五
「――そうなんだ。一緒に住もうと思う」
『本当に? 嬉しいわあ!』
「まあ、ちょっとすぐには無理だけど、もう少し待って」
『ええ、待つわ。楽しみだわあ!』
「それじゃ」
由衣は電話をきった。
あれから数日後、由衣は母と一緒に住む事にした。早紀との生活には少し飽々してきたところだし、とりあえず父が入院している間だけ一緒に住んで、その後どうするかは、また追々考えていけばいいだろうと思った。
まだ決めてはいないが、宣子にはマンションに来てもらう事を提案するつもりだった。そして弟の善彦は、実家でひとり暮らしをさせる。あのニートも強引にでもそういう事をやらせておかなくては、将来きっと困る。今のままだと、両親が積極的に行動させないので、本当にひとりになった時、生きていけないだろう。善彦のためでもあるのだ。
今日、宣子は病院に行ってくるらしい。が、叔父の角川慎介夫妻が見舞いに行くらしいので、それに乗せて行ってくるらしい。だから今日は車を出してくれなくていいと連絡してきた。
「ミツさん、結構大丈夫そうで何よりだよ」
慎介は、ベッドのそばにあったパイプ椅子に座って、笑顔で話した。
「うん、今日は体も痛くないし、気分もええよ」
光男もわずかに笑顔を見せて言った。
「あの、新種の癌だってね。あれ完治率すごく高いらしいから、その点では本当によかったよ」
「でも、結構辛いんでしょう?」
慎介の妻、晶子が言った。
「痛み出すと辛いらしいねえ、でも治るんならある程度は、止むを得ないね」
「そうなんだ。それに、今日みたいに全然調子のいい時もあるんだ」
相変わらず表情の乏しい光男は言った。
しばらく雑談をして、少し間ができたところで、慎介は時計を見た。そして「そろそろ昼だね。一階のレストランで何か食べて帰ろうかな」と、妻の方を見て言った。
「そうねえ」
「宣子はどうするんだい?」
「兄さん、ちょっと先に行ってて」
「わかった。じゃあ、ミツさん、それじゃあ」
「ああ、今日はありがとう」
宣子は、光男を見ると笑顔になった。
「お父さん、実はね。由衣ちゃんが一緒に暮らしてもいいって」
「由衣が?」
光男は驚いた。由衣はあまり両親と一緒には住みたくないと、傍目にもわかるくらいだったからだ。ましてや、春頃に友達の女性と一緒に住んでいるはずだ。
「どうして、そういう話になったんだ?」
「入院して家に私と善彦だけでしょ。それで、少し寂しいと思って、由衣ちゃんに聞いてみたのよ。それで、一緒に暮らそうって」
宣子は嬉しそうに話している。
「――お前、本当にそうするのか?」
じっと聞いていた光男は、どうやら驚いている様だった。しかし、宣子はそんな事は特に気にしていない。
「もちろんよ。あの白鳥さんという子も、一緒に住んだらいいわ。せっかく由衣のお友達だし、感じのいい子だし」
「……そういうわけにもいかんだろう」
「どうして?」
「他人だぞ。その子がどういう人かはともかく、そんな簡単にいく様な事じゃあなかろう」
光男の言う事は、確かにその通りだった。よく知りもしない……ましてや、嫁いできた息子の嫁と言うならまだしも、ただの娘の友達と言うのでは。
「かと言って、その子を追い出す訳にはいかんだろう」
「言いたい事はわからなくもないけど、とりあえず、今の入院している間でやってみようと思うのよ」
ニコニコと嬉しそうに話す宣子。
「お父さんも退院したら、由衣ちゃんと一緒に住んだらいいと思うわ。家族で済むのはいい事よ」
「……わしは一緒には住まん」
光男は、宣子を見て言った。
「どうして?」
宣子は不思議そうな顔をした。
「やっぱり、それはよくない。お前がそうやって浮かれとるのもだめだが、由衣がそうするというのも気に食わん」
「お父さん……何が嫌なの?」
「何もかも気に入らん」
光男は頑なだった。
「……まあ、今すぐってわけでもないし、よく考えておいてね。じゃあ、私もそろそろ帰るわあ」
宣子は病室を後にした。光男はその後ろ姿を、複雑な気分で見送っていた。
「お母さんが、家に来たらいいんだよ」
「でも、それだと白鳥さんが迷惑じゃないかしら」
由衣の提案に、宣子は早紀の事を言ってみた。しかし由衣は、特に気にしていない。
「早紀は大丈夫だよ。部屋も余っているし」
