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週明け

 猫の夢を見た。俺は今よりもずっと体も小さく、幼くなっていて、家の近くで一人遊びしていると目の前を猫が通りかかる。子猫のようだった。俺は猫になんて詳しくないはずなんだけど、アメショーだ、などと反射的に思う。正しいのかはわからない。猫はゆっくりと俺を横切り、そのまま歩き去るのかと思いきや、振り返って俺を見る。遊んでくれるつもりなんだ!と俺は嬉しくなり、その猫を撫でようと近づく。しかし猫は触らせてくれず、俺から離れていく。走って逃げるわけじゃない。俺が見失ってしまわないよう、つかず離れずの絶妙な間合いを保っているかのように感じる。俺は隙を見て必ず猫を触ってやろうと、引き続き追いかける。初めは自宅の近所の見慣れた風景を猫のあとに続いて歩いていたんだけど、ふと気付くと知らない道に立っている。知らない家々しかないし、知らない店しかないし、知らない人しかいない。俺がその場で知っていて安心できる相手は、もうその猫のみだった。猫がいなくなったら俺は見知らぬ地に取り残されてしまう。恐ろしくなり、俺は必死に猫を追う。猫は疲れ知らずで、どんどんと歩いていく。俺の方が先に息切れしてしまう。ふくらはぎもパンパンだ。このままだと猫に置いていかれてしまう、と泣きべそを掻きそうになると、しかし猫は立ち止まっていて、俺の息が整うのを待ってくれているようだった。そうやって猫と共に歩いていくと、やがて住宅街が終わり、眼前には森が出現する。恐怖心は今更なかった。住宅街が既に見覚えのない様相だったし、それが森に変わっただけで、その点に関して恐さは感じなかった。ただ、いつ終わるのかがわからない。俺はいつになったら家に帰れるんだろう? 来た道なんて覚えているはずもないし、俺はもうこの猫に頼るしかないのだ。この猫の善意に賭けるしかないのだった。森の中を歩き、何の気配も感じない森を猫と黙って通り抜け、俺達はまた見たことのない街に出る。俺の記憶の中のどこにも掠りもしない街だった。記憶の欠片にもない街だった。何かの面影すら感じない街。だけど、なぜだか、安らかな気持ちになる。俺はこれからこの街に住むんだ、と根拠もなく思い、猫を見遣る。と、猫は街に差し込む光の中に溶け込んでいこうとしている最中だった。ありがとう、と言うべきなのかは不明だったし、さようならと言うべきなのかも定かじゃないので、俺は無言で猫を見送る。猫はけっきょく俺に指一本触れられることなく、その前に光の中へと消えていく。


 週明け、芳日高校の廊下を一人で歩いているところを檻本さんに見つかり、捕まり、連れていかれる。そこは奇しくも凛音と暫定恋愛の契約を結んだ空間だった。


 俺は檻本さんとの約束を急遽キャンセルにして以来、ここ一二日、申し訳ないし気まずくて連絡を取っていなかった。


 檻本さんがまず「おはよう」と挨拶してくる。相変わらず黒髪がとぅるんとぅるんで、可憐としか言いようのない愛くるしい表情を浮かべている。「凛ちゃんちの猫ちゃんが亡くなったんだってね。そんなことがあったんだったら、言ってくれればよかったのに。博希くんの身に何かあったのかって、心配してたんだから」


「ごめん」どうやら、あのあと凛音が檻本さんに事情を説明し、俺のケツを拭いてくれていたようだ。「凛音が大泣きしてて、それを差し置いて遊んでるわけにもいかないなと思って……ごめん。すんません」


「いいんだよ」檻本さんはゆるりと首を振る。「ずっといっしょに暮らしてた猫ちゃんだもん。悲しいに決まってるよ。博希くんにしても、友達がそんな状態だったら、傍にいてあげるのが当たり前だしね?」


「檻本さんとの約束が先にあったけど、見過ごせなかった。ごめん」

『博希くん』って呼ばれていたっけな?俺……と戸惑いつつ頭を下げる。


「ホントにいいんだよ? 怒ってないし、そんなに謝らないでー」檻本さんがむしろおろおろしてしまう。「博希くんが優しい人で、なんだかわたしまで嬉しくなっちゃうなあ」


「この埋め合わせは必ずするよ」今度こそ約束する。「なんなりと、なんでも言って」


「そんなこと言っちゃっていいのかなー。知らないよ? そんなに下手に出られたら、わたしも大胆になっちゃうかも」檻本さんはイタズラっぽく笑ってから「なんちゃって」と舌を出す。「じゃあ、次こそは遊んでほしいな。それでチャラにしようよ」


