し、宮元との会話を回想していた。『局所性ジストニア』とは、スポーツ選手の『イップス』と同じような症状で、パフォーマンスが出来なくなる状態だ。その原因は色々とある。その中には指の酷使や、ストレス等の心因性のものもある。仮に心因性のものとして考えれば…確かに演奏のプレッシャーは計り知れないものがある。でも彼女が?昼間の会話で出た『土橋』。響も覚えている。優しく伸びやかで、周囲を温かく包むような音を出すフルート奏者だった。一緒に写真を撮った覚えもあるが…………パシーン!
書斎の障子が勢いよく開く音に驚き、思わず飛び起きた。入り口に蝶子が立っており、その横にはビビが居る。
「完太さんに聞いたら書斎だって。『今は邪魔したらダメ』って言われたけど、ビビが案内してくれたわ。」
ビビが得意げにフンッと鼻を鳴らした。
「蝶子…?」
家に帰ったんじゃなかったか?
「話してもらおうじゃないの?今日の違和感の正体。」
「…気がついてたかぁ。」
胡座をかいて、その左膝に顎肘をつく。
「メンバーの入れ替わりがあったんだけどさ、それは良いんだよ?良いんだけど、ただ音が…」
「音が?」
「いやね?音の質や音楽性って言うか…う〜ん、我らが母校の教授方を彷彿とさせられると言うか…」
音の質や音楽性は師事する相手に少なからず影響される。
「音の何かに偏りがあるって事?」
「…まあね〜」
と答えたものの確信は無い。
ビビが響を前足で叩いている。まるで、お行儀が悪いと言っているかのようだ。
「何かある?何かあるの?私が感じたのはなんの違和感?」
蝶子が興奮し、ぐいぐいと近づいてきたその時、キッチンから完太の声が聞こえた。
「響ちゃーん!蝶子ちゃーん!ビビー!ご飯ですよ〜!ミートスパゲッティですよ〜!」
「良しっ、今行く〜!!」
響が好物にガッツポーズして書斎を出ようとしたその時、後ろから蝶子に右肩を掴まれた。
「…そのジャージ、脱ぎなさいよ?赤く染める気?」
「………はい。」
響は素直にジャージを脱いだ。
ここでまた、ビビがフンッと鼻を鳴らすのが聞こえた。
〜本日のメニュー〜
人間用:ミートスパゲッティ、ブロッコリーとトマトとモッツァレラチーズのサラダ、コーンスープ
ビビ用:ドライフードのブロッコリーと牛すじのせ、牛すじの茹で汁スープ




