第3章 ウェルド ・ 第1話 久斯の黒い過去 ③
やっと快晴になった。
俺達は弥系の集落を離れ、再度、北海を西に向かった。
最初の目的地は三野方。多伎の母親の生まれ故郷だ。
多伎の母と三野の母が姉妹で、現在の三野方の首長はその姉妹の弟。
三野はちょくちょく母の実家へ寄っているらしい。
「多伎の父親はなんで三野方の身の姉と結婚したんだ? すごく離れてんじゃねーか」
俺は疑問を久斯にぶつけた。
弥の西海を過ぎて幾日も経つ。まだ三野方には着かない。
弥と三野方は途中に何カ国も挟んでいる。
「同盟婚さ。多伎の両親は……弥と三野方の交易路を盤石にする為、結婚した」
俺の後ろで漕ぐ久斯は、額に爽やかな汗を浮かべた。
「ふーん。こんな遠隔地でも同盟婚するの? 三野の親はどうだった?」
俺は他に聞かれないよう、いちいち後ろに向かって話す。
船乗りの歌なんて歌っていられない。
久斯は漕ぐタイミングで切れ切れに答えた。
「八雲の大御身は……筑紫の奴國の出身で……隣国の布三同盟が結ばれると……先読みして、三野方の身の娘に求婚……それがたまたま、多伎の母親の姉だった…」
俺の苦手な政治の話だった。
各地に先進のクニが生まれ、交易都市に発展した。文化圏を越え、遠隔地との交易が最も盛んになった時代が到来、交易が列島全体を繋いだ。
首長間では遠隔地との同盟婚も行われた。
俺は布三同盟が何か知らないけど、三が三野方のことだと言うのはわかる。
そこまで話し、久斯は急に黙った。
隣の船の操舵士・志毘の声が聞こえてきた。
「オヤジ、風がおかしい! どうする? シケるぞ!」
志毘が群青色の水平線を眺めていた。
俺達は鼠色の荒波の向こうに陸地を見出した。迫り出す岬が雨粒に煙っている。
急なシケになった。あと少しのところで船が進まず、暴風雨に押し戻されそうになる。
びしょ濡れの操舵士・真具呂が濁声で怒鳴る。
「俺達ゃ、風を読み間違えちゃいねぇ! これは悪霊の仕業だ! あのガキが悪いんだ!」
『滄溟の鳥』の舵がきかなくなり、左右に揺れて船首が回り、波飛沫を食らった。
そうでなくても先日座礁して船の修理に時間がかかった。真具呂は自分の責任にされたくない。
鯨面文身を施し、いかつい風貌の真具呂。天狗のようなギョロ目を剥いた。
「あのガキがよ…禍を呼ぶんだよ…。悪霊に憑かれたガキが…」
剣は真具呂の指差す先に俺を認めた。
「うぉ……やばい…」
俺達は急いで杓子を使い、海水を船外に掬い出した。
船が上下する波に揺られ、テーマパークのアトラクションより激しく揺れた。
幅の狭い船内で剣が漕手を掻き分け、俺が居る前方部へ来た。
「巫ィー!」
剣が俺の後ろ襟を掴んだ。
俺はまた船酔いで吐き気が込み上げ、右舷にしがみついた。
船は波に揺さぶられ、俺の胃袋も激しく揺さぶられて…。
「吐きそう…。うう……ウェッ…」
「は…⁉ 何言ってんだ?」
剣の目尻が吊り上がった。
今日の剣は最悪に機嫌が悪い。まるで鬼のような怖い表情だ。
「多伎! お前、悪霊って言われてんだぞ! 最近、霊力が鈍ったんじゃねーのかぁ⁉ 何吐いてんだよー‼」
俺の襟を掴んで揺さぶる剣。
俺はまた吐き気が込み上がってきたが、飲み込んで堪える。
「お、俺が悪霊…⁉ なんで⁉」
俺は困惑するばかりだ。
「舵がきかねー。限界だぁ!」
もう一艘の船尾で舵を取る志毘が伝えてきた。志毘は真具呂の息子。
俺はいきなり剣に背中を押された。
「多伎! 早く何とかしろ! このウドの大木が! この船の最年少はお前だ、巫ー!」
剣の言いたいことはわかる。
俺は魏志倭人伝が言う『持斎』、この船のシャーマンだ。全ての災厄を引き受けることになっている。
波がうねり、
「うわ……っ…」
ザブッと、俺は顔面にまともに海水を浴びた。冷てぇ!
振り返れば、久斯と三野、奥津や蓼…、漕手達が青い顔で俺の次の行動を待っていた。
俺は『滄溟の鳥』が沈みそうなことを知った。
考えろ。こういう時、多伎ならどうするんだ?
