憧憬
――久しぶりに口にいれるものなら、饐えた固い黒パンでも十分だった。
安宿街の裏路地に駆けこむなりパンをむさぼるその少年を、ぽつぽつと散らばって身を潜める浮浪児たちがどんよりとした目で見た。彼らには次の展開が読めていた。
「この盗っ人め!」
角から飛びこんできた男が少年を蹴飛ばす。弱々しく地面に倒れこんだ少年を、男は何度も踏みつけにした。
「ウチだって商売でやってんだよ! タダでくれてやるものなんかねぇ!」
少年はかろうじて頭を守りうずくまる。じっと耐える彼の耳に別の声がした。
「もうやめなさい。お代はこれを」
「なんだアンタ。そういう話じゃないんだよ。このネズミは――」
「わかったから。もう行きなさい」
「……っ」
声を荒げずとも有無を言わさぬ雰囲気だった。パン屋のものらしき足音が遠ざかる。少年のぼやけた視界に大人の手が差しのべられた。
「君はとても美しい目をしているね。一緒に来なさい」
少年はごく自然にその手を取った。
それから彼の世界は一変した。はじめて足を踏みいれる大きな建物での集団生活。雨風をしのげて三食用意された毎日は夢のようだった。彼を裏路地から連れ出した男は「先生」と呼ばれていた。
「日々の糧は聖獣から与えられるもの。御神との約束を守り、私たちは勤勉であらねばならない」
先生は少年にそう教えた。自身に救いをもたらした信仰に憧れた少年は、やがてそれを説く立場を目指した。厳しい修道も神に仕えるためなら苦ではなかった。
「テオドア……君はその名の通り、美しく素直な子だ。御神が私に与えた特別な子だ」
ある夜、少年のベッドに忍びこんできた先生はそう言った。
「そして、私に課せられたのは迷える君を導くこと」
少年はじっとりとした手つきに抵抗したが、先生は彼をなだめた。
「未熟な君にもそのうちわかる。これは御神が示した特別な関係なんだ」
夜が明けて、ひとり目覚めた少年は猛烈な吐き気に襲われた。震える身を抱きしめると、古い傷跡に指がふれた。細く腫れあがった鞭痕らしい。
――あれ、これっていつからだっけ?
✧ ✧ ✧
時が過ぎ、神殿入りしたテオドアが目の当たりにしたのは、信仰からかけ離れた現実だった。
「あいつが上級神官になったのはコネだ。神学校もまともに出ていないくせに」
「████神官が次席神官に選ばれた。一般修道士からなんてはじめてじゃないか」
「どうせ見せかけの改革だろ。上層が世襲じゃないと見せるための飾りで、次席だとて実際は他の副神官の言いなりさ」
ハンティントン建国神話で語られる兄弟のうち、神官になったとされる弟。大神官は弟の子孫である一族の世襲であるがゆえ、根深い選民意識を抱えていた。王家と並び600年以上にわたり権力を独占してきたとなれば当然といえる。大神官一族やその分家と、他の神官の間には暗黙の境界があった。上級神官は一族にすり寄ろうと必死な者ばかり。
一方で、下級神官たちの間でも、教義の解釈や出身門派など何かと理由をつけた対立が絶えなかった。テオドアの耳には主に、「あいつは孤児の出だからうんぬん」といった陰口が届いたが、教徒を前にすれば、彼らを導く使命が強く胸を打った。
しかし、彼はついに決定的な腐敗を知った。
「聖議会が戒律を追加しただと?」
管轄の上級神官たちが話していたことだ。
「戒律違反の定義を勝手に増やして、免罪符を売りつけるためか」
「そうだろう。金で『勤勉』を買うように仕向けるなんて……」
「免罪符を持たない貧民はさらに困窮するんじゃないか。心配だな」
テオドアは彼らの言葉を背に礼拝へ向かった。神殿の堕落には落胆したが、信仰そのものはゆるぎない。
――未熟な者に御神の思し召しは理解できないのだろう。私は聖獣に遣わされた特別な存在なのだから。
「……私は迷える者を導けばいい」
それでも救えない者なら――……。
✧ ✧ ✧
「何をするテオドア!!!!」
次席神官は失った腕を押さえ激昂した。シャノンはルシナのそばから立ち上がり、細剣を次席に向けると淡々と言い放った。
「神罰です。聖獣が誓約を結んだのはハンティントンの血です。貴方ごときが誓約を上書きしようなどとおこがましい」
