第2章 ハイエイタス ・ 第1話 ヨリマシ ④
舞殿に近付く黒い靄。
退魔師が邪霊と呼ぶ、邪悪な思念が祭の観光客の首に噛みついた。男の首の後ろに激痛が走った。
「ギャッ! 痛ぇー!」
男が悲鳴を上げたが、周りの人は剣の儀に夢中で気付かなかった。
一瞬で憑りつかれ、男の表情が一変した。
男は精神を乗っ取られ、完全に鬼と化した。
白目を剥き、口の端から涎をダラダラ垂らしながら歩く。
男の肩と上腕の筋肉が盛り上がってゆき、着ていたコートがパンパンに膨らむ。コートの肩がビリビリに裂けた。
「んぐぎぎぎ……んがぁああああ……うぐぶぶぶぅ…ッ…」
両頬の筋肉が吊り上がっていき、歯茎と犬歯を露出した。
「シャーッ!」
突然、獣のように吠えた。
鬼と化した男が獲物を求めて辺りを見回した。
能面のような無表情。いや、能面にこそ見える狂気、妄執が感じられる。
俺の叔父・五百里がその鬼の後ろに回った。
鬼の首に触れ、『風滝』で怨念を弾き飛ばした。邪霊が憑く時は首の後ろから入る。
鬼となっていた男がヒトに戻った。男は失神して倒れた。
陰陽寮退魔課に勤務する叔父の五百里は、祖父の婚外子。祭の日には分家・弥坂氏の若当主として運営に参加していた。
神聖な斎庭を汚す邪霊の群れと、五百里や弥栄流の退魔師の戦いが始まった。
トヨばぁと俺の母・百合、帰省していた七海も参戦して退魔術を使い、鬼文字の赤い護符を飛ばして戦った。
最初、弥栄流の退魔師は穏便に済ませようとした。
三波は笛を吹き続け、千津雄伯父は太鼓を叩き続けた。
トヨばぁは不安に駆られ、中殿に座する息子の顔を見た。
俺の祖父で宮司、弥栄流退魔道宗家・弥栄千五十寿は、落ち着いて祭の進行を仕切っていた。
「宗家…。こんなことが八十年前にもあった…。あの時も祭の最中、鬼が現れて…」
トヨばぁは蒼白で指示を待った。
三波も気付き、笛をふと止めた。
祖父は笛が途絶えた途端、俺の動きが鈍くなるのを見逃さなかった。
「三波、笛を続けてくれ! 母さん、そっちを頼む!」
祖父は三波とトヨばぁに指示を出し、千津雄伯父にも太鼓を叩き続けるよう言った。
笛の音が戻ると俺の動きはよくなり、また邪霊を斬った。
祖父は観光客の集団の中に五百里を見つけ出した。
「弥坂の…! 舞殿に上がった邪霊は黎明と千歳に斬らせろ。鬼化した人を頼む! テレビ中継は止めさせろ!」
「承知致しました…。あっ…」
五百里は返事したものの、間に合わなかった。
鬼化する人が続出した。
男が若い女の首筋に噛みつく姿が、テレビカメラにアップで映った。
テレビの前で男が鬼化し、狼男が満月を見た時のようにブルブル震えながら筋肉と血管を盛り上がらせ、獣の唸り声を発した。
「グゥオオオオオ…ッ…!」
そいつは異形の鬼へ変わり果てた。
若い女の服を引き裂き、腹から腸を掻き出して貪った。
ショッキングな映像が生中継で流れた。
すぐにカメラマンが甲高い悲鳴を上げ、カメラを捨てて逃げた。
中継用カメラがひっくり返り、逃げ惑う人々の足元ばかりが映った。
映像はこの直後、途切れた。
「何⁉ これ、何⁉」
「押さないで! 嫌だ、押さないでよ!」
大宮の境内を、パニックになって逃げていく人々。
ぶつかられた人も何が起きたのかわからなかった。まだ剣の儀を楽しんで観ている人々も大勢居た。
祖父は勅使の手前、何事も伏せたかった。
勅使は何も気付いていない一人だったが、舞殿に上がる鬼化した人達を見て驚いた。