「多伎! 多伎!」
多伎は俺を助けてくれない。この半月ほどの間、多伎の名を心の中で何度呼んだことだろう。
結果、俺は荒れ狂う北海へ、剣に蹴落とされた。
その瞬間に、海水の冷たさで心臓が停まりそうになった。海中で泡を吐きながら沈み、必死でもがいた。
俺は水泳が得意じゃない。波の下でも大きく揺られ、上手く泳げなかった。
シケの海では相当深く沈まない限り、かなり揺れがある。
右舷で愛狼・淡由岐が吠えまくっていた。
海面から顔を出したら世界が変わっていた。
海から白く水蒸気が立ち、海靄が発生していた。
『滄溟の鳥』も靄に包まれて霞んでしまった。淡由岐の鳴き声は聞こえなくなった。
シケが嘘のように静まっていた。
俺は剣達を呼んだが、返事がない。
急に波が静かになったことが俺の不安を掻き立てた。
空気が重く濃厚で、霊波が濃く立ち込め、邪霊の気配もわからない。
この世界に転落したあの日のように、暗くて白い。
俺は船尾にしがみつき、誰かが俺に手を貸してくれるのを待つ。
誰の気配もしない。まるで『滄溟の鳥』から乗組員が一人残らず消えたみたいに。
海靄の奥から別の船が近付いてきた。俺は志毘が舵を取る双子船の片割れかと思い、志毘を呼んだ。
志毘の返事も無かった。何もかもが死に絶えたような静けさ。
波の音がチャプチャプと俺の耳元で響いていた。
やがて、近付いてきた船が俺のすぐ側で『滄溟の鳥』とぶつかった。
志毘の舵取る船じゃなかった。知らない船だ。
その船は『滄溟の鳥』と同じくらいの大きさで、木材が古く傷み、破損だらけで、人影はあるが生きた人は乗船していなかった。
幽霊船だ。
海靄に包まれ、この世からあの世へ死者を運ぶ船だ。
漕手は古びた着物の骸骨達。操舵士も骸骨。死者は囚われたように漕手の間に座らされ、生成りのぼろいフードを被っていた。
幽霊船に階級があるかどうかは知らない。その船には貧しそうな死者が乗せられていた。
俺は声を失い、ただ呆然と見送った。
もし関わったら俺もあの世へ引かれてしまう。俺は鼻の下まで海水に浸かり、船の影に身を潜めた。
突如、ぼろをまとった死者の一人が幽霊船から乗り出し、『滄溟の鳥』の船尾にしがみついた。死を拒否し、あの世へ行く船から降りようと、精一杯の抵抗を試みた。
両脇の骸骨の漕手がその死者を引っ掴み、幽霊船へ戻そうとした。
別の死者も『滄溟の鳥』の舷側板にしがみつき、幽霊船から逃れようとする。
俺は自分の口を手で押さえ、無言で覗いている。
死者は死を拒否する理由があるのかも知れない。この世への未練が彼等を駆り立てている。
骸骨の漕手が死者を引き剥がそうとして、死者のぼろが捲れ、顔が覗く。
中年の女が声なき声で叫び、子供の名を呼んでいる姿がとても憐れだった。
もう一人のぼろをまとう死者は若者だった。
この世に家族を残して先立たねばならない辛さ、それは家族の行く末を案じる故に、遺される側より辛いかも知れなかった。その人の身を斬られるような悲痛さが、見ている俺にも伝わってきた。
俺は『滄溟の鳥』が何故動かなくなったかを理解した。
たまたま、海上であの世とこの世の接点があり、あの世へ行く幽霊船に乗せられた死者達が俺達の『滄溟の鳥』にしがみついた。
俺はその必死さを見て、その指を船体から剥がすことが出来ない。
土色の皮膚、青い唇の死者が、指がもげようともこの世の船にしがみついて、あの世に去りたくないと泣いている。
風がヒュウヒュウと唸る。
風が挽歌を運んできた。
彼等の家族が葬儀で死者を慰める為に歌っている。
どうか安らかに、痛みも苦しみもない世界へ旅立ってくれ。そこの時間の流れが緩く、私達が後から行くまでの間、先立った人が長く寂しい思いをしないように。
待つ間も寂しさが紛れるほど美しく楽しいところであるように。
その願いに触れ、死者達がこの世を諦め、俺達の『滄溟の鳥』から指を離す。
死者の涙が風に乗り、俺の頬に落ちて、俺の涙と二筋になって流れた。
古い鐸が鳴らされた。
海靄の中、幽霊船が進んでいく。
海の遥か彼方に常世の國があると言う。
俺は海に潜り、あの世の息を全部吐き出した。
波が高くうねっている。俺はその荒々しい海の表へ戻っていく。
海面から顔を出した。海靄が消え、シケも随分とマシになっていた。
「多伎! 息が長いな。海の中で百数えてたのか?」
剣が言い、皆一斉に笑った。
青褪めていた『滄溟の鳥』の乗組員が笑顔を取り戻していた。
「多伎よ、どうだった? 邪霊が大量に居たんだろ⁉」
志毘が向かいの船から問いかけた。
剣が手を差し出した。
「早く上がって来い、多伎……」
俺は長い息を吐き、水を掻いて剣の方へ泳いだ。
「沸えたぎらせてやったよ」
俺が答え、志毘は面白くなさそうに舌打ちした。
剣は左舷に久斯と三野を寄せて船のバランスを取り、上手く俺を海から引き上げた。
奥津がニヤニヤしている。他の漕手も笑っている。
真具呂と三野はつまらなさそうだ。
「『沸』たぎる多伎、か。もっと格好いい通り名で呼ばれるようになれよ。俺みたいにな…」
『粛殺』の剣が笑窪を刻んで笑った。