「……まだチャンスをくれるんだ?」


「チャンスって、博希くんにチャンスをあげてるわけじゃないんだけどなーわたし。ふふ」檻本さんはほんわり笑い「お預けされて、焦らされちゃったから、余計に博希くんと遊ぶの、楽しみになっちゃってる。責任取ってね?博希くん」


「責任……」ごくりと唾を呑まされる。檻本さんの内心はやっぱり俺には読みきれない。「檻本さんは、どうして俺なんかにそんなグイグイなの?」


「ふふ、グイグイかな?」


「凛音の友達だから?」


「そだねー」終始にこにこな檻本さん。「いずれ教えてあげるね? 教えてあげないかもしれないけど」


「なに?それ。怪しい感じ」


 俺が苦笑すると檻本さんも笑う。「博希くんと仲良くしたいのは本心だよ? 本当の本当の本当に、怪しくなくって、仲良くしたいよ?」


「ありがと……」


「どういたしまして」


「…………」

 約束通りに檻本さんと遊んでいたら、どんなことが起こっただろう? 檻本さんは意図的に俺を弄んでいるというかからかっているというか、俺に思わせぶりなので、なんだか感情がバグってくる。檻本さんと並んで歩くのは面白そうだと思い、だけど恐ろしそうだとも思う。怖いもの見たさ……のような感覚に陥る。


 例の中学校時代の恋の話、四股されていた上に、最後は檻本さんが勝利したんだね……と突っ込んで訊いてみたい気もしたけれど、檻本さんとしてはそこまで教えてくれなかったわけだし、俺からその話を振ると凛音が喋ったことがモロバレになってしまうので、すんでのところで思いとどまる。檻本さん自身も一対一で付き合い始めて一ヶ月しか継続しなかったらしいので、どっち道、先輩はろくでもない人間だったんだろう。だとしたら、早めに別れることができてよかったのだ。


「ふふ。博希くん、何か言いたそう」と檻本さんが微笑む。「なあに?」


「あ、いや、なんでもないよ」俺は目を逸らし、視線を天井へ逃がす。


「なんでも話してくれたらいいのに。凛ちゃんみたいに。凛ちゃんにそうしてるみたいに」


「話すよ」と俺は意識的に素早く返す。「今は特に話すことがないだけ」


「次に遊ぶときは、いっぱい話そうね」


「そうだな」


「うん」檻本さんはこくりと頷き、「じゃあ、お説教タイムは終了~」と伸びやかに言う。「教室戻ろっかー」


「お説教だったの!?」


「ふっふー。冗談冗談。お説教なんてしなかったでしょー?」


「しなかった……」


「うん。だから、解散ー」


 解散だった。俺は檻本さんに解放されて一年四組の教室に帰還できる。どこにいたのやら、他所の友達と駄弁っていたのか、後方から凛音が「どーん!」とぶつかってくる。


 俺は衝撃を浴びせられる。「おわ」


「京架と密会してたね」と凛音が当て擦るのと、俺が「檻本さんに拉致されてた」と報告するのがほぼ同時。


「ふん」凛音が教室内にも関わらず、後ろから俺を一瞬だけ抱く。戯れだと言い訳しても通用するほどの瞬間だったが、間違いなく抱きつかれる。「……もう京架には負けてあげない」


「へえ!?」


「ううん」と言いながらも、「博希は私の大切な人だから、簡単には渡さない」と宣言してくる。


 先日はそんな感じじゃなかったんだけど……と俺はまた思い、でもまあいっか……と受け入れる。


 暫定だけれど恋人であり、恋人ってのは人生のそのときそのときで確実に、相当上位に食い込んでくるような大切な相手だ。暫定だろうがなんだろうが、俺は凛音の彼氏で、凛音は俺の彼女なのだった。少なくとも、人生の今このときにおいて、もっとももっとも大切な人。

 だから俺は、まあいっかと思うのだ。彼女の気まぐれに付き合うのが彼氏だ。

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