第2章 ハイエイタス ・ 第3話 黎明になった多伎 ④
何にせよ、俺の圧勝だった。
一方、五百里は鋭い観察力で気付いたことがあった。
(この特殊一級邪霊、黎明の両親には危害を加える気が無い。…完全に普通の息子の振りをしている…)
五百里は俺と二人きりになろうとした。
「そうだ、黎明。桃井虹の写真集を見せてくれるって言ってただろ。僕もすっかり、桃井虹のファンになっちゃったんだよ。部屋に行ってもいいかな?」
「んなもん、とうにねーよ。捨てたよ」
俺は断った。
「五百里叔父さん。俺にだって、都合ってものがあるんだよ。俺の部屋、散らかってるからな…」
(とっとと帰れ、お前などに用はない…)
俺は五百里を拒否した。
五百里は死を覚悟で近付いてきた。
「黎明の部屋が散らかってない日なんてないだろ…」
五百里は俺のすぐ側まで来て、他の人には聞こえないくらいの優しい小声で問う。
「…貴神は本当に邪神ですか? そのような神ではない?」
直球と言うか、核心を突いてきた。
俺の意表を突く質問だった。
「ぶっ飛ばすぞ。俺は機嫌が悪いんだ。五百里叔父さん、今日は変だよ」
俺はまた五百里に腹が立った。
自分の命と引き換えでも、黎明を取り戻したいと言うのか。
玄関まで見送られ、衰弱した五百里は溜息をついた。
「僕、黎明に嫌われたかなぁ…」
五百里は残念そうに頭をぽりぽり掻いた。
眼鏡を外すと、意外に童顔で若く見える。
母は大体を察していた。母は五百里にだけ打ち明けた。
「皆、邪神だって言うけど。私は黎明を信じたいの。あの子に憑いた霊は、それほど悪い霊じゃないと思う。黎明は巫の家の子よ。いつか、自分で祓って自分を取り戻す…」
すると、事態を認識出来ていない父が、
「そうそう。弥栄氏一門が動かないように、五百里くんから宗家に頼んでくれないか…」
手を合わせて五百里を拝んだ。
「どうかなぁ…」
五百里は弥栄宗家のことをよく知っている。
溺愛する孫でも、それが邪神に憑かれたとなったら、宗家としてのケジメの為に刺客を送りかねない。そういう非情な性格なのだ。
「百合さんと八島さんは大丈夫だと思います。……あの黎明は、お二人を傷付ける気がなさそうです。黎明のことは、僕が……暫く様子を見ますよ」
俺は居間から五百里達の会話を聞いていた。
俺が耳を澄ましている気配に気付き、五百里は肉眼の下の霊眼を開いて、俺をまっすぐ見詰め返してきた。
五百里がマンションのエレベーターで一階に降りた。別の背の高い男がロビーで待っていた。千歳だった。
実は、五百里が八島家を訪ねた理由は弥栄宗家の差し金じゃなかった。
五百里を八島家に差し向けたのは千歳なのだった。
千歳は五百里が八島家を訪問している間もずっと考えていたらしく、いきなり質問した。
「どう? 黎明を斬らずに、多伎とか言う…化け物を祓う方法は有りそう?」
五百里はシッと人差し指を口に当てた。
「千歳さん、その名前を出さないで下さい。…まず、結界を張ります」
マンションの玄関先で、五百里は黒い雨傘を差した。
外は小雨が降り出していた。
「男と相合傘かよ」
千歳は気が進まなかったが、傘に入った。
五百里の傘は、結界を張る為の方位十二神の名が傘の骨に小さく書いてあった。
「どうだった? 黎明に憑いている化け物は…?」
千歳は尊敬する弥栄宗家の命令でも、どうしても黎明を斬りたくなかった…。
五百里は歪んだ眼鏡を鼻にずらして掛け、切れ長の横目で一瞥をくれた。
千歳には言葉以上に伝わるものがあった。
「…まさに、化け物でした……。不幸中の幸い、黎明の躰にはその化け物しか居ませんでした。黎明の魂と同化したわけではない。神名を聞いても、名乗ってくれませんでした。多伎というのも、通り名の一つに過ぎないのでしょう…」
五百里は息苦しさを思い出し、自分の喉を撫でた。
千歳はゴクリと唾を飲み込んだ。
「陰陽寮退魔課は動く?」
「陰陽寮退魔課は宮中の警備だけです。京全体なんて、とても手が回りませんよ。それに…僕の敵う相手ではありませんでした。ランクは特級(特殊一級邪霊)…」
五百里は項垂れた。
