第2章 ハイエイタス ・ 第3話 黎明になった多伎 ②
可雲川学院はレトロなレンガタイル張りの赤茶色の校舎。中等部から大学院まである。
敷地はとても広くて、大きな図書館、複数のカフェ、ホテルのレストラン並みにお洒落な学食がある。地方出身者の為の寮も周辺にある。
ゴミの集積所のブロック塀に烏がとまっていた。
俺を監視するように、ぬるっとした黒い眸で見ていた。
俺は烏が嫌い。黒い翼が俺と似ているから。哀しい思い出が心によみがえるから。
俺は自動車が嫌い。急に大きな音を立てて発進し、俺のすぐ側を猛スピードで走り抜けるから。まるでお化け。
他にもなかなか好きになれないものが、黎明の世界には沢山ある。
例えば、この異常な人混み、繁華街や商店の混雑ぶり。妄執が絡み合い、邪霊が跋扈する。
だが、人々は鈍感だ。この世界の人々は邪霊を視る能力が乏しく、横断歩道で自ら邪霊に突進していく。その結果が事故死だ。
俺も最初は交差点で邪霊を吹き飛ばしたりしていたが、キリがないから止めた。
「うわあっ…!」
俺は大きなダンプカーにクラクションを鳴らされた。
ウィンカーも出さずにいきなり左折しようとしてきて、気付くのが遅かった俺は、あの厚いタイヤと塀の間に挟み込まれるとこだった。危ねぇ。
ダンプカーや配送の大型トラックは本当に怖い。車体だけじゃなくて音も大きくて、そんなものは俺が居た世界に無かったから、見るだけでゾッとする。
次に戸惑ったのは地下鉄だ。
地下って、感覚が何か狂う。大人の俺が迷子になりそうになる。
交通パスを使って改札を通る時も、すごく胸がドキドキする。
ホームに立っていたら、風がゴーッと唸りながら吹き付けてきて、電車が入ってくる。電車、でけぇ。
電車とホームの隙間が地割れみたいで怖い。扉の閉まる音や、警報も怖い。車内アナウンスは面白い。
バスは面白い。こうして知らない人同士が乗り合い、老人に席を譲ったりしているのも、人間観察していると面白い。
なんやかんやで大学に着いた。
俺はポケットに右手を突っ込み、学生達に混じって正門から入っていく。
風が吹き、俺の髪を揺らす。かつて嗅いだ風の匂いと違う…。
擦れ違う学生が立ち止まり、俺を見た。
「あれ? 黎明…」
黎明の高校の同級生で、今も同じゼミの渡辺ダイキが口を開けたまま停止した。
俺はダイキの前を素通りする。
ダイキは俺を無言で見送り、友人を振り返った。
「ユウタ。今の……黎明に似てるけど…何か…違う?」
「黎明だよ。ダイキ…。…雰囲気がいつもの黎明と別人みたいだったけど…」
我孫子ユウタも声を掛けられず、俺の後ろ姿を見送った。
無垢材を多く使った広々とした講義室。まだ新築同様でとてもきれいな施設だ。天井が高いのに暖房がよく効いている。
俺は講義室の一番後ろの席にリュックを置いた。ここが黎明のよく座っていた場所。黎明の匂いがする。
俺が椅子を引いて座った瞬間、誰かが机をバンと叩き、手を着いた。
「黎明っ。桃井虹の写真集さぁ…、持ってきたか?」
我孫子ユウタがニヤニヤしていた。
俺は黎明の記憶を探る。こいつは黎明の友人、ユウタ。
桃井虹の写真集にはライブイベントの抽選券が付いていた。昨日が当選番号の発表日だったらしい。
桃井虹? あれか。アイドルってやつ。
俺は黎明のデスクに置いてあった、ビキニ女の写真集を思い出した。
「ああ。あれ。捨てた」
俺は素っ気なく答えた。
ユウタは顎が外れそうなほど大きな口を開き、
「捨てたぁー⁉ なんで⁉ 俺達の永遠のアイドル、桃井虹の写真集だぞっ‼」
ショックの余り、腰を抜かしそうになった。
「ああ。あんなつまんないもの、捨てた」
「つまんないって…、黎明…。ライブの抽選は当たってたのか? どうなんだよ‼」
ユウタが怒り出す。
反対側から挟むようにダイキが俺の隣の椅子に座り、
「黎明、どこに捨てたんだよ! 今日はゴミの回収日じゃないから、今なら間に合うかも! 俺とユウタは抽選外れたんだよ! 残る希望は黎明だけなんだ!」
俺に弥郡の可燃ゴミの回収日を確認させようとした。
何言ってんだ、こいつら。
ちょうどチャイムが鳴り、女講師が入ってきた。
黎明は将来の希望を何も思い描けずに、ギリギリの成績で大学に入った。高校で仲が良かったユウタとダイキは今も一緒。
二人は俺の両隣でリュックを開く。
彼等は成績の悪い黎明をサポートしてくれる貴重な友人だ。彼等も中の下くらいの成績なんだが。
黎明がこの世界に帰ってくるかどうか、俺も知らない。
俺はこの大学を卒業せずとも良かった。このまま休み続けて、黎明が退学になってしまっても、俺の知ったことじゃない。
