誘拐未遂でチーン
「クソッ」
年かさの男は、悪党といえどいさぎよくていい判断力を持っている。こういう系の悪事を生業とする彼らは、こういう不測の事態にも慣れているのだ。
「行くぞっ」
彼は、エレンとドナルドをわたしの方へと突き飛ばした。それから、地面でうめき声を上げている仲間を抱え、走りだした。わたしが最初にふっ飛ばした男が、その彼らによろめき続く。
逃げることにも長けている彼らは、クラリスと警察が走ってきた頃には消え去っていた。
「エレン、大丈夫だった? ドナルドは? ケガはない?」
未遂に終わったとはいえ、この一連の誘拐劇は素人にとってはショックだっただろう。
両膝を折ってドナルドと目線を合わせた。それから、エレンを見上げた。
「いったいなんだったのかしら? いまのだれかしら?」
エレンは、キョトンとしている。
彼女は、いまでもまだ事態の把握ができていないらしい。
(まっ、いいんだけどね)
彼女がある意味バカでよかった。ムダに恐怖や不安を味合わずにすんだのだから。
「ドナルド、あなたは?」
母親からその息子へと視線を転じた。
「面白かったよ」
そして、息子はやはり母の子だった。
ドナルドは、可愛げのない顔に二カッと笑みを浮かべてあっけらかんと言い放った。
(まっ、いいんだけどね)
可愛げのないムカつく子どもとはいえ、彼はまだ四、五歳の子どもである。そんな小さな子どもにトラウマを与えずにすんでよかった。
ということにしておくとする。
(でも、この子は大物になるかも)
ちょっとだけドナルドを見直した。
「シヅ」
クラリスもホッとしたようだった。
結局、警察は誘拐未遂犯たちを見失ったらしい。
だけど、未遂で終わったからよかった。
そんなハプニングに見舞われた一日だった。
が、その一日はエピローグにすぎなかった。
つまり、これから起こる人生史上最大のハプニングの前哨戦、いや、それどころか序章の最初の一文にすぎなかったのである。
違う。このときのハプニングのときには、すでに物語にどっぷりつかっていたのだ。
このハプニングのほんとうのはじまりは、「血みどろの森」に少佐がやってきたときからかもしれない。
いいや、それも違う。
ほんとうのはじまりは、死んだはずの夫ベンとの出会いからだった。
いまにして思えば、彼と出会ったときにはじまったのだ。
ハプニングという名のこの物語は……。