「特級…!」
千歳も想定外の言葉を噛み締めた。
特殊一級邪霊となれば、弥栄流の全退魔師が一丸となって戦っても死者が出るレベルだ。
「黒い鱗が混じる白銀の龍でした。背に黒い翼があります」
五百里と千歳は駅前の明るい雑踏に消えていった。
五百里が幼い黎明を弥の宮に連れてきたのは何年前だっただろう。
勿論、五百里はよく覚えているはずだ。五百里が二十歳くらいで、黎明はまだ十歳ほどだった。
あの日、五百里が黒鹿毛の馬を走らせ、黎明を前に乗せて抱くように弥の宮に来た。
里の娘達がその姿を見て、凛々しい五百里に憧れの視線を注いでいた。
五百里はもう鼻ピアスを開けていた。
弥の宮の長い石段の下、手水舎の近くの柱に馬を繋いだ。
「黎明、大丈夫か?」
黎明は弥の宮の石段を見上げただけで身を縮めた。
「五百里ぃ、怖いよう…」
黎明は五ツ詣りを思い出したのか、泣きそうだった。
「大丈夫。怖くない。僕がついてるから。一緒に弥の宮にお詣りしよう」
五百里が小さな黎明の手を繋ぎ、石段を昇っていく。
黎明はまだ女の子みたいな顔をして、声も高かった。
夏の濃い葉陰に俺が潜み、動きの一つ一つを見ているとも知らず。二人は兄弟のように仲良く石段を上がった。
「黎明、この杜にはクワガタがいるんだよ」
「知ってるよ。ここの虫を取ったらタタリに遭うんだって…」
黎明がビクビクしていた。
「そうだよ。霊域だからね。蛇も殺しちゃいけないよ。特に白蛇に乱暴はダメだ…」
五百里が黎明に教えた。
俺は境内の日影に潜み、二人の後をつけた。
その後は弥の宮の小さいながら立派なヤシロの裏に隠れ、二人が鈴を鳴らして弥のミオヤに祈るのをこっそり眺めていた。
五百里が何を祈ったか、それは知らない。
黎明は真面目な表情で、さっき五百里にもらって食べた菓子が美味かったとか、今夜は七海姉と千歳兄と千春と三波とゲームをしよう、うるさい千津雄伯父に見つからないといいな、とか、実にクダラナイことを考えていた。
黎明はこんな願い事をしていた。
「昨日見たアニメみたいな冒険者になって、異世界に冒険したいです。お願いします…」
弥のミオヤもヤシロの中で微笑んで、思わず吹き出していたよ。
俺はヤシロの暗い裏口に凭れていた。白く光り輝く弥のミオヤと真逆に、俺の側には光が無かった。
黎明と五百里が参道の石畳を歩き、遠ざかっていく。
「…五百里ぃ。なんで五百里は千津雄伯父さんにいじめられてるの?」
黎明は率直すぎることを言って、五百里を困らせた。
五百里は言葉を選びながらも、嘘は絶対につかなかった。
「黎明。僕のお母さんが悪いんだ。宗家には奥さんがいるのに、僕のお母さんは宗家を本気で好きになってしまった。…それで、僕が生まれた。これは浮気だ。宗家の奥さんの子供の千津雄さんは、僕達母子がどうしても許せないんだよ…。一生ね」
五百里は母親の不倫で生まれたから、弥栄氏から侮蔑され、意地悪されていた。
それが十歳の黎明にも奇妙な状況に見えたのだろう。
五百里は戸籍も父なしのままで、弥栄氏にまともに口を聞いてもらえていなかった。
「でも、大丈夫だよ。黎明。僕はいずれ、分家の弥坂家を継ぐから。僕は世の役に立つ人間になって……、そうしたら何も恥じることはない、誰も僕を無視出来なくなるんだと、僕のお母さんが言っていた」
五百里の説明は、盗み聞きしていた俺の胸をそれなりに打った。
五百里は芯が強い青年に育っていった。
五ツ詣り以来、弥栄宗家の後継者争いに絡むんじゃないか、外孫の癖に生意気な、と罵られてきた黎明も、五百里に心を開いた。
「僕も千津雄伯父さんによく叱られる。外孫の癖に、って。それ、僕は悪くないよね?」
「そうだよ。黎明は巫の才があるから、皆が嫉妬して、ヤキモキしている。でも、そんなことは関係ない。黎明は好きな道を進めばいい。僕がいつでも守ってあげる。ずっとだよ。忘れないで。…僕らは友達だからね」
五百里が微笑み、黎明と手を繋いで石段を降りていった。
俺はあの日から思っていたよ。
五百里、お前はいつか俺を恨むだろう。敵となるかも知れないと。