…ただ、この世界の若者の大学生活というものを一度やってみたくなったので、暫く通ってみようと思う。
勉強というものは億劫だ。興味がなければ、何も面白くない。
俺は講義そっちのけで窓からグラウンドを眺め、正門前の白梅の木に目を留めた。
梅も終わりで、次は桜か。
何故か、白梅から七海を連想した。
七海が涙を一粒落とし、
「…私達の弟のよーちゃんは…もう居ないよ…」
呟いた時の姿が印象に残っていた。
夜更け。
俺は翼を広げ、ビルの谷間を飛び回った。
東寺の五重塔の高い屋根の上で翼を休め、京全体を見渡し、しみじみと思う。
俺が育った弥の西海と、環境がかなり違う。
狭い土地に建物がひしめきあい、車や人が混み合って空気が汚れ、緑が少ない。
見渡す限り、民家の屋根とビルとコンクリートが覆う。
この雑然とした中を、人間がせわしなく早足で歩く。擦れ違う相手の顔を見ている暇もない。まるで蟻の群れのよう。
どこもかしこも邪霊の気配がしたが、俺は雑魚に用が無い。
内裏に用があった。
と言っても、簡単に入れる場所でもない。
陰陽寮退魔課が威信を懸け、結界を張っている。あの結界は並大抵の呪いでは破れない。
陰陽寮退魔課は面倒だった。
だが、打つ手もあった。
黎明の父親、人の好すぎる八島士朗。しがない公務員で、職場は神祇官。
中臣氏や忌部氏など名門氏族に阻まれて出世は望めないけれど、俺の目指す宮中にオフィスがあった。
それに、内裏で仕える采女となった七海。
既に、あの女は最高位の男の目に留まっている。
「…っとに、使えるよなぁ…」
笑いが込み上げた。
弥栄邸・龍髭館。
足元が冷たい板張りの武道場に正座し、千歳は床に手を着き、深々と頭を下げた。
「宗家、おはようございます…」
上座で胡坐をかくのは、弥栄流宗家の弥栄千五十寿。黎明と千歳の祖父。
実質、郡大領が地方政治のトップ。朝廷から遣される国司は名誉職。
弥栄氏もその昔は縣主か國造と呼ばれた有力氏族で、一国の統治者だった。
いずれ、弥栄宗家・郡大領の地位に昇る千歳には、名門の伝統を引き継ぐ重圧が伸しかかっている。
広い道場に二人きり、互いの息も響いて聞こえるほど静か。
弥栄宗家が普段より一層重々しく口を開いた。
「千歳…。私は罪深い…。お前に酷な試練を与えねばならん…」
「宗家…」
「千歳よ…。この話は誰にも言うな。おまえの父、千津雄にも言ってはならん。私とお前だけの秘密だ…」
弥栄宗家はおもむろに、側に置いていた日本刀を取り、千歳の前に突き出した。
それは凝った組み紐の下緒が付いている。拵えも豪華。
一瞬、千歳はためらった。
「宗家。それは…鬼裂國津名…」
鬼を縦真っ二つに斬り裂いたという伝説がある太刀だった。
上古刀の逸品。細身で腰反り、優美な太刀で、本来なら国立博物館に展示されていそうなもの。
千歳は祖父の一番大事にしている日本刀だと知っていた。
「千歳。この鬼裂國津名をお前に貸し与える。…もし、黎明が邪神と一体になるようなことがあれば……この太刀で斬れ!」
「宗家‼」
千歳は弥栄宗家の目に苦悩を見た。
弥栄宗家はげっそりとやつれていた。目が落ち窪み、頬がこけて白髪が増えた。
弥栄流退魔道の宗家としてのケジメ。葛藤の末に出した結論だった。
「千歳。剣術ではお前の方が黎明より上だ。退魔師としても、そうだ…」
「そ…、宗家……。黎明は私にとって、弟も同然です…」
千歳は命令を受け入れかねた。
もし、黎明が邪神と一体化し、元に戻ることが出来ないのならば、黎明の巫としての天賦の才がアダとなり、最強の生ける邪神が生まれてしまう。
宗家として斬らねばならない。
しかし、弥栄宗家も老齢七十過ぎ。
それに邪神が孫の可愛らしさで惑わしてくるとなると、到底斬ることが出来ないだろう。
「宗家…。黎明はもう…手の施しようがないんでしょうか…?」
弥栄宗家の出した結論は究極だ。よく決断したと思う。
千歳は厳しい祖父のことを誰よりも尊敬していた。
「千歳、お前ならわかるだろう。…私に黎明の顔をした魔物は斬れん……」
「…承知致しました。それは最悪の場合ですよね? 黎明の精神が勝ち、タタリを為さず…、魂が肉体に戻って来るなら、斬る必要も無い。それと逆に人を殺めたり、災厄を撒き散らしたり、永久に黎明でなくなってしまうなら…………」
千歳の声が最後の部分で裏返り、掠れた。
「もし、そんなことになったら……私が…黎明を斬ります」
宗家の長男の長男という責任感。
感情が空っぽになった。
「行け」
宗家に言われ、千歳がすぐ立ち上がる。
鬼裂國津名を持って龍髭館を出て、弥栄邸の自室へ帰った。
戸を閉めた途端、膝から崩れ落ちた。
「黎明…。俺は…どうしたらいいんだ?」
千歳は葛藤した。




