第2章 ハイエイタス ・ 第3話 黎明になった多伎 ③
日曜日の午前中。八島家の玄関のインターホンが鳴った。
家族三人で暮らすマンションの八階、ありふれた3LDKの間取り。
「はーい。少々お待ち下さい…」
母・百合がキッチンからインターホンに応えた。
俺は居間の窓際でカウンターチェアに座り、黎明のパソコンを弄っていた。
白い壁の明るい居間、観葉植物やドライフラワーが飾られた、母好みのキッチン。母は朝食の後片付けをして、昼ご飯のお米を洗おうとしていたところ。
父がそわそわして立ち上がり、身だしなみを気にして洗面所へ。
「誰?」
「五百里くんが来た…」
父の問いかけに母が答え、俺は思わず振り向いた。
五百里が? なんで?
陰陽寮退魔課に所属する五百里が黎明の自宅に来た。
母が玄関まで迎えに行き、鍵を開けた。
五百里は黒い羽織袴で草履を履き、眼鏡を掛けて、右の小鼻に銀の鼻ピアスを付け、手土産を持ってきた。
「百合さんの好きなドーナツです…」
「五百里くん、ありがとう!」
母が大袈裟に感激して、ドーナツの箱を受け取った。
「珍しいね。五百里くんが来るなんて…」
父が言う通り、五百里がこの家に来たことなんて滅多にない。
これは弥栄宗家の差し金だろう。
五百里は控えめながらも愛想よく、恐縮しながら居間のベージュのソファーに座った。
母は紅茶を入れる為にキッチンへ行く。父が代わって五百里の相手を始めた。
俺は背を向けたまま無視していた。
「五百里くん、陰陽寮退魔課に勤務することになったんだってね。いつから?」
「去年の暮れからです。叔母の代理で…。叔母がギックリ腰になっちゃったもんで…」
五百里は父に答えた後、俺の背中の方に向き直った。
彼は冷静に俺の分析を始めた。
(これが…宗家が言っていた、黎明に憑りついた一級邪霊…。これが邪神だと…⁉)
五百里はその優れた観察力で、俺の力を量ってきた。
(おかしいな。普段の黎明みたいにパソコンを弄っている。一級邪霊の典型例は、狂ったように暴れて自分では制御出来ない状態に陥っているのに…)
パソコンを使いこなす邪霊なんて、五百里も見たことがない。
(霊波は極めて落ち着いている。推測される霊的エネルギーの総量としては、確かに邪神クラス、それも最上級……特殊一級邪霊と思われるが……力を制御出来ている点は……かつてないケースかも…)
五百里は戸惑いつつ、自然な話し方で、電子書籍で連載中の少年漫画のタイトルを口にした。
「黎明、元気? 大宮祭の後、喋ってないけど…、『八咫烏―YATAGARASU―』は読んでる?」
そんな漫画、俺が読んでいるわけがないだろう。本物の黎明じゃあるまいし。
黎明は漫画好き、ゲーム好き、読書嫌い。
俺は苛立ちながら振り向き、ごく普通に答えた。
「五百里叔父さん。俺、最近、漫画に興味ないんだ…」
(帰れ…。弥栄宗家の飼犬め。何をしに来た⁉)
同時に精神世界の聲で威嚇した。
俺は鎌首もたげた大蛇が威嚇するように、居間全体に霊気を張りめぐらす。
網目のように細かく、俺の霊的な電流が走った。
その時、父が間の悪いことに、
「黎明。五百里くんがくれたドーナツを食べようか。お前は昔からダブルチョコの…」