後を追い、五百里と弥栄流の退魔師が数人舞台に駆け上がった。まるで舞うような動きで、鬼化した一般人を上手く引き下ろした。
勅使は演出かと思い、拍手を送った。
「これは素晴らしい…」
五百里達は素早く除霊を行った。何人かはヒトに戻ることが出来た。
観光客の何人かが鬼に噛まれ、大怪我をした。
「ぐがががぎ…ごごぶごごぼぼ……」
「いやぁー、助けてぇー!」
女が逃げようとして石畳に転ぶ。上に被さる鬼達。
「ぐがががぁっ…ぐがぁー!」
鬼達が意味不明の叫びを上げた。
急激に変化を遂げた鬼が、首の長い獣になって四ツ足で走り回った。
鬼達が転倒した女の厚い冬服を引き裂き、口から精気を吸った。女の顔と全身が老婆のような皺くちゃになっていく。
別の鬼達はゾンビのようにギクシャクと奇怪な動きで行進した。
斎庭が鬼の狩り場となっている。
懐からナイフを取り出した鬼も居た。
特別席に居た他流派の退魔師の一人が前に飛び出し、鬼のナイフを笏で叩き落とした。
中殿と舞殿は白目を剥いた鬼に取り囲まれた。異様な波動で建物が揺れるようだった。
「早く何とかして下さいよ、弥栄宗家!」
高みの見物するつもりだった先刻の他流派退魔師。
突然、烏が飛来して、黒い纓の冠を嘴で突いた。
何と、冠が落ちて髷が丸見えの恥ずかしい状態に。
祖父は勅使の首をいきなり柔術で締め落とし、一瞬で気を失わせた。
「もう埒があかん。戦え、全ての退魔師よ!」
祖父が叫んだ。
弥栄宗家の許可が出た。全退魔師が戦闘モードになった。
五百里は祭の警固役『刀根』であり、刀の所持が許されている。凶暴化した鬼のうち、もうヒトには戻れそうにない邪悪な鬼を斬った。
剣の儀の間、俺は邪神・多伎と完全に同化していた。
邪霊を斬って斬って斬りまくった。
「全テ、コロス‼」
俺は何度も呟いた。邪霊や鬼が憎くて仕方なかった。
邪霊がひとつも見当たらなくなった時、三波の笛が終盤の旋律に変わった。
俺が演じる『八』が千歳兄の『壱』に敗れるシーンだ。
祭のクライマックス。
やっと、多伎が俺から離れた。
俺は本当に脱力して神剣を落とした。これ以上ないほど自然な演技、いや、演技でなく素の卒倒が出来た。
千歳兄に支えられて舞殿を降りるまで、殆ど意識がなかった。
俺と千歳兄が舞った間、舞殿の下でも十五分ほど死闘が繰り広げられた。俺達が舞を終えた頃、退魔師達の戦いも幕を下ろしていた。
鬼化した観光客は殆どが正気に戻り、何が起きたか覚えていなかった。
百人ほどが一時的に鬼になり、大混乱が起き、数十名の死傷者が出た。
精気を抜かれ、ミイラのような皺くちゃになった犠牲者も何人か出た。
祖父は一瞬で群衆に弥栄流の催眠暗示をかけ、その場を鎮静化した。
テレビに流れた衝撃映像も、今年の演出ということになった。
それだから、俺と千歳兄を包む歓声と拍手は本物で、なかなか鳴り止まなかった。
勅使の藤原美継卿は意識を取り戻し、祖父に喜びを伝えた。
「初めて剣の儀を観ましたが、これほどとは思いませんでした!」
とても感激した様子だった。
舞殿の階段の下に俺の両親とトヨばぁ、五百里、七海達が集まってきた。
「ダメだ。黎明のやつ、力尽きた…」
千歳兄が説明した。
「千歳兄…。俺…、ちゃんと出来てた…?」
俺はうなされるように何度も尋ねた。
千歳兄と弥栄流の門弟達に担架で運ばれ、大宮の隣の弥栄邸まで裏門側から運び込まれた。
祭がアケた深夜、祖父・弥栄千五十寿が怒りに顔を赤く染め、手に日本刀を持ち、
「黎明ぇっ…」
俺の寝ている和室の襖を怒鳴りながら開けた。




