一
前編のあらすじ
一緒に暮らし始めて三ヶ月ほど経つ、夏の日。ふたりには微妙な空気が漂い始めていた。そんななか、由衣の父が倒れて入院し、母が心労から由衣とまた一緒に暮らしたいと言われた。
早紀は由衣に、一緒に暮らす事を進めるが、誤解や考えの行き違いから険悪になってしまう。
そして……早紀は、由衣の元を去る事を告げた。
「ここを出ていくわ……」
早紀はそう言った。しばらくの間、時間が止まった様な感覚に陥った。
早紀は悲しい表情を隠す様に俯いたまま、由衣のほうを見ないまま、ゆっくりと歩いてリビングを出ていった。由衣と早紀の間には、見えない壁でもあるかの様に、由衣も早紀を見ない。
ずっと、窓の外をみていた。
――早紀が出ていく。このマンションを、わたしと一緒に住んでいるこの場所を、早紀は去っていく。
ふと背中に寒いものが走って、振り向いた。もちろんそこには何もないが、何か大変な事をしてしまった様な、後悔の様な感情が心の奥から湧き出してきた。
――早紀……。
由衣は立ち上がり、リビングを出た。廊下に出て、左側の部屋の前にやってきた。このドアの向こうに早紀がいる。今、部屋の中で何をしているんだろう。何を考えているんだろう。そんな事が頭に浮かんできて、無意識のうちにドアを叩こうとした。
寸前のところでそれをやめると、由衣は反対を向いた。早紀の部屋の反対は由衣の部屋だ。由衣は自室のドアを開けて、中に入っていった。
早紀は、自室のベッドに座った。
――どうしてこんな事になってしまったのだろう? どこで、すれ違ってしまったのだろう。
考えてみるが、わからない。最近、由衣の態度が醒めた感じがしていたのは、薄々わかっていた。
――私はどうしたらいいのだろう?
翌朝、由衣は、電話の音で目がさめた。目をこすり、のろのろとiPhoneを手に取ると、電話に出た。
「……もしもし」
『由衣ちゃん? おはよう。今日ね、お父さんのところに行くから、迎えにきて欲しいのよ』
「ふぅん、わかった」
『十一時までに行くから、十時半には来て欲しいのよ。じゃあね」
「うん」
由衣は電話をきると、時計を見た。十時前である。実家までは三十分くらいかかるので、もう行かないといけない。
由衣は、眠い目をこすって服を着替えた。
部屋から出ると、目の前の早紀をみた。気配がない。今日は仕事の日だから、もう出勤しているのだろう。
――早紀、どうするんだろう。出て行くって……。
ひと晩明けて、少し頭が落ち着いてくると、昨日のは言い過ぎだった様に思えた。そう思い始めると、早紀を見たい、話をしたいと思ったが、今はマンションにはいない。モヤモヤした、ぐずついた気持ちを引きずったまま実家に向かうために玄関を出た。
母を迎えに行って、すぐに引き返して病院に向かう。
「由衣ちゃん、やっぱりうちには来れないの?」
「うん、さすがに実家はだめだよ。はっきり言って不便だし。うちに空いてる部屋があるから、そこを使って欲しいんだ」
「まあ、しょうがないわねえ。由衣ちゃんがどうしてもって言うなら……あの白鳥さんだったかしらね、優しそうな子だし、一緒に住んでもやっていけそうだわ」
宣子はニコニコしながら話している。そんな宣子とは裏腹に、由衣の表情は浮かない。
「……早紀は、出て行くんだ」
「え? どうして」
意外な言葉に宣子は驚いた。まずあり得ないだろうと思っていたからだ。
「……まあ、ちょっとあって」
「何があったの?」
「なんでもいいじゃん」
由衣はそう言って、あとはずっと話さなかった。
光男の病室はもう憶えている。まったく迷う事なく、すぐに病室までやってきた。
「おお、来たのか」
光男はそう言って、先ほどまで読んでいた雑誌を枕元に置いた。
「お父さん、今日はどうなの? 気分は良さそうだけど」
宣子は光男を見て言った。
「今日はいいな。この間は、よくなかったけどなあ」
「よかったわあ」
しばらく他愛ない雑談をしていると、看護師がやって来た。
「あら、ご家族の方ですね。お邪魔しちゃってすいません。これから検温なんですが、いいですか?」
「ええ、じゃあ由衣ちゃん、ちょっとカフェに行ってみようかしら」
宣子は由衣を連れて、一階にあるマホンコーヒーに向かった。この規模の病院には、マホンコーヒーの様なチェーン店が院内に出店している。コンビニなんかもあるし、病院が町の様である。
ちなみにマホンコーヒーは、大阪発の全国チェーン店で、国内では大手になる。西日本を中心に店舗を展開しており、大阪府では五店舗あるという。岡山県には、この瑞正会病院内以外に、もう一店舗ある。
それぞれコーヒーを注文すると、テーブルに座った。宣子はひと口飲んで、由衣の顔をみた。
「ねえ、由衣ちゃん。早紀さん……本当にどうしたの?」
由衣は、内心どきりとした。
「別に、どうでもいいじゃん」
「でもねえ、そういう風には思えないのよ。何かあったの?」
「何かって……別に何もないって」
「何もなかったら、どうして出て行く事になったの?」
「……それは」
由衣は言い淀んだ。
「由衣ちゃん……」
「まあ、いいじゃん。とにかく、そういう事なんだから!」
由衣はそれ以上、もう喋らなかった。
一杯飲んで病室に戻ってくると、もう看護師はいなかった。
「もう検温は終わったの?」
「おう。……そういえば、あれはどうなった? 由衣と一緒に住むとかどうとか」
「それなんだけど……」
由衣が言おうとすると、宣子が横から口を挟んだ。
「私、由衣ちゃんのマンションに行く事にしたのよ」
「そうなのか?」
光男の表情がこわばった様に見えた。
「まあ、とりあえずだけどね」
由衣が言った。
「善彦はどうするんだ?」
「実家に住む事になる。ひとりで」
「それで話を決めてしまっているのか?」
「一応ね。善彦もいい加減ひとりでやっていかないと将来は厳しいと思うのよ」
宣子は、先の事を考えると、今はそうした方がいいという事を、しばらく説明した。
「――そうか」
光男はそう言って、黙り込んだ。
「お父さんの入院が予定通りなら、あと二週間ほどじゃない。とりあえず、この間だけね」
しばらく、何も喋っていなかった光男が、ふいに由衣を見た。
「なあ、由衣。あの……なんと言ったか、白鳥さんだったかな? あの子はどうするんだ。今一緒に住んでいるんだろう」
「早紀? それがどうかしたの」
「お前とふたりだと、友達同士でいいかもしれないが、母さんがそこに入ってくると、やりにくくなりはしないのか?」
なかなか鋭い事を聞いてくるなと、由衣は思った。何か、問い詰められている様な居心地の悪い空気を感じた。
言葉を話せず、沈黙が流れた。が、意を決して口を開いた。
「……早紀はマンションを出るんだ。それでお母さんがくる事になった」