「裏切ったのか!」
「裏切り? 私は次席に忠誠を誓った覚えはありません」
隻腕となりバランスを崩したのか、次席は尻もちをついた。血だまりの上で這うように後ずさる次席を、シャノンはゆったりとした歩みで追った。
「やはり信仰など口先ばかりでしたね。腐った上級神官が消えたと思えば、残った貴方に入れ替わっただけでうんざりしましたよ」
カチャ、と刃先が次席の喉につく。
「私が忠誠を誓うのは聖獣だけ。白い鹿は愚か者や怠け者には恵みをもたらさない。御神の思し召しに従い、救いようのない愚か者には……」
「ま、待て。わかっ――」
美しい弧を描いた一振りが、次席の首を刎ねた。
「死を」
そこからは早かった。ほとんど丸腰の神官たちはシャノンの手によってあっさりと散っていった。
「……シャノン様」
ルシナはへたりこんだまま惨状にあっけにとられた。静かな聖域には、泉の水音と瀕死の息づかいが混じる。
「ルシナ王女殿下」
ルシナの元に向かってくるシャノンは、赤い返り血を浴びてなお気品があった。安堵と緊張――ルシナはなんと言えばいいかわからなかった。
「ご無事ですか」
「……ええ」
「あれらの戯言は真に受けないでくださいね」
「……でも……それでも……王家が民に嘘をついてきたことは本当なんですよね」
「それは一面的ではありませんか?」
膝をついたシャノンをルシナは戸惑って見あげた。彼はルシナの両の手をあたたかく包む。
「事実、ハンティントン家は誓約を守り続けることで国に繫栄をもたらしました」
――この手、この声、この瞳。心地いい。この感じ、なんだっけ。馬車の中、鹿の瞳……。
――だめよ。戻らなきゃ。あの人のところへ。
ルシナの胸の小さな警鐘は、波のような安らぎの奥に沈んでいく。
「はじまりは罪だったかもしれない。けれど、ハンティントンの血こそが聖獣と人が繋がった証です。そして……その証は今、貴女しかいない」
「私……」
満ち足りた顔で微笑んだシャノンは、ルシナの指先に――口づけた。
「こうして貴女にふれるのを望んでいました。私の聖女」
✧ ✧ ✧
「よぉ、聞いたか、閣下。お前の処刑、明日らしいぜ」
牢番がある独房の鉄格子を音を立ててゆらした。アストニア城の古い城塞部に設けられた近衛詰所には、拘禁区画が隣接している。
「軍部はお前をさっさと切り捨てたんだな。ま、王様を殺しかけたんだから庇えないわな」
うす暗い房内には、両腕を横木にそって縛られ吊るされたコーネリアスの姿があった。すでに相当痛めつけられた後だとみえる。
「……」
「元気ねぇな。客が来てんだから愛想よくしな」
ザッと土を踏む乱暴な足音がすると同時に、半地下の独房が淡いオレンジ色に染まる。外で雲が晴れたのだろう。高い位置に据えられた細長い小窓から日が差しこみ、現れた近衛騎士を照らした。
「『騎士が陛下を斬ろうとした』とか言ったらしいな。近衛を下に見ている軍部様らしい言い訳だ」
牢番が鍵をあけると、騎士は鉄格子を押しやり房内にズカズカと入った。引きつった笑みを浮かべた騎士が、コーネリアスの髪を掴んで泥にまみれた顔を上向かせた。横木を吊る縄がきしむ。
「貴様が偉そうにできるのも今日までだが……」
言葉を切った騎士は、コーネリアスの無防備なみぞおちを殴りつけた。
「うっ」
「見納めだと思うと残念だよ!」
石壁に反響する鈍い打音は、長い間止まなかった。
✧ ✧ ✧
――自分が幻覚を見ないなんて、とんだ思いこみだ。なんて油断をしたんだ。
腫れた顔のコーネリアスは、変わらず房で吊られたままだった。牢番は交代の時間らしく、近くに人の気配はなかった。この隙に拘束を抜けだそうともがくが、きつく縛られた手首に血がにじむだけで、縄がゆるむきざしはない。小窓の外から差しこむ光は夕日の色をしていた。
「……っ、くそっ」
早くルシナの元に行かないと。まだ生きていてくれ。
ふいに、独房をかろうじて照らす光がフッとさえぎられた。瞬間、何かが飛びこんでくる。静かな翼音。コーネリアスの肩に留まるカササギ。
「おー、いい気味だね、大佐」
細い窓から房を覗いてくるのは、赤毛の少女だった。
✦ つづく ✦