黎明の好物を菓子皿に取り、五百里が受け取って、俺に渡そうとした。
俺の霊気がビリビリと雷のように伝わり、瞬間、チョコドーナツを粉々に吹き飛ばした。
電流が伝わって菓子皿に亀裂が入り、五百里の眼鏡も横に吹き飛んだ。
「…へっ! …へっ⁉」
霊感が鈍い父は、粉々になって飛んだドーナツ、割れた菓子皿と、五百里の歪んだ眼鏡を見比べて狼狽えた。
「へぇー…、そうなんだ…」
五百里は歪んだ眼鏡を拾って掛け直し、口元に飛んだドーナツの粒を長い舌先で舐め取って、にこにこと相槌を打った。
(やばい。この特殊一級邪霊、僕のことを知っているようだ…)
五百里は内心の動揺を隠した。
俺は五百里の白々しさに腹が立つ。
そんな緊迫感に気付かないはずのない弥栄氏出身の母が、何事もなかったかのように紅茶を淹れてきた。
母がテーブルの端にトレーを置いて、紅茶のポットと皿とカップと砂糖を移し、頬を紅潮させて自慢げに話す。
「黎明は最近、頑張り屋さんなの。勉強に燃えちゃってるの!」
五百里は小声で囁く。
「勉強に燃える…。そんなの、黎明じゃないなぁ……」
(やっぱり、黎明は完全に支配されてるのか。…でも、勉強好きな特殊一級邪霊って……何⁉)
五百里と母・百合は異母姉弟。
弥栄宗家の婚外子で侮蔑されている五百里と、はみ出し者の黎明は仲がよかった。
五百里は黎明の巫としての素質に早くから気付いていた。鬼に狙われやすい黎明のことを密かに見守り続けてきた。
俺に黎明を乗っ取られて、さぞかし悔しいだろう。
(去れ…‼ 弥栄宗家の犬。帰って、飼い主に伝えろ。黎明はもう私の躰だ…‼)
俺は精神世界の方から五百里に揺さぶりを掛けた。
五百里は視た。
母が仏壇に供えてあるラフランスのホワイトチョコクッキーを五百里の為に取りに行った間に、居間は魔界空間と化した。
父がソファーに座る日常の光景と重なりながら、黒い鱗が入り混じる蛇体が暗黒の空に浮かぶ。
背に黒い翼が生え、鹿のような角がある。数対の鰭が風をはらみ、鉤爪の付いた四肢の指、鯉のように粗い鱗、尾鰭は魚と同じ。ぎょろりと大きく鋭い双眸は黄金色だ。
(…くうっ…‼ 禍々しさに目が痛い…‼)
五百里は目の痛みと激しい頭痛に吐き気がした。
五百里は慌てて防御を張ったが、自分の魂が身から剥がされて吹き飛びそうな恐怖を感じた。
俺と圧倒的な力の差の前に、戦わずして敗北した。
(今のは何だ? 僕が視たものは…?)
異空間で五百里の精神が急激に押さえ込まれ、潰れかかった。
精神の死は肉体の死に繋がる。五百里は異空間で喘ぎ、苦しんだ。
物質世界では、五百里は震える手にティーカップを持ち、ソーサーにポタポタと紅茶を零しただけだ。
俺は手にドーナツを持って貪っている。
何これ、異常に美味い…。こんな味、食ったことない…。
俺はダブルチョコドーナツに束の間、心を奪われそうになった。
俺の霊気に圧され、窓ガラスにヒビが入った。
稲妻が窓ガラスを突き破って、八階から天へ突き抜けた。
(御前の神のお名前をお伺い致します。何処より来たる神霊か…)
五百里は必死に祈った。
(荒ぶる神よ。鎮まりたまえ……鎮まりたまえ………)
(黙れ…‼ お前ごときに鎮められると思うなよ!)