「それに、由衣ちゃんのマンションに行ったら、善彦はどうするの? 善彦の部屋は?」
これは一番の問題でもあった。由衣は、善彦とは一緒に住みたくない。ただ、由衣にも考えがある様子だ。
「――善彦は実家に住んでもらう」
「え、でも、それじゃ善彦はどうやって生活すれば……」
善彦は、現在無職だ。アルバイトもやっていない。ハローワークにも行っている様子はなく、仕事を始めようという気は無さそうに思えた。
「どうやっても何も、それで生活できなきゃ、この先、生きていけないよ」
「それは……でも善彦は仕事もしてないし、困ると思うわ」
「そこで、手を貸してしまうから、一向に仕事をしないんだよ。今のままだと、本当にひとりだけになった時、どうにもならずに死んでいくしかないよ」
由衣としては、ちょうど良いのだった。善彦を親元から引き離す。それによって危機感を持って、仕事をする様になればと考えたのだ。
「……でも」
「でもじゃなくて、今やらないと!」
「でも、善彦も真剣に考えているわ」
「本当に? 正直、当てにならないね」
由衣は一蹴した。
「とにかく、そういう形で行こうと思うんだ。いつからにするのかは、もう少し考えようと思う」
由衣は、二階の方を見た。善彦は二階の自分の部屋にいるらしい。静かだが、何をしているのか。
「じゃあ、また来るから」
「今度はもうちょっと、ゆっくりしていってね。いつも早いんだから」
「……そんな事はないけど」
そう言って、由衣は実家を後にした。
「お母さんは、このマンションに来てもらう事にする」
由衣は昼食の際、早紀にそう伝えた。
「そ、そう。お母様嬉しいでしょうね」
「嬉しいみたいだね。まあ、いろいろあるかもしれないけど、とりあえずは」
唐揚げをひと切れ食べた。早紀の方は見ない。
「それで、早紀の部屋の隣。全然使ってないし、あそこをお母さんの部屋にしようかと思うんだけど」
「そうね。早速明日にも掃除するわ」
早紀は、ぎくしゃくした空気をどうにかするべく、少しだけ笑顔を見せた。しかし、あまり効果はなかった様だ。
「……お母様、私が一緒に住んでいても大丈夫かしら」
「大丈夫だよ。最初は気を使うかもしれないけど。そのうち馴れると思う」
由衣は無表情のまま答える。
「私もうまくやっていけるかしら。それに、お母様が食事は作るのかもしれないわね」
「……どうだろう」
「私はする事がなくなっちゃうかもしれないわ」
そう言って、照れ臭そうに笑った。いつもと比べて少し大げさな印象がある。
「早紀ものんびりしてたらいいんじゃないの」
「ふふ、私、家に居づらくなるかもね。どうせだから、アルバイトの時間増やそうかしら」
「なんでさ?」
「仕事の時間を増やして、お母様と由衣の時間を邪魔しない様にしたいわ」
「そんな事する必要ないよ」
「でもお母様との時間は大切よ」
「またお母様、お母様って、なんなの? そんなの関係ないじゃん!」
由衣は立ち上がって叫んだ。
「ゆ、由衣……」
戸惑う早紀。
「前にも言ったけど、うちの親となんか企んでるわけ? それとも、もうわたしと住むのが嫌になったわけ?」
「そんな事ない。でも由衣。どうしてそういう事をいうの? 何が気に入らないの?」
早紀は反撃した。さすがにここまで言われっぱなしでは、さすがの早紀も納得がいかない。つい強い言葉がでた。
「そこまでいうなら、もうここを出てもいいわ」
「じゃあ、もう出ていったらいいじゃん! どこにでも行って、好きなところに住んだら!」
由衣の言葉に、体が一瞬固まった。
「ゆ、由衣……」
由衣との気持ちのすれ違いが鮮明になり、険悪な空気が漂う。余計な事を言ってしまったと思った。後悔した。ただただ、早紀は早く平穏な時間に戻って欲しかった、それだけなのに。
午後も、お互い会話がない。ずっと無言の時間だけが過ぎていく。
どれだけ時間が過ぎただろうか。そろそろ日が落ちてきて、次第に空が赤らんできた。部屋の照明をつけていない部屋は少し薄暗くなっている。ソファに座ったまま、何も言わない由衣と、窓の前に立って外を見たままじっとしている早紀。
ふいに遠くで、自動車の走る音が大きく響いたそのあと、早紀は静かに口を開いた。
「由衣……。私、ここを出て行くわ」
後編に続く