ふたりの青 1
朝起きたら東京が壊滅していた。俺のじいちゃんがしょっちゅう言っていた。もう五十年も前のことらしい。当時二十六歳とか。その時は大変だったそうだ。経済は止まり、流通もなくなった。デジタル機器は使い物にならなくなり、歴史時代へと元通り、何よりも人が大勢死んだ。被害にあったところから避難した先には人がごった返す。そこをもう一度狙う。
東京に限った話ではなかったらしい。世界各地で同じようなことが起きていたという。首都を攻撃して、それに対して報復をして、その繰り返し。
こういう時に、田舎は強い。そもそも人が少ないところは標的にされにくい。自然と標的とならずに放置される。自分たちで育てた作物を食料にしたり、売って金に変えていたのだから、生物として生き延びるためのノウハウがある。自然と生き延びられる。もはやこの生活のほうが人間には適しているのかもしれない。政治をして、統治して、気に食わなかったら殺して、そのやり方があっていないんだと思う。別に人間だけが同種族で殺しあうわけじゃないらしいが。あほらしい。ただ統治する人間がいることで俺の町のように自生できているし、文化も守られてきている。学校も小、中、高に次いで大学も存在する。一定の文化レベルは維持できるのもそいつのおかげであるのがどうも悔しい。
地球環境も大きく変わったらしい。新型の兵器による大きなエネルギーのせいで地球は温度が高くなり常に水分が雲や煙を成せるほどになった。世界各地で落ちているのだから別に不思議ではない。夜に月が光っているのは雲の上からでもぼんやりと見えるけれどその真の姿を拝んだことはない。星なんかは見えない。星座はもちろん作れない。
じいちゃんが言うには空も本当は青色なんだって。写真で見たこともあったけれど色あせていてまるで青とは言えない色をしていた。もはやクッキーを焼いた色だった。
写真ではなくて絵なら青を得られるかもしれない、ということで町の博物館に連れて行ってもらった。その時はイベント展示をやっていて、しかも「戦前展」ということで約五十歳の絵が展示されていた。高く赤いタワーの切り絵や風に吹かれている女性の絵などいろいろあった。そこまで乗り気で来たわけじゃない俺はやや流し見だった。足が止まったのはある一枚の絵だった。
美術の時間で、外の景色を描きましょう、というお題があった。絵が得意ではない俺はその辺に咲いていた白いコスモスを描いた。できない割には、土は濃淡をつけて表現して、葉脈をぼかすように描けたと思う。一番難しかったのは花だ。形はもちろん、空が白ないしグレーをしているから花が目立たない。同化する。輪郭を描くのも黒が目立ちすぎる。だから難航した。仕方なく背景を校舎の壁のクリーム色にした。意外にも悪くなく緑と、茶色とそして白と調和がとれていた。一輪の花がおとなしくおままごとをする子供のようなかわいらしさを帯びた。
だからじいちゃんの言った通りの青い空を背景にして描かれた桜の花の絵を見たときは衝撃だった。戦争が始まる前の貴重な絵だった。争いの無かった世界にはこんなに生き生きとした、今の世界には似つかわしくない桜の演舞を見ることができたのか、と。
俺の受けた衝撃とは逆に、じいちゃんは懐かしいはずの景色を見て、じいちゃんは悲しそうな顔で
「本物はあれよりももっと透明感がある。言葉では表せない何かがある。俺を虜にした何かがこの絵にはない」
と言っていた。もう一度でいいから雲や煙一つない空を見たい、と言っているうちにおととし寿命で死んでしまった。話を聞いていた時もそうだったがあの絵以上のきれいな青を俺には想像ができなかった。想像できるほどの感動を持ち合わせていなかった。
なんだかんだ生き延びて俺は十五歳になった。高校受験は、ない。自由だ。