俺が叫び返した。
テレビが壁から外れ、煙を出しながら床に落ちた。
居間のシャンデリアの電球全部が同時に割れた。俺達の上にガラスの粉末が降った。
「んぐぐぐ…」
ティーカップを持って歯を食い縛る五百里。
精神世界の方で五百里が俺の怒涛の霊圧を受け、死に瀕した。
父は部屋が勝手に荒れたことでパニックになっている。
母がラフランスのホワイトチョコクッキーを持って居間に戻ってきて、俺達の衝突は突然終わった。
俺はパソコンを使って、黎明の世界のことを調べた。
電波系のものは、俺には扱いやすかった。俺の能力は雷に近い性質を持つからかも知れない。
黎明の世界は複雑過ぎた。
このクニは八雲でも倭の國でもなく、日本と言った。
俺が居た世界の対外的脅威は楽浪や魏や韓だったが、今は米国や露国や中国と言う、新たな大国があった。
戦は恐るべき進化を遂げ、人類を滅ぼしかねない大量破壊兵器が存在し、それを日本は持っていないのだった。
日本は人類最終兵器の核攻撃を受けたことがあり、数えきれないほどの被害者を出し、これが八雲の連合だったら全て死に絶えるほどの数の人間を虐殺されていた。
俺は原爆の映像を沢山見た。
経済、貿易、交流や移動は地球の裏側まで果てなく繋がり、日本は自給自足ではなく、貿易によって成り立つ。
この世界では、お金が神さまになっていた。
お金をめぐって身内で殺し合い、他人のお金を奪う為に犯罪が起き、騙し合い、一握りの勝者が世界の富を集めて貧富の差が生じていた。
お金の為なら何をしてもいい。その考え方が世界に蔓延し、競争に敗れたものは貧しくなるしかなかった。
俺が居た八雲では、誰でも働きさえすれば食っていくことが出来た。強い者は弱い者に分け与え、大差ない生活をして、農業や漁労に首長も関わった。
この世界では、神さまにこう祈る。
お金持ちになりたい。宝くじが当たりますように。給料が上がりますように。
俺の居た世界と余りにも違う。拝金という宗教に皆が平伏している。
自分を生み出してくれたミオヤへの感謝なんて、忘れられてしまって久しい。
俺はこの世界が嫌いだ。
「五百里叔父さんは何の為に陰陽寮退魔課で働いてんの? どうせ、弥栄氏の都合で嫌々働かされてんだろ?」
俺は黎明が言わないような暴言を吐いた。
両親は呆気に取られ、五百里は『おっ』という驚きの表情をして、背筋を伸ばした。
「嫌々じゃないよ、黎明」
五百里は意外な答えをする。
「僕はね、すめらみことをお護りしたい。それがこの国を護ることだからだ」
俺は苛ついた。
「そんなのがいなくったって、この国は滅びない!」
俺が苛ついた理由を、五百里はわかっているだろうか。
五百里はソファーで居住まいを正し、両拳を軽く握った。
彼は日本書紀の神代下の話をした。
「いや、僕らがすめらみことを護らなくちゃ。でなきゃ、僕らのミオヤが葦原中國を皇祖に奉った意味がなくなる」
いわゆる国譲りの神話。
皇祖・高皇産霊尊が溺愛する孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊を葦原中國の主となさんと、地上に使いを出す。
葦原中國(倭の國)を献上するよう、出雲の大己貴神に迫った。
大己貴神とその御子・事代主神が国譲りを受け入れて死ぬ場面の後、天孫・瓊瓊杵尊は出雲に降臨するわけではなく、筑紫の日向に降臨する。
俺は段々と本気で苛立って言い返した。
「五百里叔父さん。日本書紀なんか信憑性あると思ってんの。あれは7、8世紀の律令体制の枠組みの中で、勝った側が自らを正当化しただけの、後付けの神話じゃねーか…」
五百里は笑い出した。
「じゃ、僕らは何を信仰したらいいんだ? お金を拝めと言うのか? これが僕らのアイデンティティーじゃないの? 大宮祭の『壱』と『八』の舞こそが僕らの誇り、僕らの祖先伝承なんだから」
五百里は俺をぐっと黙らせた。
…危ねぇ。五百里は壽詞と同種のテクニックで、俺を鎮魂しようとしてきた。
危うく鎮められるとこだった……。




